読書ログ - 読書ファンが集まる読書レビューサイト
こんにちはゲストさん(ログインはこちら) | 読書ログ - 読書ファンが集まる読書レビューサイト →会員登録(無料)
1クリック登録
一クリスチャンとしてのレビューです。キリシタンが弾圧され、迫害されていた江戸時代初期の禁教時代の日本、長崎を舞台にポルトガル人司祭、日本人切支丹、そして体制側の長崎奉行の人間を通し、人間の神に対する「信仰」を問う。ネタバレするとダメなのであまり書けませんが、作中で何度も強調される、凄惨な拷問を受け、あっけなく殉教していく切支丹を前にした「神の沈黙」、ポルトガル人司祭は「なぜ、このような時にもあなたは沈黙しておられるのか」と、何度も訴えているのが印象的でした。私が考えたのは、もし今の時代、自分が棄教を強制され、明日から切支丹は棄教するまで拷問にかけます。という、禁教令が発令された場合、キチジローのように、拷問が恐ろしいからと踏み絵をすぐに踏むような、卑屈な弱々しいクリスチャンになるか、「イエスのために死ねるなら、本望だ!」と、イエスの、人類全てのための殉教に、耽美的な、至上の美を見出し、その大義のために拷問にかかり、自らをヒロイックな幻想で飾り立てて、死んでいくか、どちらかを選択しろと言われたら当然、後者の生き様の方が、殉教者として尊敬される、あるいは「俺は神のために、殉教した! 立派な最期を遂げたんだ!」と、死後、パライソ(作中でもでてきますが、ポルトガル語で、天国のこと。)での達成感も、あるかもしれませんが、イエスは後者のような、「強い人間」は求めておらず、逆にそのくらい「強い人間」は「神が俺に」ではなく、「俺が神に」になってしまう危険性も孕んでいます。イエスはむしろ、キチジローのように弱くて、みずぼらしく、卑屈で、自分が信仰しているはずのイコンである踏み絵もさっさと踏んでどっかにいってしまう、それでも神にすがりついてくる「救いようのない弱者」を救うために、ヒロイックな最期をもってして、人類を救済してくれたのではないでしょうか。クリスチャンであるために、私たちが立派になる必要はありません。 ですから、私が思ったのは、もし棄教を迫られたら、踏み絵を踏んで、権力者から離れたところで「先ほど、私は拷問の恐怖に恐れ戦いて、あなたの顔を踏みつけました。どうか赦しを与えて下さい。」と、祈るのが、クリスチャンの模範といえるのではないでしょうか。私たちが弱くなればなるほど、むしろイエス・キリストは強まり、その御名は光り輝くのです。 >> 続きを読む
2018/02/21 by KAZZ
信じられるものがあるということは強いと思った。救われる人がいるというのが宗教の意味というか、良さであってほしいと私は思う。本文にあるように、神は存在ではなく働く愛の塊なのだから、神はいろんな宗教のなかにある。愛の行動こそ大切であると感じた。 >> 続きを読む
2018/12/22 by asa_chann
【総括】作者の遠藤周作さんの歩んできた人生から描写されている点も多く、すごくリアルで緊迫感が伝わるおもしろい小説だったと思います。200ページぐらいのボリュームなのですぐに読めます。私は戦時中の日本の731部隊(捕虜などを人体実験していた残虐な部隊で、あまり現代に資料が残っていない)がどのような活動をしていたのか興味があり、何かの本で、本書が人体実験について生々しい描写をされていることで有名になったことを知り、今回本書を読んでみました。「はだしのゲン」を読み終わった後のような気持ち悪さや、グロい描写は思ったほど多くなく、どちらかというと登場人物の心理的な葛藤や人間(日本人)の罪の意識に焦点をあて、どのように感情が動いていくのかにスポットライトを当てた作品でした。(もう少しグロいシーンがあっても良かったかと思いましたが笑)ただし、著者がクリスチャンということ、満州に住んでいたことを思えばかなりリアルな描写でサスペンス映画を見ているような緊迫感があって非常に面白い作品だったと思います。すごくオススメです!(731部隊や本書で登場する医師達が取った残虐な人体実験の結果データは現代の医学の発達に非常に役立っていると言われていますが、敗戦した日本はそのデータを全てGHQに取り上げられ、その後の医学の分野ではアメリカに劣ってしまったようです。その辺の歴史の真贋はわからないですが、知りたいですよねー。どなたかそのような史実をご存知の方がいれば五ご紹介いただけますと幸いです。) >> 続きを読む
2019/01/31 by べるさん
キリスト教って?と思って、聖書を読んでみました、というか読みかけて挫折。旧約聖書はユダヤ教(キリスト教も共通)の話らしいけど、何だか神様は怒ったり脅したりで恐ろしいし、物語もダラダラ続いてよく分からないし、・・・早々に挫折。新約聖書はイエス様の言葉が、優しさに満ちた良い言葉がいっぱいなんだけど、やっぱり物語がよく分からないし面白くない。・・・挫折。世界で超有名な”キリスト教”って、実際どんな教えなのか、キリスト様ってどんな人だったのか・・・遠藤周作さんのこの本を読んで、やっとユダヤ教とキリスト教、イエス様のこと、キリスト教というのは何なのか、何となく(ちょっとだけ^^;)分かったような気がします。もっとも、これは遠藤周作さん個人の解釈ですが、日本人にはとても腑に落ちる。イエス様は、苦しみ悩む弱い人たちに寄り添い、”神様はどうして助けてくださらないのか。なぜ神は我々を見捨てるのか”と絶望しかかっている人たちを救いたいと思った。そして、大衆が感じている”怒り、裁き、脅す神” ”父親のような厳しく怖い神” ”沈黙の神”に違和感を覚えていた。そして、彼は、神とは実は”愛にあふれた方”なんだ、”神の愛” ”愛の神”を信じる。(当然神様は信じてる。神様を信じるというのは大前提の社会、神を冒涜すると死刑の時代)大衆はイエスを、地獄のような現実やローマ帝国の支配から救ってくださる救世主だと期待するが、イエスはそうではなく”神の愛””愛の神”をみんなに証明したいだけ。その証明の方法が、(神を冒涜しているという罪で、実際は政治的に利用され)十字架にかけられて無抵抗で無力にも死ぬことだった。(ゲンキンな)大衆は期待はずれだと怒ったけれど、(彼を裏切り見捨てた弟子や)すべての人間の”罪”を引き受け、すべてを赦し、すべてを神にゆだねて・・・。 「父よ、彼等を許し給え。彼等、その為すことを知らざればなり」・・・みたいな?イエス様は本当にやさしく愛に満ちたよい人だった。そしてあくまで神を信じていた。一生懸命に”神の愛””愛の神”を伝えたんですね。自分の命をかけて・・・。聖書の内容も、実は何人もの聖書作家が色々な資料やら伝承やらを参考につくってるので、事実とはちがうところや矛盾が多いらしいです。キリスト教は、キリストが十字架で殺された後、やっと彼の真意に気づき、心を打たれた弟子たちが広めたものらしいです。西洋の歴史的政治的な背景があってのユダヤ教、キリスト教みたいです。なので、日本人には色々と細かいところや腑に落ちないところもあってなかなかなじめませんが、ただ、キリスト様の”愛”は真実で普遍的なものだと思います。(”慈しみ”の心はあらゆるものに打ち克つ、キリスト教の”愛”もそういうものなのでしょうね、きっと。) >> 続きを読む
2016/06/13 by バカボン
(「ジャン・クリストフ」の中に”ジャンヌダルク”が出て来たので気になって”フランス革命”が題材になってる本を読もうと思い「ベルサイユのばら」を借りたんだけど(マンガだし)2巻が貸し出し中で1巻しか読めず、遠藤周作の「王妃マリー・アントワネット上・下」を読みました。でも、”ジャンヌダルク”は出て来ませんでした。ジャンヌダルクはもっとずっと前、中世の人でした。え~・・・西洋史がまったく頭に入ってないワタシ。^^;) 狐狸庵先生の創作も入ってるけど(マルグリットや修道女アニエスとか)フランス革命や有名なマリー・アントワネットについてわかった。貴族に生まれその中で育ったというだけで、無邪気で悪意のないマリー・アントワネットが、貧乏を強いられている大衆から妬まれ憎まれるように・・・。改革は必要かも知れないけれど、そこに嫉妬や憎しみなどの感情が入り込むとそれは狂気となる。大衆というのは無知ゆえに感情に流されやすく簡単に暴徒と化してしまうものなんだと思いました。革命は戦争だという革命派。なら、人々が真に幸せになることは望めない。(殺すなかれ!)変化はゆっくりと起こるもの。急いではいけない。話し合い、理解し合い、気づき、変化する。 典型的な大衆の代表マルグリット。自分とあまり年の違わない王妃とを比べて、その生い立ち境遇のあまりの違いに憎しみを募らせる。王妃は民衆の苦しい生活を知らず贅沢三昧をするが、それは窮屈な生活や孤独を紛らわすためでもあった。どっちも自分がかわいい、どっちも自分中心なのは同じ。ただ、王妃は自分が罪を犯したとは思っていない。(王妃が贅沢をするのは処刑されるほどの”罪”なのか?)でも、フランス革命が起こり、断頭台に消えることになるマリー・アントワネットは母親として人間として大きく変わっていた。大衆の狂気に対しても、自分の人間として(王妃として)の尊厳だけはなくさなかった。>人生で一番、大切なことは自分の主義を守り、自分の義務を果たすことだということです。・・・わたくしたちの死の復讐をしないように・・・修道女アニエスは権威や肩書きを重んじ自己保身に走る教会に疑問を持ち、教会を去り革命に参加するが、王と王妃の処刑を求める大衆の狂気を目にして悩む。>裁くのは神さまだけ。人間じゃありません。 目には目を。やられたらやりかえす。彼奴に殴られたんだから彼奴も殴られればいい。・・・こういう考え方には私は同意できない。これでは、不幸な人が増えるだけだ。不幸な人がなくなる、みんなが幸せにならなければこの世はいつまでもよくならないと思う。人の不幸を望んではいけない。正義とか、善い悪いとか、罪とか。関係ない。そんなの誰が決めるのか。一人でも不幸な人をなくすること。本当に幸せな人は人を不幸にしようとは思わないからね。とにかく、自分は不幸だと思う人を一人でもなくすことが一番だと、思います。フランス革命は悲劇でした。で、ジャンヌダルクは出てこなかった。ちがう本を探そう…ドキドキハラハラ…西洋歴史小説、面白い。一気読みです。 >> 続きを読む
2015/04/29 by バカボン
倫理観を問う戦時中は倫理も何もなかったそのなかでも恵まれていた人たちかしなければならないことでもなくしたいことでもない誰に求められることもなく生体実験を行うそれがセンセーショナルな革新的なものでなく日常の延長にある些細な事であるようにそれも誰も悩むことなく行われた人は本来無関心で罪も恥も持たないが人が集まることで罪や恥が生まれる人のもつ残酷ではなく、無関心を感じさせた >> 続きを読む
2019/11/20 by kotori
『深い河』を書き上げるまでの三年間の遠藤周作の日記。これを読むと、最初の頃の設定とかなり出来上がりは変わっていったことに驚く。また、登場人物の設定や、それらの登場人物を実際に小説によく描くためにはかなり苦労したみたいで、かなり経ってから、「固かった氷塊がとける」ような思いがして、やっと自由に書けるようになったという記述も興味深かった。「人間の哀しさが滲む小説を書きたい。それでなければ祈りは出てこない。」(55頁)という言葉も、心に響いた。また、日記だけでなく、この本には、「宗教の根本にあるもの」という短い文章も収録されており、それもとても興味深かった。遠藤周作が言うには、宗教とは無意識のものであり、自分を生かしている大きな生命を意識することだという。何かしら人生において見えない働きとなって、自分の人生を後押しししてくれるもの。その無意識的なものへの意識が宗教だという。それは、歴史や文化によってさまざまな形をとるが、その点ではどの宗教も同じであるという。そして、復活とは蘇生と異なり、自分を生かしている大きな命に戻ることだという。『深い河』を読んだ後で読むと、興味深く読める一冊だと思う。 >> 続きを読む
2013/06/06 by atsushi
本来は純文学のカトリック作家である遠藤周作が、晩年に憑かれたように書き遺した多くの歴史小説は、彼が「武功夜話」を精読することによって得た歴史的な発見をもとに、彼一流の歴史解釈を表現したものだと思っています。「歴史とは解釈である」という海音寺潮五郎の有名な言葉がありますが、遠藤周作は歴史をどのように解釈しているのか、それに触れたくて彼の歴史小説を最近、また本棚の奥から引っ張り出してきて、再読・三読しています。彼の歴史小説の戦国三部作の中で、「反逆」が荒木村重、明智光秀、高山右近ら、織田信長に反旗を翻した武将たちを軸として、また「男の一生」が前野将右衛門を主人公として側面から信長を描いているのに対し、今回読了した「決戦の時」は、唯一、信長を真正面から取り上げた長編小説です。天文二十年(1551)三月三日、織田信長の父、信秀は末森城内で死去。信秀の四人の弟たちを中心に重臣たちは今後の仕置きなどを談じ合います。だが、それぞれ野心のある一族の代表は、互いにけん制し合い、結局「葬儀は三年後に遅延」することで選択を先送りにしたのです。その決議を後見役・平手政秀に知らされた信長は、父の遺領を狙うのは隣国の今川家や斎藤家だけではなく、遠縁の一族ことごとくが敵であることを実感するのです。孤独感に苛まれ、唯一心を許せる年上の恋人、生駒屋敷の吉乃を訪ねる信長------。そして、骨肉の争いの中から、尾張第一の実力者となった信長が、永禄三年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元を破り、戦国の檜舞台に踊り出していくさまを、遠藤周作は「武功夜話」などを駆使して、ダイナミックに活写していきます。遠藤周作は、信長の人格形成を次のように書いています。「信長は少年時代から母の愛に飢えていた。しかし彼の本当の母---つまり土田御前は信長よりも弟の信行を溺愛した」と。そして、岳父・斎藤道三への警戒から「濃姫に自分の何もかもを曝けだして甘える気にはなれない」信長は、父の死後、一族郎党の中で孤立し、唯一、「母か姉にたいするように警戒心をまったく捨てる」ことのできる女性・吉乃に対し、「よいか、吉乃。この信長は向後、魔王になるぞ」と己が心情を吐露するのです。ここに描かれているのは、母親という"神の愛"を知らずに戦国乱世を生き抜いていく男の"心の闇"なのだと思います。実際、死中に活を求めるといいながら、大木の下で座禅を組んでいる、結跏趺坐の信長には、"人間存在の根本にかかわる不条理"を乗り越えようとする悲愴な覚悟がうかがえると思うのです。加えて、作者が、信長が直接、自身の心情を吐露するような主観的な描写を意図的に排除しているために、この戦国の猛将の人間像は、固い甲羅の向こうに隠され、容易にうかがい知ることができません。そして、その過程で読者である私が気づかざるを得ないのは、遠藤周作という作家が、恐らくは最も書きやすい方法で信長を描くということを放棄しているのではないかということです。では逆に作者にとって信長を描くにあたり最もやりやすい方法とは何かというと、それは、遠藤周作が「沈黙」や「侍」の作者であるということを考えてみるならば、信長をキリスト教との関係において捉えること以外には考えられないと思います。だが、遠藤周作は、この「決戦の時」では、敢えてそれは行わなかった。作中、フロイスの「日本史」からの引用がありますが、それは客観的記録性を補強するためであって、信長とキリスト教との関係を積極的に語ろうとするためのものではないのです。それは、なぜかと言えば、信長という"神の愛"を知らぬ男を書くにあたり、あくまでも"神に見捨てられた手法"で描く、すなわち、作者が主人公と宗教とのかかわりを、一切、排除していく方法で筆を進めていったからではないかと思うのです。この「決戦の時」という歴史小説が、"神となった男"とされる信長の語られざる内面を描く、異色の作品になっている所以だと思います。 >> 続きを読む
2017/09/12 by dreamer
遠藤周作の『私が棄てた女』は、大学時代の友人が以前勧めてくれたことがあった。とはいえ、へえ~、と聞き流して、全然今に至るまで読んだこともなかった。たぶん、私がこの小説をなかなか読まなかったのは、タイトルと、漠然と知っているあらすじから、いろいろと自分にとってのよく似た過去を思い出させられるだろうとなんとなく思っていたからだと思う。最近、別の方からも勧められ、遠藤周作の他の作品を最近読んでいたこともあり、ふと読み始めてみた。案の定、読みながら、なんともにがい思いをしながら、前半の方は読まざるを得なかった。三十代半ばになれば、男性も女性も、いくばくかは、それまでの人生の中で自分がふったこともふられたこともあるだろう。私も、両方あった。そして、若くて、まだ何にもわかっていなかった時に、この主人公と、いくばくか似たようなことがあった。愚かなことだったと思う。その後、十年以上の時が経ち、その間に、自分も同様にふられたことや棄てられたことがあったり、あれこれと人生の経験を積む中で、当時の自分の愚かさと身勝手さが、少しずつわからされたような気がする。そして、それが距離を置いてわかるようになった時に、随分遅ればせながら、この小説を読んだのだと思う。もっと早くに読んでいれば、本当は良かったのかもしれないが、人は随分回り道して、やっとわかることもあるのだろう。人は、何かしら人生のある瞬間に関わった人は、必ず自分の人生に何らかの跡や影響を与えていくのだと思う。そのことは、この作品の中で、他にないほど、心に迫る、深い響きで描かれている。そして、ずっと後になって、不思議と思い出され、稀有なものだったという気がする優しさというものもある。この作品が、単なる感傷や道徳ものと異なり、深く胸を打つのは、この作品の底に、遠藤周作ならでは、イエス・キリストというテーマが流れているからだと思う。「責任なんかより、もっと大切なことがあるよ。この人生で必要なのはお前の悲しみを他人の悲しみに結び合わすことなのだ。そして私の十字架はそのためにある。」(106頁)不覚にも、私はこの件のところで、涙を止めることができなかった。そして、以下の言葉も、深く心にしみるものだった。「しかし、ぼくは知らなかったのだ。ぼくたちの人生では、他人にたいするどんな行為でも、太陽の下で氷が溶けるように、消えるのではないことを。ぼくたちがその相手から遠ざかり、全く思いださないようになっても、ぼくらの行為は、心のふかい奥底に痕跡をのこさずには消えないことを知らなかったのだ。」(124頁)なんとも切ない小説だし、人間というのはどうしようもない、罪深いものだと思う気もするが、主人公の森田みつの優しさは、かけがえのない救いのようなものを感じる。この世で、結局最後に残るものは、そして最後に勝つものは、優しさなのだと思う。たとえ、それがどれほどみじめであろうと。なぜならば、人が本当に心の底で求めているのは、ずっと一緒にいてくれる同伴者であり、本当の愛だから。それが最初からわかっていれば、どれほど人は良いことだろう。せめても、わかった時から、そのことを大切にする。そのことを、遠藤周作は伝えたかったのだと思うし、そこに導こうとイエスはずっと働きかけているのだと思う。 >> 続きを読む
2013/08/22 by atsushi
安岡章太郎の作品は小説よりエッセイに近い感じです。『宿題』は著書の小学生時代の話で私も含めて学校や算数が嫌いだった人にはとても共感できる内容です。 >> 続きを読む
2020/09/02 by koten
蜻蛉のように掴み切れない何かが、自分の中にこびりついている人それぞれその何かは違っていてそれによって幸せな人もいれば、不幸せに感じる人もいるそのどちらでもない人がほとんどのような気がしてみんな上手くはないが何かと付き合っているその何かを見つめる事は難しくてその見つめる目が素晴らしく言葉に紡ぎだされていたはっきりこそはしてないがしっかりと形を捉えていて読んでいて気持ちが良かった >> 続きを読む
2020/06/30 by kotori
読書しながら世界一周マレーシア半島の西にある小さな島、パンコール島の安宿にありました。いつ誰が置いていったのか分かりませんが、日に焼けて手垢が染みた一冊との出会いには何か縁があるように思え、譲ってもらいました。舞台はもはや戦後の面影もなくなり、狂った活気に満ち溢れる昭和の新宿。しかし、平成生まれの私にはどうにも想像できません。島の小さな食堂で食後のアイスティーを飲んでいると、偶然日本人のおばさまが来店して声をかけてくださいました。彼女はカナダ人の旦那様とヨットで東南アジアを旅しているのだそうです。自然とお互いの旅の話になり、フィリピンの話題になりました。おばさま曰わく"フィリピンは昭和の日本だよ"とのことでハッとしました。暇を持て余す青年たち、毒々しい色気を放つ娼婦、ガス欠のトラックを押す様、肌の色は違えどかつての日本を知るヒントがそこにはあったのです。矛盾を盾にした大人不潔だと罵り身ごもる娘その行き違いの間で殺される胎児生まれるはずだった命と死を望む命死なないでと懇願する博愛と死ねと凶弾する民主主義自分は正しいと自己暗示して仮初めの清潔に安心する愚かさ正しいものなどどこにもないと、あるものはむせび泣き、あるものはその不安を誤魔化すために虚勢を張る。その虚勢はまた新たな矛盾を生み出し、また生を許されない命を作るそれでも今日も日は昇り、新宿はその捻れを懐に抱え込む。単純な対比では描けない昭和新宿の、いや日本の民主主義の不潔を浮き彫りにした本作。だが、年号が変わり、21世紀になった現在でもそれは変わらないと感じた。確かなものはなにもなく、信じるべきものなどどこにもなく、正しいものがないなら、間違ったものもないのかもしれない。なら生きるということは常に悩み続けることなのだろうか。だとしたら、あまりにも辛い。 >> 続きを読む
2016/05/12 by 旅する葦
この本、実は、十二、三年前、同じく遠藤周作の『イエスの生涯』とともに古本屋で買った。しかし、そのまま長いこと本棚に眠っていて、ついこの前、『イエスの生涯』を読み、とても感動し、それでこの本も読みだした。しかし、なかなか遅々として進まず、真ん中らへんまでは、なかなかあまり面白さを感じなかったのだが、真ん中らへんから俄然面白くなり、ラストの方はただただ感嘆の、本当に遠藤周作の入魂の書だった。特に感銘を受けたのは、以下の三つのことである。1、ステファノの殉教に関するペテロらの行動と心理の分析。2、なぜペテロやパウロの殉教の様子を知っていたはずのルカがそれについて一行も書かなかったか。3、ユダヤ戦争によるエルサレム破壊の後の、本当の意味の「キリストの誕生」の意味。これらは、本当に深く深く心に響き、印象的だった。使徒行伝の中のステファノの殉教に関し、遠藤周作は緻密に前後の文章を分析し、ペテロやヤコブらの他の主要な教会を率いていた弟子たちは、結局何もしていなかったこと、つまり、イエスが十字架に架けられた時に逃げ出して、臆病で卑怯だったペテロたちは、イエスの十字架の二年後において、ステファノの殉教に関して、また同じように臆病で卑怯に見て見ぬふりをしたことを指摘している。これは今まで全然考えたことがなかったので、とても印象的だった。通常、私たちは、イエスが十字架の死を遂げた後、その時は逃げ出したペテロたちが、不思議なほど強くなり、殉教も恐れず、イエス・キリストの福音を人々に伝えるようになったと考えがちだ。実際に、そういう面もあったのだろう。しかし、二年経った時に起こったステファノの殉教事件の時に、またペテロやヤコブたちは、同じことをせざるを得ない状況に追い込まれ、またそのように振る舞った。そして、そのあと、このステファノの死の後に、本当の意味で、ペテロたちは強くなり、異邦人にもキリストの福音を伝えていくようになる。人は一挙には変わらず、凡夫はどこまでも臆病で悲しい存在だということと、にもかかわらず、いくつかの出来事を経て、人は本当に変わっていくということを、とても考えさせられた。それから、ペテロ、さらにはパウロは、熱烈にキリストの福音を伝道していくことになるが、イエスの十字架から四十年ぐらい経ったときに、ローマでペテロもパウロも皇帝ネロのキリスト教弾圧により殉教した。しかし、その様子を知っていたはずのルカは、その様子を聖書に全然書き記していない。遠藤周作は、その理由を推測し、おそらく、あまりにも悲惨な死だったために、書かなかったのではなく、書けなかったのだろう、と記していて、とても印象的だった。ペテロやパウロのような立派な人たちが、なぜ理不尽な不条理な酷い死に方をしなければならなかったのか。その神の沈黙の前に、ルカたちは、語る言葉を持たず、何も書けなかった、書こうにもあまりにも悲し過ぎて書けなかったのだろう。その遠藤周作の推測は、おそらく全くそのとおりで、正鵠を射ていると個々の底から思えた。さらに、その後、ユダヤ人はローマ帝国に反乱を起こし、ユダヤ戦争が勃発し、ローマ帝国の軍勢の前に完全に滅ぼされることになる。この時も、神はエルサレムの破壊に何も介入せず、沈黙を保ったままだった。イエスの十字架の死と、ステファノやペテロやパウロらの殉教と、イスラエルの滅亡と。これら三つの、あまりにも悲しく不条理な出来事とそれに対する神の沈黙。しかし、それゆえにこそ、キリスト教は滅びず、このことへの問いもひっくるめて、不思議と生き残り、その後広まり続け、ついにはローマ帝国をひっくり返すまでに広がっていくことになる。遠藤周作は、ユダヤ教の風土では、通常、人を神と崇めることは決してありえないし、他にも多くの殺された立派な預言者やラビもいたのに、それらの誰も神として信仰されることはなかったのに、イエス・キリストだけは、十字架の出来事の後の十数年後には、メシアでありキリストであり神の子であり、主であるという信仰が広まっていったことに注意を促す。つまり、そうとしか思えない何かが、イエスにあり、イエスと出会った人に忘れがたい印象をそれらの人に刻印していったからではないか、と述べているが、確かにそのとおりだったのだろうと思う。この本を読み終わった後の深い感動は、うまく言葉では言い表せない。多くの人に、『イエスの生涯』と併せて読んで欲しいと思う一冊である。また、この本の最後の方で資料として使われている『ユダヤ戦記』も全部必ず読もうと思った。 >> 続きを読む
2013/10/12 by atsushi
面白かった。江戸~開国の激動の時代における、キリシタンの扱い。その中でも愛を貫いて死んでいくキクの姿に感動。 >> 続きを読む
2015/02/23 by naoppi
第三の新人、キリスト教文学などと位置付けられる遠藤周作は、純文学、中間小説、時代小説、ユーモア・エッセイなど幅広い分野で数多くの作品を書いた作家ですが、推理小説の分野でも病院を舞台にした「真昼の悪魔」などがありますが、人間の心の奥の神秘(ミステリー)を追求する作風から言って、ミステリーと位置付けられる作品は意外に多いような気がします。この小説「スキャンダル」は、功成り名を遂げた作家に、突如降って湧いたスキャンダルの真相をめぐるミステリーです。キリスト教作家の勝呂は、自作の授賞式で招待客の背後にいる、嗤いを浮かべた自分の顔にそっくりな男を発見します。そして、同じ頃、勝呂が新宿の歌舞伎町ののぞき部屋や六本木のSMクラブに出入りしているという噂が流れ、この醜聞を執拗に追うルポライターに悩まされながら、自ら真相の究明に乗り出していきます。彼とマゾのプレイをしたという画家の糸井素子、夫の死後、糸井素子と怪しげな関係に陥った成瀬夫人、突然訪れる糸井素子の自死------!?謎が深まる中で、心の中心部にある歯車が狂い始めていたことに気付いた勝呂は、現われた"もう一人の自分"と対決することになるのです------。「どうして、もっと、美しい、きれい話、書かないですか」------。悲しげな老神父の声を反芻しながらも、清らかな小説を書くことがない勝呂。キリスト教という宗教の"精神的理想"を慕いつつ、作中人物のどす黒い心を描写する時、自分もどす黒い心理になってしまうのです。この小説には、勝呂と同じように二面性を持つ人物が何人も登場します。穏かな大学教授だった成瀬は、戦争中に凄惨な殺戮をした元兵士であり、その暗い一面を知ったことが、上品な成瀬夫人にとって性的刺激の火種となったのです。この小説は、遠藤周作という作家が、60歳を過ぎて挑んだ"ドッペルゲンガー(二重身)"をテーマにしたミステリー仕立ての小説ですが、その筆力と透徹したまなざしは、やはり凄いと思います。事件の始まりは、もう一人の自分が"目を覚ます"ことなのかも知れません。 >> 続きを読む
2017/05/08 by dreamer
不幸に襲われたとき、心の拠り所になるものは何か。老いて死を間近に感じたとき、不安から救ってくれるものは何か。生涯をかけて厳しく宗教を追求してきた著者は、実人生の中で、傍らにいる妻の苦悩と哀しみを受け入れるために、信仰とは相反する行動に出た。生身の人間だけが持ちうる愛と赦しの感情を描いた表題作ほか、心の光と闇の間で逡巡する人間の姿を描いた短編集。短編五本。うち前半四本は遠藤周作が、実生活を小説に仕立てたもの。解説では、そのうち表題作を除く三作が、後に発表される長編『スキャンダル』への前奏曲のようなものと位置付けています。「老い」を眼前にして死の恐怖に怯え、若さへの憧憬や反発、著者ならではの信仰についての独白…老年期をすでに迎えた男性の心の有様を、日常の出来事に写して深く描写しています。『六十歳の男』男は自身の老いを確かに感じながら日々を送っています。それはなかなか寝付けない夜や、神経痛の痛みで痛感していました。男(=著者)は老いてゆく悲しみを吐露します。原宿のホームに「うつくしい熟年」と書いた上原謙と高峰三枝子のポスターが出ていたけれど、老年のことを熟年と言いかえようが本質は変りなどしない。うつくしく老いるなど根本的にありっこないのだ。老年とは残酷なほど醜いということは、鏡にうつる私の肉体や顔をみただけでよくわかる。うすぎたなく生気のない髪、染みのでた皮膚、醜悪なのは顔や肉体のせいだけではなかった。醜悪とは六十歳になっても心に静かさと安心がまだ訪れないことだった。六十歳になっても神は私をまだそんな気持にさせてくださらぬ、夜、夢と夢の間で眼を闇に向けて開けていると、突然、死の恐怖が切実に襲ってくる。自らの肉体が消滅すること。朝の光も街のたたずまいも、人々の動きももう見られぬこと。あたたかな珈琲の匂いを嗅げぬこと…。それを思うと、鋭い刃物でえぐられたように胸が痛む。私はどこで息を引き取るのか。いつだろうか。考えまいとする。その想念から逃げるために早く眠ろうとする。老いの醜悪とはこのあさましい執着から離れられぬことだ。男は、散歩の間に喫茶店に入り、若者たちを観察することを日課にしていました。喧しくおしゃべりを続ける女生徒たちを見つめる視線の中には、溌剌とした若さに対する憧憬と、無造作で幼稚な生き方に対する嫌悪感とがありました。また、ふとした時に男の中に芽生える背徳の心を、彼女たちを対象にして自らの内側で弄ぶ癖がありました。つまりは、踏み越えてはならぬ人の道を、越えるも越えぬもこの胸ひとつ、の状況を密かに愉しんでいる風でありました。そんなある日、いつものように公園を歩いていると、女生徒の一人から声をかけられ…。未だ六十までは道半ばですが、著者の煩悶はよく理解できました。同性として、同じような悩みに怯えるのだろうとは、容易に想像ができました。「老いてゆく」という生き方に定型はありませんが、成功するとしたら、それは周囲からの評価によってしか有り得ないと思います。つまりは、周りから好かれる、迷惑をかけない、おじいちゃん・おばあちゃん。ところが実は、老人もさまざま、生々しいまま、安寧な心を持たぬまま、齢を重ねる方もたくさんいらっしゃいます。何が大切かというと、著者のように老いていく自分を客観的に見られる視点を持っているかどうかだと思いました。老いてゆくということは、人間が劣化し醜悪になっていくことだと、少し自虐的ですがそんな自覚を持った年寄りと、生涯現役を宣言して憚らぬ年寄りと。『老醜』という言葉をぐっと身近に感じている最近です。 >> 続きを読む
2014/11/18 by 課長代理
タイトルが長い!そして挑発的!長すぎて、逆にそれが目を引いて買ってしまいました。色々な場面においての手紙の書き方についてです。だいぶ昔に執筆された本のようで、今はあまりお目にかかることも少なくなった(…と思われる)ラブレターの書き方なども入っていますが、つづられ方にユーモアがあり、面白おかしく、でもフムフム、と納得してしまいます。なるほど、同じことを伝える内容でも、書き方ひとつで相手が受ける印象ってこんなにも違うのだなぁ。筆不精を克服した筆者のコツも書かれていますよ。 >> 続きを読む
2016/04/24 by taiaka45
何でクリスチャン?日本人が生まれたときから(意識してなくても家がそうなので一応)仏教徒だったり神道だったりするのと同じように、母親の影響で11歳のとき何となく洗礼を受けたそうです。神を信じているのか?神の存在は”対象”ではなく、”働き”だと。何か選択するときなど、何か分からないが自分を後ろからそっと押してくれるようなもの。自分の意思+Xの Xが働いている。で、それはそれぞれの人の心の中にある。、、、日本的なとらえ方だと思う。西洋のキリスト教の考え方とはちょっと違うのかな。人によって色々な神があっていいんじゃないか、という感じに捉えられてるようです。一神教のユダヤ教の人は多分、(見えないけど)唯一の絶対的存在を信じてたりするのかな。キリスト教は煩悩の中に神がいる、仏教のように煩悩を捨てろと言われないからいい、と言われてます。お釈迦様の教えは苦しみの心の原因を見つけ治療することで楽にするものだけど、キリスト教は患部はそのままに慰めるものなのかな?(末期癌のモルヒネみたいな?)仏教(お釈迦様の教え)については、日本仏教との違いが大きいのでけっこう誤解されてるみたいですが、印象としては、遠藤さんの考える日本のキリスト教の考え方はお釈迦様の慈しみの心の部分と似ていると思いました。ただ、お釈迦様はキリスト様のような自己犠牲ではなく、自他共に幸せになる道を説かれました。自我は錯覚で、実際は”無我”であり、自我に対する執着をなくす(弱くする)ことで苦から解放される。自分が不幸になるなら、自己犠牲は愚か(智慧が足りない)と否定されてます。自己犠牲は偽善につながりやすいので、遠藤さんも問題だとされてます。(キリスト教の問題を色々指摘して悩まれてる)遠藤さんが考える日本式キリスト教は、お釈迦様の教えと共通するところがあることがわかりました。神は”働き”だとすると、日本人にもわかりやすい。(ちょっと曖昧だけど)西洋人にとって神、キリスト教とは何なのかな? >> 続きを読む
「眠れぬ夜に読む本(1)随分前に、このことにちょっと触れた。眠れないので「眠れぬ夜に読む本」と言うのを読んでいたが、余計眠れなくなってしまった。というようなことを書いた。狐狸庵先生は「とうに亡くなられてしまったが、著書はほとんど読んで、読み返すたびに、もう作品はないのだ、これで終わりだと思う。それでも完璧でない自分は、全集なら、きっと半分も読んでないだろうということがわかっている。これからの 宿題だと思っている。「この眠れぬ夜に読む本」は270ページの薄い文庫で、同じシリーズに「私にとって神とは」「死について考える」と言う二冊があがっている。この二冊も、まだ未読なので、私の「ほとんど」も当てにならない。読んでいないのでわからないが、題名から、もう少し先で考えてもいいだろうと残してある。 眠れないときは何を考えるか、1 生と死について考える2 東京について考える3 自分と他人と動物について考える4 趣味と興味について考えるという目次に続いて、少し詳細に題名が並んでいる。名作「沈黙」があるように、狐狸庵先生はキリスト教徒だったけれど、難しい宗教の話や、心理学や、医学の話ではない。好奇心の赴くままに、過去や、現代や未来を考え、そこにあるべきもの、あったもの、出会うものなどを、ユーモアをこめて、語っている。不思議な現象を科学に照らしてみたり、人とは何なのかと、遺伝学を紐解いたり、軽い話題の中でも、死後の世界を考えたりしている。昼間には、生活があり、合理的で、実際的で、複雑な時間が繰り返されていく、だが周囲から離れて自分ひとりになった夜の思考は、混じりけのないむき出しの心と対面できる時でもある。そんな時、生きていることや亡くなった人や、自然や、伝聞であっても不思議な現象や、気にかかっていながら訪ねたことのない土地への思いに浸ることが出来る。「眠れぬ夜に読む本」はいつも私の傍にある。難しい言葉もなく理解できない不思議もなく、その世界を共有できるところにこの本の魅力がある。 「地獄の思想」とともに、現実を超えた、人の心の深い底の流れに誘われる本である。いつか目次に沿って思うことを書いてみたい、とりあえず(1)にした。 >> 続きを読む
2014/12/03 by 空耳よ
『十頁だけ~』というタイトルの付け方からして、すでに読み手を惹きつけている。本書では手紙の書き方を論じている。今ではメールやLINEでのやり取りが多くなってしまったが、文章術として多くのことを学べた。冒頭からユーモアをたっぷり交えて、読者の心を掴んでいるところは流石、遠藤周作氏。手垢にまみれた表現をしない、ダラダラした文は控える、抑制法や移転法など、様々な技術が書かれていた。 >> 続きを読む
2019/09/17 by May
【遠藤周作】(エンドウシュウサク) | 読書ログ - 読書ファンが集まる読書レビューサイト(著者,作家,作者)
ページの先頭に戻る
会員登録(無料)
レビューのある本