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平川祐弘

著者情報
著者名:平川祐弘
ひらかわすけひろ
ヒラカワスケヒロ
生年~没年:1931~

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このランキングは1日1回更新されます。
      神曲
      カテゴリー:
      5.0
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      • 西洋美術史において、文学史において「聖書」の次に影響力を放つ、本作品。

        平川祐弘氏の、平明な口語体によって、難解で壮大な「神曲」の世界が、身近に感じられました。また、合間に挟まれる、ギュスターヴ・ドレの挿絵が、私の想像をよりその詩世界にとどめ、惹きつけ、豊潤なものにしてくれます。

        もっとも、聖書の次に重要な本作品ですし、究極を言えば、イタリア語原文、あるいは地理的にも近い故に、価値観を共有してきた、西欧言語圏、ドイツ語、英語訳で読まないと、本質が分からないでしょうし、代表的な平川裕弘氏の口語体訳か山川丙三郎氏の文語体訳を読むかで、多分に印象は違ってくるのも当然です。

        そうなると、同じ作品を訳していたとしても、翻訳者によって、また独立した「一作品」となるのであって、不朽の古典である本作を極めようとすれば、それは気の遠くなる仕事となることでしょう。

        しかし、「地獄篇」の解説で、川本皓嗣氏は、本作が字の読めるすべてのイタリア人へ向けてトスカーナ方言で書かれてある事に言及し、数百年も前の日本の言葉にこだわる必要はないのではないか、と書いています。

        とすると、口語体の平川訳が字の読める日本人には、ちょうどいいのではないでしょうか。
        ですので、とりあえず今の私には、平明な山川訳でもてんてこまいなので、「しっかり読む」のは後回しと致しましょう。

        前置きが長くなりましたが、ざっくりと感想を。

        大まかに言うと、音楽に例えるならば「地獄篇」はデスメタル、「煉獄篇」はアンビエント・ミュージック、「天国篇」はグレゴリオ聖歌、といった具合でしょうか。

        「地獄篇」では、ダンテの敬愛する詩人、ウェルギリウスが地獄の案内役を務め、当時のキリスト教世界から見て、カトリック教徒だったダンテから見て、洗礼を受けなかった者、イエスの御前、悔い改めなかった者どもの魂が、血なまぐさい描写によって、幽閉され、描かれています。

        「煉獄篇」では、引き続きウェルギリウスの案内により、神の御前、悔悛が遅かった者の魂が、また、カトリックにおける「七つの大罪」を犯した者の魂が、天国を目指して体を清めんがため、それぞれが苦行のような修練を己に積んでいます。

        「天国篇」では、俗人、ウェルギリウスに変わり、「天」に属す、ダンテが幼き頃から恋い焦がれた、神々しい美しさを持つ、天女、ベアトリーチェが案内役を務めます。
        そして、天国での、諸々の諸現象、神的な象徴である「光明」や、旧約聖書に登場する人物たちなどとの交わりから、ダンテとベアトリーチェとの間に、神学的、哲学的、天文学的な議論が交わされます。

        この三篇で、無名、著名問わず、慣れないイタリア語の人名の人物や、ギリシャ神話の登場人物、名だたる哲学者などの魂が、ダンテの裁量により、各舞台に登場しますが、一番、宗教的に物議を醸しそうなのが「地獄篇 二十八歌」

        本作はイスラーム世界では「禁書」扱いされているそうですが、それもそのはず、イスラム教の開祖、ムハンマドの魂が地獄に突き落とされているのです。その様は、ひどいものです。

        ある本で読んだのですが、ここに「ひとつの神しか認めない、一神教同士」の、問題点が浮上します。

        ダンテから見た、キリスト教世界の見地から見れば、イエスを「預言者」とは認めても、「神」であるとはしなかった、アッラーのみが唯一の神であるとした、ムハンマドは地獄に相応しいとされ、一方、イスラーム世界からすれば「アッラーのみが神であるにも関わらず、イエスなどという一預言者を神とするクリスチャンなどという不信の徒こそ、、、」という、事態が発生するのです。

        八百万の神々を認める、多神教である神道世界である日本では、悪魔的象徴である鬼すらも、地方ごとに「神様」として崇められているわけですから、一神教というものは、こうした「信仰と柔軟性」は、残念ながら両立できないということです。

        そうした厄介な一面も持ち合わせている本作ですが、「天国篇」の解説にて、平川氏が「信仰の如何を問わず、なによりもまず詩心ある人々によって解せられる詩情である。」と評するように、本作を「キリスト教文学」とのくくりで限定するのは、もったいないと感じさせられる、超大作でした。
        >> 続きを読む

        2018/02/21 by KAZZ

    • 他1人がレビュー登録、 5人が本棚登録しています
      神曲
      カテゴリー:
      5.0
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      • 西洋美術史において、文学史において「聖書」の次に影響力を放つ、本作品。

        平川祐弘氏の、平明な口語体によって、難解で壮大な「神曲」の世界が、身近に感じられました。また、合間に挟まれる、ギュスターヴ・ドレの挿絵が、私の想像をよりその詩世界にとどめ、惹きつけ、豊潤なものにしてくれます。

        もっとも、聖書の次に重要な本作品ですし、究極を言えば、イタリア語原文、あるいは地理的にも近い故に、価値観を共有してきた、西欧言語圏、ドイツ語、英語訳で読まないと、本質が分からないでしょうし、代表的な平川裕弘氏の口語体訳か山川丙三郎氏の文語体訳を読むかで、多分に印象は違ってくるのも当然です。

        そうなると、同じ作品を訳していたとしても、翻訳者によって、また独立した「一作品」となるのであって、不朽の古典である本作を極めようとすれば、それは気の遠くなる仕事となることでしょう。

        しかし、「地獄篇」の解説で、川本皓嗣氏は、本作が字の読めるすべてのイタリア人へ向けてトスカーナ方言で書かれてある事に言及し、数百年も前の日本の言葉にこだわる必要はないのではないか、と書いています。

        とすると、口語体の平川訳が字の読める日本人には、ちょうどいいのではないでしょうか。
        ですので、とりあえず今の私には、平明な山川訳でもてんてこまいなので、「しっかり読む」のは後回しと致しましょう。

        前置きが長くなりましたが、ざっくりと感想を。

        大まかに言うと、音楽に例えるならば「地獄篇」はデスメタル、「煉獄篇」はアンビエント・ミュージック、「天国篇」はグレゴリオ聖歌、といった具合でしょうか。

        「地獄篇」では、ダンテの敬愛する詩人、ウェルギリウスが地獄の案内役を務め、当時のキリスト教世界から見て、カトリック教徒だったダンテから見て、洗礼を受けなかった者、イエスの御前、悔い改めなかった者どもの魂が、血なまぐさい描写によって、幽閉され、描かれています。

        「煉獄篇」では、引き続きウェルギリウスの案内により、神の御前、悔悛が遅かった者の魂が、また、カトリックにおける「七つの大罪」を犯した者の魂が、天国を目指して体を清めんがため、それぞれが苦行のような修練を己に積んでいます。

        「天国篇」では、俗人、ウェルギリウスに変わり、「天」に属す、ダンテが幼き頃から恋い焦がれた、神々しい美しさを持つ、天女、ベアトリーチェが案内役を務めます。
        そして、天国での、諸々の諸現象、神的な象徴である「光明」や、旧約聖書に登場する人物たちなどとの交わりから、ダンテとベアトリーチェとの間に、神学的、哲学的、天文学的な議論が交わされます。

        この三篇で、無名、著名問わず、慣れないイタリア語の人名の人物や、ギリシャ神話の登場人物、名だたる哲学者などの魂が、ダンテの裁量により、各舞台に登場しますが、一番、宗教的に物議を醸しそうなのが「地獄篇 二十八歌」

        本作はイスラーム世界では「禁書」扱いされているそうですが、それもそのはず、イスラム教の開祖、ムハンマドの魂が地獄に突き落とされているのです。その様は、ひどいものです。

        ある本で読んだのですが、ここに「ひとつの神しか認めない、一神教同士」の、問題点が浮上します。

        ダンテから見た、キリスト教世界の見地から見れば、イエスを「預言者」とは認めても、「神」であるとはしなかった、アッラーのみが唯一の神であるとした、ムハンマドは地獄に相応しいとされ、一方、イスラーム世界からすれば「アッラーのみが神であるにも関わらず、イエスなどという一預言者を神とするクリスチャンなどという不信の徒こそ、、、」という、事態が発生するのです。

        八百万の神々を認める、多神教である神道世界である日本では、悪魔的象徴である鬼すらも、地方ごとに「神様」として崇められているわけですから、一神教というものは、こうした「信仰と柔軟性」は、残念ながら両立できないということです。

        そうした厄介な一面も持ち合わせている本作ですが、「天国篇」の解説にて、平川氏が「信仰の如何を問わず、なによりもまず詩心ある人々によって解せられる詩情である。」と評するように、本作を「キリスト教文学」とのくくりで限定するのは、もったいないと感じさせられる、超大作でした。
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        2018/02/21 by KAZZ

    • 他1人がレビュー登録、 2人が本棚登録しています
      光は東方より
      5.0
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      • 小泉八雲の名作選集だ。

        日本人の持つ霊的なるものに対する小泉八雲の哲学的な思いがじんわりと伝わってくる。日本人以上に日本に詳しい彼が、西洋人としてどのように感じているのか書き綴っている。西田幾太郎氏の解釈によれば、ハーン氏の見方にしたがえば、われわれは幾千年来の人格の複合体ということになるとか。繊細な描写を読むと、ハーン氏が暮らした松江の家を訪問したときのことを思いだす。味わい深い作品だった。 >> 続きを読む

        2017/04/22 by KameiKoji

    • 1人が本棚登録しています
      神曲
      カテゴリー:
      5.0
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      • 西洋美術史において、文学史において「聖書」の次に影響力を放つ、本作品。

        平川祐弘氏の、平明な口語体によって、難解で壮大な「神曲」の世界が、身近に感じられました。また、合間に挟まれる、ギュスターヴ・ドレの挿絵が、私の想像をよりその詩世界にとどめ、惹きつけ、豊潤なものにしてくれます。

        もっとも、聖書の次に重要な本作品ですし、究極を言えば、イタリア語原文、あるいは地理的にも近い故に、価値観を共有してきた、西欧言語圏、ドイツ語、英語訳で読まないと、本質が分からないでしょうし、代表的な平川裕弘氏の口語体訳か山川丙三郎氏の文語体訳を読むかで、多分に印象は違ってくるのも当然です。

        そうなると、同じ作品を訳していたとしても、翻訳者によって、また独立した「一作品」となるのであって、不朽の古典である本作を極めようとすれば、それは気の遠くなる仕事となることでしょう。

        しかし、「地獄篇」の解説で、川本皓嗣氏は、本作が字の読めるすべてのイタリア人へ向けてトスカーナ方言で書かれてある事に言及し、数百年も前の日本の言葉にこだわる必要はないのではないか、と書いています。

        とすると、口語体の平川訳が字の読める日本人には、ちょうどいいのではないでしょうか。
        ですので、とりあえず今の私には、平明な山川訳でもてんてこまいなので、「しっかり読む」のは後回しと致しましょう。

        前置きが長くなりましたが、ざっくりと感想を。

        大まかに言うと、音楽に例えるならば「地獄篇」はデスメタル、「煉獄篇」はアンビエント・ミュージック、「天国篇」はグレゴリオ聖歌、といった具合でしょうか。

        「地獄篇」では、ダンテの敬愛する詩人、ウェルギリウスが地獄の案内役を務め、当時のキリスト教世界から見て、カトリック教徒だったダンテから見て、洗礼を受けなかった者、イエスの御前、悔い改めなかった者どもの魂が、血なまぐさい描写によって、幽閉され、描かれています。

        「煉獄篇」では、引き続きウェルギリウスの案内により、神の御前、悔悛が遅かった者の魂が、また、カトリックにおける「七つの大罪」を犯した者の魂が、天国を目指して体を清めんがため、それぞれが苦行のような修練を己に積んでいます。

        「天国篇」では、俗人、ウェルギリウスに変わり、「天」に属す、ダンテが幼き頃から恋い焦がれた、神々しい美しさを持つ、天女、ベアトリーチェが案内役を務めます。
        そして、天国での、諸々の諸現象、神的な象徴である「光明」や、旧約聖書に登場する人物たちなどとの交わりから、ダンテとベアトリーチェとの間に、神学的、哲学的、天文学的な議論が交わされます。

        この三篇で、無名、著名問わず、慣れないイタリア語の人名の人物や、ギリシャ神話の登場人物、名だたる哲学者などの魂が、ダンテの裁量により、各舞台に登場しますが、一番、宗教的に物議を醸しそうなのが「地獄篇 二十八歌」

        本作はイスラーム世界では「禁書」扱いされているそうですが、それもそのはず、イスラム教の開祖、ムハンマドの魂が地獄に突き落とされているのです。その様は、ひどいものです。

        ある本で読んだのですが、ここに「ひとつの神しか認めない、一神教同士」の、問題点が浮上します。

        ダンテから見た、キリスト教世界の見地から見れば、イエスを「預言者」とは認めても、「神」であるとはしなかった、アッラーのみが唯一の神であるとした、ムハンマドは地獄に相応しいとされ、一方、イスラーム世界からすれば「アッラーのみが神であるにも関わらず、イエスなどという一預言者を神とするクリスチャンなどという不信の徒こそ、、、」という、事態が発生するのです。

        八百万の神々を認める、多神教である神道世界である日本では、悪魔的象徴である鬼すらも、地方ごとに「神様」として崇められているわけですから、一神教というものは、こうした「信仰と柔軟性」は、残念ながら両立できないということです。

        そうした厄介な一面も持ち合わせている本作ですが、「天国篇」の解説にて、平川氏が「信仰の如何を問わず、なによりもまず詩心ある人々によって解せられる詩情である。」と評するように、本作を「キリスト教文学」とのくくりで限定するのは、もったいないと感じさせられる、超大作でした。
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        2018/02/21 by KAZZ

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