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とにかく時間がかかったが何とか読み終えた。美への憧憬、コンプレックス、敵対心。きっと誰も少しずつ持っているけれど、そのバランスが何かのきっかけで激しくゆがんだりするとこうなるのかもしれない。世界を変えるのは認識だと思う。誰かにとっては些細なことであっても、誰かにとっては人生を変えるほどの出来事だったり、そういうことはよくあるから。 >> 続きを読む
2019/08/04 by aki
再読。新治と初江の恋愛物語。初の書き下ろし長編「仮面の告白」と比較すると、随分普通の文体である(「仮面の告白」はデビュー作なので気合いを入れたのだろうが)。初江の「目をあいちゃいかんぜ!」というセリフには失笑した(ヤクザか)。新治と初江の関係について、周りがしきりに噂するのが、日本の田舎の閉塞感を表していて何とも嫌な感じである。ちなみに、齋藤飛鳥のファースト写真集のタイトルが「潮騒」だが、この写真集が三島の作品名から採ったのかどうかは定かではない(ネットで調べた限り、齋藤は三島由紀夫「潮騒」の存在は知っているようだが)。 >> 続きを読む
2019/07/15 by tygkun
三島由紀夫を読むなら、まず真っ先にこの「仮面の告白」を読むべきだと思った。これを読んだ後だと「金閣寺」などの読み取りかたもかなり変わってくる。 園子のことはきっと愛してるんですよね。でも、性癖はマッチョ好き。自分が2つに引き裂かれる感覚。つらいな、これは。知らんけど。明らかに変態なのに、なんで魅力を感じるんだろう‥‥‥‥三島由紀夫の人生を追うように、他の作品も読みたくなってきた。 >> 続きを読む
2019/08/31 by たい♣
三島由紀夫の隠れた怪作と言われた小説。これといった嫌な事があるわけではないのに突発的に自殺を図って失敗した羽仁男(はにお)は、自殺の手間すら億劫な“人生にやる気のない男”。そこで思いついたのが、「~命売ります~ライフフォアセイル」という広告を新聞の求職欄に掲載し、他人に自分の命を使ってもらう事だった。次々とやってくる依頼人。ゆるりと死を望む羽仁男は依頼人の「死んでしまうかもしれない」要求にまったく恐怖を感じない。覚悟を決めているというより、生きることにしがみついていない感じが、この物語の不思議な雰囲気を作っている。星新一の小説を読んでるような奇怪な世界。しかし、この話の肝になるのは、そんな羽仁男を急激に変えていくラストへの展開。切ないラストに何だか安心できたのはこうあってほしいと願いながら読んでたからかも。 >> 続きを読む
2019/01/28 by NOSE
初めての三島由紀夫がこの作品で正解だったのかは分かりませんが。男女問わず誰もが虜になる美青年を使い、お金による支配で自分を裏切った女に復讐させていく話。鏑木夫人は昔の版だと自殺していたとは知らなかった。でもあの夫人の性格ならやっぱり自殺するのはしっくりこないなと思った。そんな風に書き換えたんだろうけど。美と醜。現実と芸術。人が死を選ぶにはどれだけの動機が必要なんだろう。最後に報われないお金の行方がなんだか悲しかった。 >> 続きを読む
2019/06/15 by aki
高遠な哲学を披瀝する13歳の少年たちにとって、セカイとはそれすなわち虚であり、それに迎合しきって、ただ生きているから生きているといったような存在となっている「父」というモノは、全く悪辣極まる存在であった。そして、栄光や死との聯関を保ちながら生きていたことで、そんな少年たちの一員である登から確かな憧れを抱かれていたにも関わらず、自らその立場を放擲し、この世で一番わるい存在である「父」となることを選択した船乗り、竜二は、初めから「父」であった存在よりも、もっとわるい存在として認識されるコトとなった。だから、竜二はもう救えない。罰を与えるコトこそが彼のためになることなのだと、彼らは確信するコトとなった。全くひどい逆恨みもあったモノである。セカイの真実を見抜いたつもりでいる彼らは、感情を抑制する訓練をする一方で、前述のような憎悪の念を常に抱き、勝手に憧憬し、勝手に失望し、「制裁」も行なっているわけであるが、およそ自己撞着とも言える状況を生み出している彼らの目指しているところのセカイとは一体なんであるのか。その答えは「彼らの理想とするセカイを、理想の姿のまま維持し続けるコト」に他ならないだろう。それは、彼らが成長を腐敗と同義と考えていることや、前半部分で彼らの思う完璧なセカイが構築されていて、後半部分でそれの崩壊、そして再構築を図る様子が描かれているという二部構成からも容易に想像できる。刹那の快楽に向けた貪婪な欲求の表れである。畢竟、彼らは時が過ぎ何より忌み嫌うオトナに、ひいては「父」になるコトを恐れ、あえて対極の行動を取ることにより、せめてそのことを考えないよう努めているに過ぎないのだろう。彼らはたしかに世の中の本質を見抜いているのかもしれないが、そんな世の当事者とはなっていなかった。 >> 続きを読む
2018/08/03 by しずみ
新潮夏の100選、集英社ナツイチ、そして角フェス。私の夏の好きなイベントだ。キャンペーン中はお願いされなくても、店員さんから意識して「新潮一冊と角川二冊ですね」と箱を出してもらいたい。以前から、気になっていたこちらの本。装丁も乙女らしくなり、三島先生が美しいだけの文学じゃなく、コミカルな話もかけると知っていて購入。まだまだ、図書館から角栄本の予約本が(みなさん、同じサイクルで調べてる)一度に届いたり、止まった状態だったり。本書はとても面白い。言葉遣いは山手風標準語で耳障りもいい。内容は15年くらい前にHPを作るのが流行った時代のテキストサイトのようではないか。これは日参して見に行くレベル。電車の中でも時代が違うのに三島氏が笑かしにくる!惜しい人を亡くしたな。いつか、豊饒の海四部作を読んでみたいと思っている。・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆1遠藤周作 70 2北原白秋 65.93中原中也 64.71文章の読みやすさ B 読みやすい2文章の硬さ E 文章が硬い3文章の表現力 A とても表現力豊か4文章の個性 A とても個性的 >> 続きを読む
2016/07/20 by ゆのき
「逆説」などという言葉が、氏の作品を評価する上で、非常に多く扱われるようなきらいがあるが、少なくとも、この作品においては、全く逆説などでは無い、至極真っ当で、観念的な、青年たちの心情が描かれているのではないだろうか。有り体に言えば、夢物語なのだ。彼らの周りには、何も無く、何も起こらない。文中の言葉を借りれば、「この世に彼らの幸福の種子ならぬものは、何一つない」のだ。だからこそ、明瞭で、難解なものは何も無い小説となっているのである。『潮騒』にも同じく言えることだが、私は、既に逼塞したような身であるためか、氏のこういった作風の小説を読むと、必ず、正しく狙い通りなのだろうか、夢見心地な幸福感に充ちた感覚と、それとは関係のない、孤影悄然とした感覚が入り混じった、一等厄介な撞着を伴う感情を抱いてしまうのであるが、それを差し引いても、氏が『金閣寺』や『禁色』といった作品を書く傍ら、こうした、それこそ『永すぎた春』というテーマのように、洒脱な明るい夢物語を制作していることは、一等興味深く感じられるといったものである。非常に若くして寵児となった氏が、凄絶な最期を遂げるその時まで、自分を見失い、時代の渦に埋没されることなく、自己を貫いたその精神力の根源は、このような明るく軽い作品を執筆することにより、バランスをとろうと試みた。そういったところにあるのではないだろうか。 >> 続きを読む
2017/10/05 by しずみ
三島作品は、とにかく文章を読んでいるだけで心地よい。プロットはそれほど常人離れしているわけではないが、とにかく文章力。全4巻の中では、1巻目の「春の雪」が一番面白かった。 >> 続きを読む
2018/12/27 by tygkun
【内容紹介】「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の一句で名高い「葉隠」は、死を中核に据えた、自由と情熱の書である。三島は“わたしのただ一冊の本”と呼んで心酔した。「葉隠」の濶達な武士道精神を今日に甦らせ、乱世に生きる〈現代の武士〉たちの常住坐臥の心構えを説いたこの『葉隠入門』は、人生論であり、道徳書であり、三島自身の文学的思想的自伝でもある。「葉隠」の現代語訳を付す。(新潮社HP内 内容紹介より)【著者紹介】三島由紀夫(1925-1970)東京生れ。本名、平岡公威(きみたけ)。1947(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。【感想】「令和元年の最初に読了する本はこの本だ‼」と決めていましたが、気付けば、あっという間に8月25日……。たくさんの本を読むことを目標に掲げていましたが、なかなか読書する時間が取れないなぁ……。…なんて、上記のような言い訳を許さない本書。やはり「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」のフレーズが有名で、それに伴うイメージが強く付きまとう「葉隠」ではありますが、本書「葉隠入門」を読んで、そのイメージとはかけ離れた内容であり、非常に興味深く読めました。この本を入門書として、いつか「葉隠」も読みたいと思う。過去にも読んだことはあり、2019年8月25日に再読を完了しましたが、折りに触れて何度も読み返したいと思う。それだけ私にとって魅力的な本。 >> 続きを読む
2019/08/25 by 日陰者
三島由紀夫のラブコメ!?「夏子の冒険」自由奔放なお嬢さん夏子。仇討ちを目論む青年・毅。お騒がせな夏子の祖母・母・叔母3人組。繊細な文学小説という三島文学の印象を覆してくれる爽やかな冒険綺譚。三島先生ってこういう作品も書くのですねぇと思わずほくそ笑んでしまいます。夏子に翻弄される登場人物達。もちろん読者も翻弄される。できれば夏の北海道で読みたい小説です。 >> 続きを読む
2016/03/05 by ybook
『憂国』ゼミで読んだ本の一つ。自らの最期を予期させる切腹、リアルで妻がフィルムの消去をさせたほど読むといやでも繊細、鮮明に切腹のことがわかる。読んでいるうちに西洋美術の世紀末美術が浮かんできた。そのことについてレポートを書いたが、いまいち上手くいかなかった。この頃卒論にセザンヌと白樺派について論じたいと思い始めていたので、今回のレポートは、それに及ばないが文学と美術を自分で繋げて書いたレポートだと思いたい。三島の作品は特に好き嫌いが人によって激しく分かれると思う。私は割りと好きなのかもしれない。 >> 続きを読む
2015/03/01 by 匿名
なにも殺すことないのに……
2015/03/21 by oriedesi
男女それぞれの失恋の傷跡が、上流階級の社交場を舞台に設定することで、より深く悲しく描かれています。心中に至るまでの登場人物の心模は、おなじみ三島マジックで繊細に表現されていて、読んでいる最中の緊張感は素晴らしい。ただ、いつもそうですが、三島の文章を読み進めるのは骨がおれるので、★3つとしました。 >> 続きを読む
2017/02/26 by とーます
暫く純文学から離れていたように思う。 特に三島からは大分離れていた。 この圧倒的な表現力。語彙。描写力。 そして見事な構成力。 うーん。 天才はいる。 彼の良さが少し分かるようになっただけでも学生の頃からの成長か。 彼は次のように語る。 「どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属している」 「現実の行為は、どんなにやさしく、愛らしい、無邪気な形をとっていても、悖徳の世界に属していた」 節子の上のような美徳は、 節子が夢想する危険な誘惑を現実の行動に移すことでヨロメク。 彼が「よろめき」というタイトルを使ったことの意味は大きい。 人が「よろめく」という語を用いる時、それは「転倒」を指さない。 確かに足取りを乱したものの、また元の姿勢に戻(れ)ることを暗示する表現である。 節子もまた戻る。 漱石の門のように、心の安寧への解を外部に求め歩くものの、これという思いには至らない。 通俗、平凡というものの持つ効用、平穏というものを最後に悟る点も門と同じ。 恋人への愛の憐憫をしたためる手紙が最終章を盛り立てる。 私にはあなたしかいない こうして手紙を送らせていただくことが今の幸せ あなたの胸に飛込みたい 激しい情緒を素直に表した手紙。 しかし作品の最後は 「節子はこの手紙を出さずに、破って捨てた」 という一行で終る。 美徳はしかと、よろめきに留まって終る。 話は逸れるが、彼のエロティックな表現力の豊かさもまた凄い。 村上春樹などは、わりとストレートな単語(ペニスとかセックスとか)を敢えてカタカナで用いることで違和感を世界に作り出し、その違和感さゆえの独特の気恥ずかしさと官能感を読者に与えた(と思う)。 三島はあくまで婉曲。絶妙な表現力で、直接的な表現を割かずして、読者を巧みに官能の世界に引っ張っていく。 並大抵の語彙力では到達できない世界。 今の世にあっては、或いは海外の読者にとっては、村上春樹の表現の方がうけるだろうが、 こういう天才の技が残っていかないのは残念。 科学は受け継がれて進歩していくのに。 >> 続きを読む
2017/08/18 by フッフール
37歳(昭和37年)に三島由紀夫が異色SF小説に挑んだ!そして人類の運命に真正面から向き合う思想小説に昇華させた。 >> 続きを読む
2017/05/16 by とーます
夏の終わりと宴のあと 季節の変わり目を教えてくれるのはスーパーマーケットだ。ビックリした。スナック菓子の棚にはおさつスナックが並び、カレーの素の置かれる棚の、さっと手に取りやすい位置にもうシチューの素も置かれている。いつのまにかイベントとして根付いたハロウィンのフェアーがはじまるのも目前に迫っているし、ハロウィンが終わると、楽しい人には楽しいクリスマスがやってる。森山直太朗くんの声でリフレインされる、夏の終わりの風がまさに吹きぬけようとしている。な〜つのい〜のり🎵 な〜つのお〜わり🎵 クリスマスはもちろん竹内まりや。 音楽といえば、パスピエのわりと最近の曲に「永すぎた春」があります。もしかして、あのヴォーカルの子は三島由紀夫のファンなのかなあ? あの子は僕のタイプだ。線が細くて、どことなく涼しげだ。でもね〜「永すぎた春」もハイパーリアリスト」もいまひとつピンとこない。私のお気に入りのアーティストは森山直太朗さんです。彼の「花」を聞くと、源氏物語の世界が心のうちに広がるのは僕だけだろうか? それと中孝介さんの歌う「恋」ね。この二曲は日本人の心性の奥のほうに響くものがあると思う。日本人が恋愛を大切にして生きてきたことがわかる。恋愛経験に乏しい私でもわかる。そして僕は夕顔が好きだ。 三島由紀夫、本名は平岡公威(きみたけ)。たしか池澤夏樹さんだったと思うが、どういう思考の経路を辿るとこのペンネームになるのかほんとうに不思議だ、と何かの結尾で触れていた。そうだなあ。かつて名探偵だった僕でもわからない。紀田順一郎さん編集のペンネーム由来事典にあたれば一件落着できるのかもしれない。が、解決したくないのかも。それでも識者の教えを乞いたい。 「金閣寺」や「仮面の告白」などの世評の高いものは苦手で、「鏡子の家」や「永すぎた春」、「愛の渇き」、「潮騒」そしてこの「宴のあと」をおもしろく読みました。すこし驚いたことに、「宴」の横に平仮名で「うたげ」とルビが振られてあり、こんな親切は旧版ではなかったと思われる。あの裁判沙汰が忘れ去られたとしても、きちんと「うたげのあと」と読んでもらうための工夫なのだろうか? たしかに宴会を「宴」(もちろん読みはエン)と品よく表現する言い方もあるらしい。しかし、「えんのあと」ではやや滑稽ではないか。こういう細かいところもおもしろい。このあたりも識者の教えを乞いたい。 本音をいうと、三島由紀夫のよい読者ではなく、最近になってミシマ文学にハマりつつある口です。メランコリーな気分のときに読むとますますメランコリーになるのが楽しいね(笑 ほんとうか?) あらすじはいいでしょう? 最近あった都知事選を、あたりまえだけどずっと大昔の都知事選をモデルにした物語なんですって。ドナルド・キーンさんも指摘していますが、全体的にバルザックの小説っぽくて楽しいです。「鏡子の家」も吉田健一にコテンパンにやられたけど、あれも人物に動きがある点では優れていると僕は思いますよ。この作品にしたって見所はやっぱり福沢かづ。配役のイメージとして山本富士子を思い浮かべ、彼女の切り盛りする品のよい宴を満喫したのち、酔いを鎮める晩夏の風に押されるように本を閉じた。 >> 続きを読む
2016/08/20 by 素頓狂
ゼミで読んだ本の一つ。明治の鹿鳴館の社交界で少女と西洋人の出会いについてだ。他の授業で六名とは、美しい物の象徴で(私は不気味なものとしか感じなかった)そこで一生懸命西洋のまねごとをする日本人を見たあわれみ。私はレポートで、菊が象徴する日本文化の死について考えた。歳月を経て、老婆が夢見心地で懐かしむものは美化された記憶なのであろうか。 >> 続きを読む
BMIがぴったり17でもうちょっと太らねばならぬ、ならば脂肪ではなく筋肉だ、と思い立ったところ、二十歳の頃読んだこの本が浮かびました。当時読了したとき、「よし、運動だ!」と生涯初めて自発的な運動をしたように記憶してます。(ランニングと縄跳び。続かなかった。)私は他ならぬ太陽と鉄によって、一つの外国語を学ぶように、肉体の言葉を学んだ。それは私のsecond languageであり、形成された教養であったが、私は今こそその教養形成について語ろうと思うのである。 p.1615歳の三島少年は、その時代の文学者と同様に、仄暗い室内における「夜の思考」をしていました。白い皮膚で「繊細な」感受性をもてあまし、「僕は皆と違う!」と中二病に苦しんでいました。「僕は皆と違う!」という認識は、文学活動においては、生産的に働き、三島青年は川端康成の推薦で文学界にデビューしてしまいます。しかし、本人は、18歳のとき、私は夭折にあこがれながら、自分が夭折にふさわしくないことを感じていた。なぜなら私はドラマティックな死にふさわしい筋肉を欠いていたからである。 p.33という次第で、この貧弱なからだをどげんかせんといかんと焦っていましたが、この時はまだ自分のからだを「運命」と思っていました。終戦があったり、太宰にケチをつけにいったり、『仮面の告白』を発表したり、大蔵省をやめたりしたあと、三島は朝日新聞の出資で世界一周旅行にでかけます。ハワイ近くの洋上で日光浴をしていたとき、三島は太陽体験をします。生まれてはじめて、私は太陽と握手した。いかに永いあいだ、私は太陽に対する親近感を自分の裡に殺してきたことだろう。 そして、日がな一日、日光を浴びながら、私は自分の改造ということを考えはじめた。私に余分なものは何であり、欠けているものは何であるか、ということを。 p.189そういうわけで、三島は夜の思考から徐々に脱していきます。想像力という言葉によって、いかに多くの怠け者の真実が容認されてきたことでろうか。…他人の肉体の痛みをわが痛みの如く感ずるという、想像力の感傷的側面のおかげで、人はいかに自分の肉体の痛みを避けてきたことであろうか。又、精神的な苦悩などという、価値の高低のはなはだ測りにくいものを、想像力がいかに等しなみに崇高化そてきたことであろうか。p.41このように、肉体の言葉は広く精神の言葉をなぎ倒し、その地位に取って代わっていきます。「太陽と鉄」はそんな肉体の言葉が何を語れるかを追究したヴィヴィッドな知見がたくさん詰まった文章です。(付箋だらけになってしまいました。) 男らしい戦士の顔は、いつわりの顔でなければならず、自然な若さの晴朗を失った後は、一種の政治学でこれを作り出さねばならない。… この点で、若さを過ぎた知識人たちの顔は私をぞっとさせた。何という醜態。何という政治学の欠如! 自己をいかにあらわすか、ということよりも、いかに隠すか、という方法によって文学生活をはじめた私は、軍隊の持つ軍服の機能に、改めて感嘆せずにはいられなかった。 p.80このような部分など、後の縦の会結成や自衛隊基地での自決の、自己解説が随所に見られ、あの事件の一見した荒唐無稽さの裏で何を考えていたか、なんとなくわかりました。たぶん三島は「老いるのなんてもってのほか。肉体もいい感じに仕上がったし、いっちょ死んでみるか!」という感じでかる〜く死んでしまったのではないでしょうか。「太陽と鉄」のエピローグでは、大学生三島の戦闘機体験が語られます。さすが、かっこいい。「私の遍歴時代」は、チャーミングな三島おじさんのお笑いエッセイという趣。太宰にいちゃもんをつけたことを「おれも若かった。今は反省している」などと言ってて笑えます。 >> 続きを読む
2014/09/07 by azuma
『目に見えるものが美しくても、直ちにそれが精神的な価値を約束するわけではない。健全なる精神は、健全なる肉体へと宿る』…なるほど、晩年三島が肉体に強いこだわりを持ち続けていたのが、この一文に凝縮されている… >> 続きを読む
2017/07/19 by okusena
【三島由紀夫】(ミシマユキオ) | 読書ログ - 読書ファンが集まる読書レビューサイト(著者,作家,作者)
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