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森鴎外

著者情報
著者名:森鴎外
もりおうがい
モリオウガイ
生年~没年:1862~1922

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このランキングは1日1回更新されます。
      舞姫
      カテゴリー:小説、物語
      3.8
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      • 青空文庫で舞姫を読んでみたが漢語のやうで
        全く理解出来ず、ちくま文庫の現代語訳舞姫を購入。

        現代語訳と言っても、現在の軽いエンタメ日本語ではなく
        昭和初期~中期頃の日本語なので雰囲気は良い。

        ストーリーとしてはとてもシンプル。
        主人公豊太郎の心情があまりにも人間らしくて
        どうしようもなく弱くて優柔不断で共感できる。

        エリスの心に関しても
        身分違いの人に恋をしてしまった不幸で哀れで
        どうしようもできない淡い恋心が共感できたと
        同時にとても懐かしく感じた。
        不安定な恋愛関係の間に生まれるあのツラさ。

        ちくま文庫の現代語訳舞姫に関しては
        解説めいたものも収録されているが
        あまりよく理解出来ず。
        土地の位置関係や土地柄をひたすら論じているのだが
        小説を読む上でそんなに土地の把握が
        大事なのだろうかとさえ思えてくる。

        良いストーリー良い小説だからこそ
        あまり解説は読みたくないなぁ。

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        2017/07/05 by snoopo

    • 他3人がレビュー登録、 16人が本棚登録しています
      阿部一族 他二篇
      カテゴリー:小説、物語
      5.0
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      • "文豪・森鷗外の日本の歴史小説の最高水準を示す「興津弥五右衛門の遺書」と「阿部一族」"

        森鷗外の歴史小説の第一作目となる「興津弥五右衛門の遺書」は、『某儀今年今月今日切腹して相果候事奈何にも唐突の至にて、弥五右衛門奴老耄したるか、乱心したるかと申候者も可有之候へ共、決して左様の事には無之候』という書き出しで始まります。

        この作品は、明治時代の軍人・乃木希典の殉死が直接の動機になって、咄嗟の間に書かれたとの事で、乃木希典の殉死による衝撃が、そのままこの作品に色濃く反映されているとも言われています。

        この純粋な思想小説的な形態の歴史小説に現れている鷗外の思想は、恐らく、古くから鷗外の潜在意識下にあったもので、乃木の殉死に触発されて一挙に噴出したのではないかと思います。幼い鷗外が両親から躾を受けたのは、"侍の家に生まれたのだから、切腹という事が出来なくてはならない"という事だったそうです。

        つまり、封建的な風潮が色濃く残っている時代における、"絶対随順"と"自己否定"の論理だと思います。

        「興津弥五右衛門の遺書」は、題名の示すように、細川三斎公十三回忌に殉死した弥五右衛門の遺書という形になっています。弥五右衛門は若い頃、主命により香木の買い入れに同僚の横田と一緒に長崎へ赴いたところ、仙台の伊達藩からもそれを求めに来ていた者がいて、値段が競り上げられました。その時、香木などに大金を出すのは愚かしい、安い末木でよかろうというのが横田の意見でした。

        主命を絶対とする弥五右衛門は、横田の"いかにも賢人らしき申条"を退け、口論となったが、一刀のもとに横田を斬り捨て、高価な本木を手に入れて帰国します。同僚を殺したからには、切腹するつもりだったが許されず、また三斎公死去の折りにも事情があってそれも叶わず、ようやく三斎公の十三回忌を迎えて、宿願の殉死を決意した弥五右衛門は、心静かに遺書をしたためるのです。

        この思想小説ともいうべき作品のテーマは、殉死という行為そのものよりも、主命とあれば、いかに些細な事であろうと、同僚を斬ってでも達成せずにはおかなかったという点にあると思います。

        高価な本木は伊達家に譲り、たかが焚くものなので末木で構わないという横田の考えは、"いかにも賢人らしき申条"であるだけに、一層、許す事が出来なかったのだろうと思います。この時の弥五右衛門の言い分というのは次のように書かれています。

        「それはいかにも賢人らしま申条なり、さりながら某は只主命と申物が大切なるにて、主君あの城を落せと被仰候はば、鉄壁なりとも乗り取り可申、あの首を取れと被仰候はば、鬼神なりとも討ち果たし可申と同じく、珍らしき品を求め参れと被仰候へば、この上なき名物を求めん所存なり、主命たる以上は、人倫の道に悖り候事は格別、その事柄に立入り候批判がましき儀は無用なりと申候」----。

        主命への無条件の随順、そのためには、自ら切腹する事さえ辞さなかった"武士の倫理"というものが高く掲げられているわけです。それはこの小説によって、間接的に乃木希典の殉死を、当時の大正時代初期に高名な学者の批判から弁護しようという事ではなく、恐らく、鷗外の殉死というものに対する"倫理的な意思表明"とでも言うべきものだったのではないかと推察出来ます。

        しかし、この作品を殉死もしくは殉死に現れた封建時代の道徳の賛美と単純に割り切るのは間違いではないかと思います。当時の明治時代の末から大正時代の初期にかけての日本の社会から滅び去ろうとしている"封建倫理"といったものの、ある意味、優れた一面に対する再認識というか、哀惜の情というか、その炎のような激しさが、作品の中の核になっていて、何か奥深い確かなものが表現されていると思います。

        封建社会に生きる人間の哀れさとでもいうべきものが、滲み出ていて、日露戦争時の旅順攻撃の陣中で、個人的に知り合った乃木大将の、突然の殉死による衝撃が鷗外にとって、いかに大きかったかという事が推察されます。

        この「興津弥五右衛門の遺書」によって明らかなように、歴史小説とは単に過去の人物や事件を扱ったものというだけではなく、過去と現在との同時的な把握とでもいうべき性格を含んでいると思います。現在によって、過去が呼び起こされ、過去の意味が新しく甦ってくるところに、歴史小説の本質、醍醐味があるのだと思います。

        鷗外の歴史小説の二作目の「阿部一族」になると、同じく細川藩の事件で、殉死を扱ってはいますが、「興津弥五右衛門の遺書」のような純粋な思想小説ではなく心理小説になっています。

        殉死の肯定や賛美だと受け取られる気配は全くなく、殉死に対する人間的、心理的な分析と解釈がこの「阿部一族」では描かれています。

        倫理としての殉死というよりは、武士気質の一面とでもいうべき"意地としての殉死"が描かれています。1作目の思想小説に始まって、2作目で早くも心理小説へ移行したわけですが、殉死という特殊な条件の中で、人間の心理を透徹した文体で分析、解釈する方向へ向かったのは、その後の鷗外の小説の諸作品を読めば十分納得出来ます。

        「阿部一族」には、主君細川忠利の死をめぐる家臣たちの、幾つかの殉死が描かれています。最初が内藤長十郎で、家族との最後の杯を済ませた長十郎は、居間に引きこもって一眠りしますが鷗外は次のように描写しています。

        「母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、じっと物を思っている。主人は居間で鼾をかいて寝ている。開け放ってある居間の窓には、下に風鈴を附けた吊荵が吊ってある。その風鈴が折々思い出したように微かに鳴る」と、まるで彫り上げたような簡潔な描写で、武士としての倫理に生きる人々の、息を飲むような、緊張した姿が描き出されています。

        そして、同時に長十郎の殉死には、それを当然だと考えて疑う事を知らない周囲から促された点があり、また一面には、殉死によって遺族が優遇されるという期待と安心というものが存在している事も、鷗外の筆は見逃してはいません。「興津弥五右衛門の遺書」との違いが、早くも出て来ます。

        続いて鷗外は、長十郎の潔い死というものに、殉死を許されず、周囲の無言の軽蔑にたまりかねて切腹した阿部弥一右衛門の運命が対置され、周囲から冷ややかに見られている遺族の様子を伝えます。そして、これに耐えかねた長男が、主君の一周忌に髻を切って位牌に捧げ、縛り首になります。その後、阿部一族は自分の家に立てこもり、追い詰められて、ことごとく討ち死にして果てる事になります。

        阿部一族というものの運命を通して、武士気質の生み出した悲劇を鷗外は冷ややかな眼で凝視して描いています。

        封建的な道徳というものが、その社会に生きる人間にどんな悲劇的な運命を強いたか、その哀れ深さを透徹した文体で的確に描いて見せた、緊張した作品である「阿部一族」は、「興津弥五右衛門の遺書」と並んで日本の歴史小説の最高水準を示す名作だと思います。









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        2016/03/29 by dreamer

    • 他1人がレビュー登録、 2人が本棚登録しています
      ちくま日本文学全集
      4.0
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      • ちくま日本文学全集025

        2017/10/27 by Raven

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      山椒大夫
      カテゴリー:小説、物語
      5.0
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      • 今回、新潮社の森鴎外の全集を読んだ中で一番、僕が感銘を受けたのは、『高瀬舟』でした。

        僕は、この『高瀬舟』において3つのテーマが存在すると感じましたが、『高瀬舟縁起』を読むと、そのうち2つは森鴎外自身が、この話の大元である翁草(おきなぐさ)を読んで感じた大きなものでした。

        一つは財産という観念である。
        二百文を財産として喜んだのが面白い。
        今一つは死にかかっていて死なれずに苦しんでる人を、死なせて遣ると云う事である。

        すでに、この時代に安楽死という考えが、医学社会にあり、陸軍軍医でもあった森鴎外は、その考え方を知っていたようです。

        同じく『高瀬舟縁起』から
        ここに病人があって死に瀕して苦しんでいる。
        それを救う手段はない。

        従来の道徳は苦しませて置けと命じている。
        しかし、医学社会には、これを非とする論がある。
        即ち死に瀕して苦しむものがあったら、楽に死なせて、其の苦を救って遣るが好いと云うものである。
        これをユウタナジイという。
        注)ユウタナジイ(仏) 極楽往生、安楽死

        明治時代に既に“安楽死”という概念があったのですねぇ。
        これには少し驚かされました。

        [解説]
        テーマ
        1.財産と云うものの観念
        2.安楽死
        3.僕が考えるに、鴎外の一般庶民と権力の観念

        「最後の一句」(モバイル:最後の一句)に見られる娘の「お上の事には間違は ございますまいから」という痛烈な権力批判のように、鴎外は官という立場にありながら、それも高い地位に、そういう庶民のしたたかさを知っており、愛情もあったのではなかろうか、と僕はそう考えるのです。

        その他引用、詳しくは、
        森鴎外「高瀬舟」解題 | KI-Literature(文学) http://j.mp/XXe75H にて。
        >> 続きを読む

        2013/03/07 by togusa

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      山椒大夫・高瀬舟・阿部一族
      カテゴリー:小説、物語
      3.0
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      • 日本の文学に触れようキャンペーン実施中(自分の中で)のときに読んだもの。
        大夫というくらいだから、めくるめく煌びやかで大人な花魁の世界なのかと期待した。哀れで仲むつまじい兄弟が登場し、いつ売られていくのだろう?なんて読んでいたが、最後の最後まで煌びやかな話は出て来ず、苦労して生き別れた母に会えたという感動的な話で締めくくられ、なんとも恥ずかしい思いをした。

        日本文学、触れておかないといけないですね。触れておいてよかった。

        本書は短編がいくつも入っているものだったが、面白かったのは山椒大夫と他の数話で、残りは読むのが辛かった。
        ただ、この時代の人がどのような心持で生きていたのかを垣間見れ、勉強になると共に、時代によって世間全般が間違っているときもあるんだものなぁ、などと当たり前なことを再認識して不思議な気持ちがした。

        日本文学、触れておいてよかった。
        >> 続きを読む

        2013/04/10 by chika

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    • 3人が本棚登録しています
      舞姫・うたかたの記
      カテゴリー:小説、物語
      3.0
      いいね!
      • 「我は免すべからぬ罪人なり」←―その通りだよっ!!
        迷惑な「ヴェルテル」には愛されたくないと思ったが、豊太郎とは知り合いにすらなりたくない。
        まったくもって魅力のない主人公ではありますが、思ったほど、豊太郎に嫌悪や憤怒は感じませんでした。
        何故ならば、所詮エリート官僚なんて「こんなもの」だから。

        彼らの名誉欲・出世欲の前に女などの立ち入る隙があろうはずもない。
        権力におもねるのはもはや習性。
        友の言葉についぞ逆らえないなどとは言い訳に過ぎよう。人は結局自分が選んだ道を行くのみである。
        しかるにこの豊太郎は自分で決着もつけずに他人に尻を拭わせ、罪深いのみならず、女々しくも卑怯である。
        人生の岐路にあって選ぶ道が二つに一つと思えれど懸命な努力があれば自ずと第三の道の開かれるものである。
        何故結婚しなかったのか、何故日本に連れて行かないのか?何年後であっても必ず呼び寄せると誓うことはできように。
        時代的に障碍は多くとも「不可能」な訳はない。
        (お互いに親の問題はなく、相手もその気だったのだから)

        初めから豊太郎にそんな気は無かったのだ。
        異国で美少女と貧しいながらも一緒に楽しく暮らすというファンタジーに浸っていたかっただけなのだ。
        臆病な豊太郎としては少女とみえる10代半ばの貧民の娘という一種見下げた相手だから結びえた関係であり、そこには相手への尊敬の心はゼロだ。見目の美しさには惹かれていたが、人格を対象にした愛が先にあったのではない。自分を受け止めてくれる腕の中に安楽に逃げたに過ぎず、一番大切な別れの告白さえも思い悩んでいるうちに言わず仕舞いで、自分は病の床へとまたも逃げたわけだ。情けないにも程がある。
        尤も、褒められることに慣れ、逆境に弱いのがエリート。自己を犠牲にして愛に殉じる美学の持ちようもないだろう。
        大事にしていたおもちゃが壊れて心底ガッカリしている子どもと大差ない。

        これほどに中身は美しくも何ともない小説だけれども、文語で書かれた小説だからまだしも読める。
        翻って「舞姫」の現代語訳で読むのだけはやめておいた方がいいということになろう。
        文語であればこそ、古臭い男女の惚れた腫れた捨てたが文学になる。セリフはあたかも歌舞伎のようだ。外人の女のセリフが「縦令(よしや)富貴になり玉う日はありとも、われをば見棄て玉わじ」だから。
        「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉いしか」
        この大見得が現代語では表現できない。

        「舞姫」はエキゾチシズムが最大の特徴。ベルリンの町の異国情緒の中に外人の美少女との恋愛という素材がセンセーショナルであった事、それを一人称小説で書くという「新しさ」と、よくある男女の愁嘆場を様式美を感じさせるようわざわざ古文体で書くという新旧をドッキングさせた所に妙味のある小説であろう。

        以上、ちょっと固めの評論でした。

        ところでこの「文語」。やけに読みづらい…。
        私の無学を反省することしきりでしたが、どうやら鴎外にもその責があるようです。
        この文体を「擬古文」というらしく、
        江戸時代中期から明治にかけて古代言語に立ち返ることを目的として作られた、要するに「なんちゃって古文」なのだった。
        (高校のころ遊びでやったな~~。嘘古文調会話)
        平安時代の古文に比べた時、文法が不正だったり使われる言葉が時代錯誤だったりする例が結構あるといいます。漢文が混じっている気もします。
        鴎外だから名文に違いないというのは色眼鏡ではないかと思いますよ。
        古文の言葉の美しさを味わうには古の短歌のほうがよい気がします。
        鴎外の「舞姫」は、文末にやたら「ぬ」とか「なり」を付けたがるクセがあるみたいですし。
        内容も教科書の定番にはふさわしくない小説ですね。
        こういう小説の「良さと悪さ」。学校でなんかきちんと教えられるものなの?

        【内容】
        「うたかたの記」(ミュンヘン・ドレスデン)
          めちゃくちゃロマン派っぽい絵画的作品。
          私は一番好きです。この嘘っぽさ。

        「ふた夜」(Friedrich Wilhelm Hackländer “Zwei Nächte” 翻訳)
        「愛なくて結びし縁ほどかなしきものはなしといえば」
        鴎外は恋愛結婚願望が、ほんっとに強かったと言う証拠がここにも。
          とある貴族の士官の儚き恋心。
        僅か半時の逢瀬を心に刻むティーンエイジャーの恋の部分だけが非現実的で美しい。他は平時の一夜と戦時の一夜の兵士達の描写がメイン。
          読みにくく、読むのが辛いくらいつまらなかったです。古典でもない外国の小説を擬古文で訳す意図が不明。古文調の効果で特別に美しくなっているとも思えない。

        「舞姫」(ベルリン)
        正直いうと踊り子を「舞姫」と訳す感性はトンチンカンだと思う。
          この訳語のせいで日本人は大いに妄想を逞しくしたことでしょう。
          皆さんドガの「踊り子」の絵はご存知でしょう。
          エリスはバレリーナです。パリの物語ではないですが

        「文づかい」(バイエルン地方)
          女性の主体性をテーマにした小説。
          イイダ姫の凛々しさはいわゆる見た目の女性美ではない所が素敵。
          家制度による愛の無い結婚をすぐに破たんさせとっとと離婚した鴎外ならではの小説かも。

        「普請」
          官僚とはいかにつまらない人間を装わなければならないかというお話。
          鴎外は官僚として軍人として、かつ作家・文学者として二重の人生を生きましたが、その間には深い断崖があったのかもしれません。
          一人二役を演じる俳優以上に、引き裂かれた人生を選んでしまったのかもしれません。
          また、彼の独逸の思い出はエリーゼとの恋愛と切っても切り離せないのでしょう。鴎外のリアル・エリス事件を彷彿とさせます。


        角川文庫を選んだのは「ドイツ3部作」が一度に読めるためでした。
        全て外人の女性がらみの小説でした。
        興味を惹かれたのは、鴎外の小説の中の女は能動的でありドラマを作る主体であったことです。
        そして男はそろいもそろってデクノボーです!

        鴎外文学における新たな発見でした。
        >> 続きを読む

        2017/06/11 by 月うさぎ

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      高瀬舟
      カテゴリー:小説、物語
      4.0
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      • くっくっく・・・暗い。

        色々考えさせられる作品です。
        高校生の頃、教科書に載ってて、大人になってもう一度
        読んでみました。



        自分が同じ立場になったら、楽にしてあげられるかな・・
        無理だろうな・・とか・・
        主人公と同じ様に楽にしてあげたとして、やっぱり苦しむんだろうなぁと・・・。

        だからこその、罰を受けて安心するって言う心理なのかな・・・

        読んだ後、高校生の時以上に色々考えました^^;
        >> 続きを読む

        2014/04/16 by ♪玉音♪

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      阿部一族
      カテゴリー:小説、物語
      3.0
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      • とても面白かった。

        特に「かのように」はすごい小説だと思う。
        っていうか、これ、戦前の日本ではかなりヤバイ内容だったろうなぁと思う。
        鴎外は小説ということで巧みにごまかしているけれど、国家神道や記紀神話が実は本当のものではない虚構に過ぎない、って言っているわけで、昭和初期によく発禁にならなかったなぁと思った。

        また、個人的には、長い間離れ離れになっていた老夫婦が晩年にやっと一緒に暮らせるようになった「じいさんばあさん」はとても良い作品と思った。
        よく歴史からこのエピソードを掘り起こして作品に残してくれたものだと思う。

        また、「堺事件」を読むと、人の運命ってなんなんだろうなぁと思う。
        本当に、人の生死を分けるのは偶然のようでもあるし、あの当時の不条理さというのは本当になんとも言えぬ気持になる。
        しかし、その中で凛然としていた事件の当事者たちは、本当のサムライだったと思う。

        「鶏」もけっこう面白かったし、「寒山拾得」もとても面白かった。

        「うたかたの記」の中で、マリイが言う、
        「されど、人生いくばくもあらず。うれしと思ふ一弾指の間に、口張りあけて笑はずば、後にくやしくおもふ日あらむ。」と、
        「今日なり、今日なり。昨日ありて何かせむ。明日も、あさても、空しき名のみ、あだなる声のみ。」
        というセリフにはしびれた。
        「うたかたの記」は本当に名作と思う。

        また、「舞姫」を高校の時以来ひさびさに読んだが、やっぱり深く心を動かされる何かがこの作品にはあると思う。

        鴎外の珠玉の作品群が収録されていて、本当にお勧めしたい一冊である。

        「余興」の「己(おれ)の感情は己の感情である。己の思想も己の思想である。天下に一人のそれを理解してくれる人がなくたって、己はそれに安んじなくてはならない。それに安んじて恬然としていなくてはならない。それが出来ぬとしたら、己はどうなるだろう。」というセリフも良かった。
        >> 続きを読む

        2014/11/15 by atsushi

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      山椒大夫・高瀬舟
      カテゴリー:小説、物語
      5.0
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      • 森鴎外の短編集。

        本当に珠玉の名作の数々と思う。

        >> 続きを読む

        2017/09/18 by atsushi

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      最後の一句
      カテゴリー:小説、物語
      5.0
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      • この本には今回読み終わった森鴎外の「最後の一句」の他に、「寒山拾得」「山椒大夫」「高瀬舟」「阿部一族」の五つの歴史小説の名作が収められています。

        この今回読了した「最後の一句」は、大正4年10月の雑誌「中央公論」に発表された歴史小説で、鷗外が長い間、軍医という官吏の生活で感じた社会の様々な矛盾や、自己の中に潜む封建的なものを見直し、正したいという鷗外のモチーフがあったのではないかと思われます。

        元文三年十一月、大阪の船乗り業の桂屋太郎兵衛は、米代金横領のかどで斬罪に処せられる事になりました。太郎兵衛の長女で十六歳のいちは、兄弟とともに父の身代わりになろうと奉行所に願書を出します----。

        この小説の中で最も印象的で重要な箇所でもある、彼らの申し出がやっと聞き入れられ取り調べを受けるラストのクライマックスの場面の描写は、その会話文の運びの面白さ、つまり、取り調べる者の権威をかさに着た言い方と、取り調べられる者の丁重ではあるが決して卑屈にならない言い方が、火花を散らすようにぶつかり合って、「お上のことにまちがいはございますまいから」という"最後の一句"へと盛り上がっていくという描写は、実に読み応えがありました。

        『取り調べ役は、「まつ。」と呼びかけた。しかし、まつは呼ばれたのに気がつかなかった。いちが、「お呼びになったのだよ。」と言ったとき、まつははじめて恐る恐るうなだれていた頭を上げて、縁側の上の役人を見た。「おまえは姉といっしょに死にたいのだな。」と取り調べ役は問うた。まつは、「はい。」と言ってうなずいた。次に取り調べ役は、「長太郎。」と呼びかけた。長太郎はすぐに、「はい。」と言った。「おまえは書きつけに書いてあるとおりに、兄弟いっしょに死にたいのじゃな。」「みんな死にますのに、わたしがひとり生きていたくはありません。」と、長太郎ははっきり答えた。「とく。」と取り調べ役が呼んだ。とくは姉や兄が順序に呼ばれたので、今度は自分が呼ばれたのだと気がついた。そして、ただ目をみはって役人の顔を仰ぎ見た。「おまえも死んでもよいのか。」とくは黙って顔を見ているうちに、くちびるに血色がなくなって、目に涙がいっぱいたまってきた。「初五郎。」と取り調べ役が呼んだ。ようよう六歳になる末子の初五郎は、これも黙って役人の顔を見たが、「おまえはどうじゃ、死ぬるのか。」と問われて、活発にかぶりを振った。書院の人々は覚えず、それを見てほほえんだ。このとき佐佐が書院の敷居ぎわまで進み出て、「いち。」と呼んだ。「はい。」「おまえの申し立てにはうそはあるまいな。もし少しでも申したことにまちがいがあって、人に教えられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隠して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠のことを申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責め道具のある方角を指さした。いちはさされた方角を一目見て、少しもたゆたわずに、「いえ、申したことにまちがいはございません。」と言い放った。その目は冷ややかで、そのことばは静かであった。「そんならいま一つおまえに聞くが、身代わりをお聞き届けになると、おまえたちはすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることはできぬが、それでもよいか。」「よろしゅうございます。」と、同じような、冷ややかな調子で答えたが、少し間を置いて、何か心に浮かんだらしく、「お上のことにまちがいはございますまいから。」と言い足した。佐佐の顔には、不意打ちにあったような、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、険しくなった目が、いちの面に注がれた。憎悪を帯びた驚異の眼とでも言おうか。しかし、佐佐は何も言わなかった。次いで佐佐は何やら取り調べ役にささやいたが、まもなく取り調べ役が町年寄に、「御用が済んだから、引き取れ。」と言い渡した。白州を下がる子供らを見送って、佐佐は太田と稲垣とに向いて、「おい先の恐ろしいものでござりますな。」と言った。心の中には、哀れな孝行娘の影も残らず、人に教唆せられた、愚かな子供の影も残らず、ただ氷のように冷ややかに、やいばのように鋭い、いちの最後のことばの最後の一句が反響しているのである。元文ごろの徳川家の役人は、もとより「マルチリウム」という洋語も知らず、また当時の辞書には献身という訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衛の娘に表われたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。しかし、献身の中に潜む反抗のほこ先は、いちとことばを交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。』

        とにかく、このように、このクライマックスの場面は、まるで舞台劇を見ているかのように、鷗外独特の簡潔で美しく均整のとれた文章で綴られているのです。

        この場面は、大きく言えば、一つには取り調べる者と取り調べられる者との対比で構成されていて、その両者の関係が、会話の文章によって、より緊張感を漲らせていると思うのです。

        しかも取り調べが二女のまつ、養子の長太郎、三女のとく、長男で一番幼い初五郎と来て、最後に長女のいちというように展開していき、否がうえにも、緊張感が盛り上がっていきます。

        更に細かく読み込むと、取り調べに対するこの兄弟5人の個々の反応が、その年齢、立場によって、実にそれらしく考えられて描写されているのです。

        二女まつは14歳、姉の企てを最初から知っています。恐る恐る頭を上げながらも「はい」と応えるのは当然です。長太郎は12歳、太郎兵衛が、跡を継がせるつもりで、女房の里方から赤子の時に引き取った長太郎は、実子でないという事で、いちが身代わりからはずそうとしたのを、後から自分も加わりたいと願い出て、「みんな死にますのに、わたしがひとり生きていたくはありません」と父への身代わりというより、強い兄弟意識からの答えをします。

        三女とくは8歳なので、ただ役人がこわかったと思われます。そして六歳の初五郎は、無邪気にかぶりを振ったのです。この箇所は、取り調べのアクセントをなす実にうまい描写だと感心します。その無邪気さに「書院の人々は覚えず、それを見てほほえんだ。」と表現されています。つまり、この箇所があるために、次のいちの語る言葉がより一層引き立つのだと思います。

        いちの冷ややかで静かな言葉は、そして最後の一句の不意打ちがピリリと生きてくるのです。

        このあまりにも劇的な構成と、会話の絶妙な運びが、「お上のことにまちがいはございますまいから。」という一句に無限の重みが出てくるのだと思います。

        これらのことから、この小説のテーマが、「お上のことにまちがいはございますまいから。」という、いちの最後の一句に込められた、"お上に対する痛烈な批判"であるということが、透かし絵のように浮かび上がってきます。

        お上という絶大な権力の前では無力な庶民が、命を犠牲にして言い放った"真実の言葉"なのだろうと強く思うのです。

        このことが、たんに奉行の佐佐たちだけではなく、その"献身の中に潜む反抗"ということにたじろぎ、胸を打たれてしまいます。

        この「最後の一句」という小説は、献身の美しさだけではなく、そこに潜む反抗と、その反抗に向けられた先を暴いたのです。献身というものは、封建制度下においては美徳です。だが、鷗外はその一面だけではなく、当然、それに付随する他の面も描かずにおけなかったのだと思います。
        >> 続きを読む

        2016/11/03 by dreamer

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      森鴎外全集
      カテゴリー:作品集
      5.0
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      • 『森鴎外全集1』(森鴎外) <ちくま文庫> 読了です。

        いきなり文語体で、「これは読み終わるのに時間がかかるなあ」と覚悟したのですが、「半日」から口語体になり、一気に読み進めることができました。

        ドイツ三部作では「舞姫」が有名だと思いますが、私は「文づかひ」が好みです。
        いろいろと謎が残っているところがいいですね。

        森鴎外というと何だか堅苦しいイメージがありましたが、意外に読み易く、「朝寐」や「有楽門」、「懇親会」といったようなユーモア作品も多くあります。
        でも、そんな中でも何か考えさせるものがあります。

        「鶏」から俄然面白くなってきました。
        # 他の作品がつまらない、という訳ではありません。
        # どれも佳作だと思いますが、その中でも、ということです。
        これから読み進めていくのがとても楽しみです。
        >> 続きを読む

        2016/12/25 by IKUNO

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      森鴎外全集
      カテゴリー:作品集
      4.0
      いいね!
      • 『森鴎外全集2』(森鴎外) <ちくま文庫> 読了です。

        小品ですが、「電車の窓」「里芋の芽と不動の目」「桟橋」「花子」「あそび」「身上話」のような作品が私には好みです。

        文壇を攻撃する「杯」「ル・パルナス・アンビュラン」等の作品は、ちょっとあからさま過ぎて、なかなかうけがうことが難しいように感じました。こういうのを読むと、森鴎外は頑固で激しい人だったんだな、と思ってしまいます。

        長編「青年」が収録されています。
        これはなかなかの傑作で、とても面白く読むことができました。
        森鴎外といえば「舞姫」だとか「山椒大夫」だとか「高瀬舟」だとかがすぐ出てきますが、「青年」も代表作と言っていいのではないでしょうか。

        解説では「必ずしも評判がよいとはいえない作品」と書かれていますが、私には、「もし森鴎外が「青年」しか残さなかったとしても、文学史上に名を遺すことになったのではないだろうか」とすら思えました。
        もし森鴎外の諸作品が好きなでもまだこれを読まれていない方がおられたら、ぜひ一読をおすすめしたいです。
        >> 続きを読む

        2017/08/13 by IKUNO

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      森鴎外
      カテゴリー:小説、物語
      5.0
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      • 森鴎外の「田楽豆腐」や「花子」や「桟橋」は面白かった。

        特に「田楽豆腐」はなかなか良い作品と思う。

        他にも「独身」や「そめちがへ」もなかなか面白かった。

        良い一冊だった。
        >> 続きを読む

        2017/09/18 by atsushi

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      舞姫 現代語訳
      カテゴリー:小説、物語
      3.0
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      • 5月の課題図書。
        原文に怯んだため、ひとまずちくま文庫の現代語訳から読むことにしました。
        あまりよく調べないで購入したため、原文も収録されているとは知らず。
        他の出版社から出ている短編集も同時購入してしまいました。失敗失敗。

        以下の通り、舞姫な一冊となっております。
        鴎外が星新一の、母方の大伯父にあたることを初めて知りました。

        ―――――――――――――――――――――――
        現代語訳 舞姫 井上靖 訳
        解説 山崎一穎
        舞姫 原文

        資料編
        資料・エリス 星新一
        兄の帰朝 小金井喜美子
        BERLIN 1888 前田愛
        ―――――――――――――――――――――――

        井上靖さんの現代語訳は原文の雰囲気のままで素晴らしかったと思います。
        しかしこの「舞姫」自体が、現代語にするまでもない話でした。
        最初から最後まで、こんなにも心に響いてこないなんて!
        豊太郎は肝心なところで何もしていないところに腹が立ちました。
        官を解かれたときに家を思い、自殺したのは母。
        エリスに全てを告げたのは相沢。
        豊太郎が目覚めたときには、すでに様々なことが終わっていたのだから。
        なんだかご都合主義すぎませんか?

        それでも訳と資料が良かったので★1つ追加し、★3でレビューします。
        >> 続きを読む

        2017/06/20 by あすか

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      森鴎外 1862-1922
      カテゴリー:小説、物語
      5.0
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      • "透徹した内面描写と気品のある簡潔な文体で自己の生き方に対する悔恨を描く森鷗外の名作「妄想」、「舞姫」"

        三島由紀夫は自著の「作家論」の中で森鷗外について、「森鷗外とは何か? そこで私は、ここらで、鷗外という存在の、現代における定義を下すべきだと思う。鷗外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に復活すべき人なのだ。言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創り上げてしまったその天才を称揚すべきなのだ。どんな時代になろうと、文学が、気品乃至品格という点から評価されるべきなら、鷗外はおそらく近代一の気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な檜のみで築かれた建築のように、一つの建築的精華なのだ。現在われわれの身のまわりにある、粗雑な、ゴミゴミした、無神経な、冗長な、甘い、フニャフニャした、下卑た、不透明な、文章の氾濫に、若い世代もいつかは愛想を尽かし、見るのもイヤになる時が来るにちがいない。人間の趣味は、どんな人でも、必ず洗練へ向って進むものだからだ。そのとき彼らは鷗外の美を再発見し、「カッコいい」とは正しくこのことだと悟るにちがいない。」と自身の文学観・美学を内包させながら、理路整然と冷静に分析して語っています。

        その他にもこの著書の中で鷗外について、一旦ヨーロッパ的教養に濾過されて、簡潔鮮明な日本語になっていて、そのまぎれもない日本語の文体に酔うのであるとか、日本語の文章というか文体について、その芳香はただの花の、大理石の花の芳香であり、いささかのあいまいさもない、"明晰さの芳香"であり、"明晰さの詩"であるとも語っています。

        このように、三島由紀夫が絶賛する"森鷗外"という作家について、俄然、興味がわき、一度は挑むべき作家だと思い彼の作品集を購入し、まずはこの本を読了しました。

        この本には鷗外の初期の浪漫的な作品の「舞姫」、「文づかひ」、中期の反自然主義の作家としての理知的な作風の「妄想」、晩年の実証的な歴史小説の「山椒大夫」、「高瀬舟」、「寒山拾得」など計16編の作品が載っていますが、この中で特に鷗外の思想が、ほとんど生の形で語り明かされている「妄想」と、この作品を語る上で関連のある「舞姫」が特に私にインパクトを与え、様々な事を考えさせられました。

        「妄想」の中の重要な一節----『未来の幻影を追うて、現在の事実を蔑にする自分の心は、まだ元のままである。人の生涯はもう下り坂になって行くのに、追うているのはなんの影やら。「いかにして人は己を知ることを得べきか。省察を以てしては決して能はざらむ。されど行為を以てしてはあるいは能くせむ。汝の義務を果たさむと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり」これはギョオテのことばである。

        日の要求を義務として、それを果たして行く。これはちょうど現在の事実を蔑にする反対である。自分はどうしてそういう境地に身を置くことができないだろう。日の要求に応じて能事おわるとするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るということが、自分にはできない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のいないはずの所に自分がいるようである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることができないのである。』

        主人公は自分と表現されている人生の晩年を迎えている一人の人間で、若い頃から現在の晩年に至るまで、"未来の幻影を追うて、現在の事実を蔑にする"生き方で自分の人生を生きてきたと自己分析しています。

        この"未来の幻影を追う"というのは、この主人公が未来に求めるものを"幻影"、つまり、現実性の希薄な空しい幻と思っていて、恐らく、青年時代には実現の可能性を信じて追い求めていた夢が、実は実現が不可能な空しい幻の影に過ぎないと考えるに至った、夢破れた老境にある人間の言葉なのだと思います。

        しかし、ここで主人公はただたんに、若き日の夢に破れた嘆きの言葉を綴っているだけではなく、自分の"未来の幻影を追う"という人生の生き方そのものに疑問を抱いているのだと思います。つまり、主人公は自分がこれまで"現在の事実"を軽んじてきた事に目を向け、その軽んじてきた"現在の事実"が、人生を生きる上において、人間にとって実はもっと価値のある重要なものである事を問題にしているのです。

        そして、主人公が"現在の事実"をどう考えているのかというと、ここでギョオテ(ゲーテ)の言葉を引用して、"現在の事実を蔑にする反対"、つまり"現在の事実を重んじる"人間の生き方というように、主人公が新たに目を向け、新たに求め出した生き方を、ギョオテ(ゲーテ)の言葉の中に見出そうとしています。

        ギョオテ(ゲーテ)の言葉というのは、恐らくこのような事ではないかと推察できます。"観念の幻影の世界に住んでいる限り、人間は自分の価値を知る事が出来ない。自分を知るためには、日々自分が人間として生活していく上において、行なう事を義務として要求されている日常の身の回りのありふれた事柄を、もっと大切にして、それを立派に果たしていく事が必要である"----。

        そして、この後、主人公はそういう世界に自分を持っていくためには、現在の自分には何が欠けているのかを考えようとします。"足ることを知らなくてはならない"、しかし、現在の自分を分析して、"足るを知るということが自分にはできない"と考えるのです。

        つまり、自分と等身大の満足出来る境地に自分が未だに到達出来ていないから、自分は常に現在の自分に不平を持ち続け、定まるところのない永遠の幻を追う、"永遠の不平家"でしかない。"幻影"というものに操られて生涯を終える生き方----果たしてそれが人間として価値ある生き方と言えるだろうか。晩年を迎えるに及んで、主人公は自分の生き方に空しさを覚え、自分自身を中心に据えて生きてはいない事を感じているのだと思います。そして、それは"どうしても自分のいないはずの所に自分がいるようである"という言葉が、その心境を端的に示しています。

        真の自分を取り戻すためには、"足ることを知る"自分にならなければならない。この身の回りの"現在の事実"を、そのまま自分の満ち足りた理想の姿と見なせるようにならなければならない。すなわち、"灰色の鳥を青い鳥に見なせる境地"に自分を導かなければならない---と、このような境地へと至るのです。

        そのような人生の新しい生き方に向って、一歩を踏み出そうとして、じっと現在の自分を見つめている主人公の晩年の姿は、とりもなおさず、森鷗外自身の晩年の姿であると思います。

        この「妄想」が発表されたのは、明治44年で、この年、鷗外は50歳に達していて、人生50年という昔の考え方からすれば、鷗外の人生は、もう下り坂の時期になっていたものと思われます。

        この「妄想」という作品を書いた頃の鷗外は、すでに陸軍軍医総監・陸軍医務局長であり、功成り名を遂げた地位にあり、文学者としても文学博士の称号を受け、「三田文学」、「スバル」を背景とする文壇の重鎮として尊敬を受ける立場でもありました。このような、端から見ると申し分のない境遇にいて、どうして人生への悔いがあり得ようかと思ってしまいますが、例え立派な地位にいて、順風満帆の人生だと思われても、魂の満たされない生への不満、空しさ、そういう不平こそが、実は鷗外のこの中で表現されている、"自分は永遠なる不平家"と言っている所以だろうと思います。

        この「妄想」の中でも、主人公のドイツ留学時代を振り返った文章の一節に、『生まれてから今日まで、自分は何をしているか。始終何物かに策(むち)うたれ駆られているように学問ということに齷齪(あくせく)している。----舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を務め続けている。この役がすなわち生だとは考えられない。背後にある或る物が真の生ではあるまいかと思われる。』とあり、自分を舞台の役者になぞらえ、その生涯を何物かに追われているようにただ、あくせくと働いて来たと"自虐的にかつシニカルに回想しています。

        これはドイツ留学時代の若き鷗外の心境として語られている言葉で、若き鷗外は、当時の先進的な近代国家であるドイツの風にふれる事によって、これまで自分が真の生だと思い込んでいた"舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を務め続けているこの役"が、近代以前の封建的な無自覚な生にすぎない事に気づき、そして、その背後にある"近代人としての自我"に目覚めるのだと思います。

        これらの事は、実は「舞姫」を続けて読んだ時に感じたのですが、この「舞姫」の若き主人公・太田豊太郎も鷗外自身の分身で、次のような一節があります。

        『ただ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当たりたればにや、心の中なにとなく妥(おだやか)ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、ようよう表にあらわれて、きのうまでの我ならむ我を攻むるに似たり。』と書かれています。

        "まことの我"、すなわち、近代人としての真の生に目覚めた主人公は、それまでの、操り人形のような、栄達を求めて生きる人生の生き方を否定し、やがて、可憐なドイツ人の踊り子エリスとの恋愛に、他人に支配されない自由な近代人としての人生を見い出すかに見えます。

        しかし、主人公はいったん捨てた栄達を求めて生きる人生と、自分の人間的な内面の生を重んじて生きる人生との相克に悩み苦しんだ末に、結局は踊り子エリスとの恋を捨てる事によって、その時、自己の内面を重んじる生き方を手放したのです。

        その時の、真の生を捨てた"悔恨"----青春の日の"悔恨の情"こそが、「舞姫」のテーマだと思いますが、その"真の生の放棄"と入れ替えに、主人公は"約束された将来への社会的な栄達の人生"を獲得するに至るわけです。

        この「舞姫」の主人公は鷗外の分身ですから、そうしますと、鷗外その人の日本への帰朝後の実人生は、「舞姫」の主人公にぴったり重なった形で歩まれていて、そして、この晩年の「妄想」の時点に立っているという事になります。

        「妄想」の中の"未来の幻影"とは、こうした人生における、際限のない世俗的な栄達への欲望、野心であると言えます。このような外面的な欲望、野心の虜になる時、人間は真の自分、真の生を見失ってしまいます。"自分のいないはずの所に自分がいる"、そういう人間にならざるを得ません。そして、そういう自分の姿に気がついた時に、人は自分の人生を空しく思ってしまうのです。

        これまでの自分の人生が、幻影を追って来た人生であるのにすぎないとすると、自分の生涯は徒労であったというように---。しかも自分の人生は既に黄昏てしまったと----。

        これが、晩年を迎えた鷗外の心をよぎった"妄想"であり、若き日の鷗外が、踊り子のエリスを捨てる事で失ったもののかけがえのない大きさにじっと思いをこらし、振り返っている鷗外の姿がそこにあるのです。









        >> 続きを読む

        2016/03/28 by dreamer

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【森鴎外】(モリオウガイ) | 読書ログ - 読書ファンが集まる読書レビューサイト(著者,作家,作者)

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