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【息苦しい……でも、カフカ的とは感じなかった】 カズオ・イシグロの作品は、これまでにいくつか読んできましたが、どうやら本作は、『浮世の画家』、『日の名残り』と並んで、それまでの幻想的な作風からリアリズム的な作風に変わった時期のもののようです。 確かに、私がこれまでに読んできたカズオ・イシグロの作品とは全く違っていました。 ですから、読み進めていくうちに違和感を覚え、また、これは一体どういう話なのだろうかと面食らってしまったのです。 物語は第二次世界大戦終戦直後の長崎を舞台にしたパートと、その後、主人公の悦子が渡英した後のパートの2つが交互に語られていきます。 主人公の悦子は、日本人男性と結婚し、終戦後間もない長崎で、お腹の中に子供を抱えて生活していました。 長崎は、ようやく復興の兆しが見え始めたものの、未だ完全には立ち直っていませんでした。 悦子の家の近くの、川近くに建つ相当粗末な家には、佐知子とその娘の万里子が二人だけで生活していたのです。 佐知子は、どうにも身勝手というか無計画というか、ある意味で自堕落というか……。 今では落ちぶれているけれど、昔はかなり裕福だったのだと事あるごとに悦子に吹聴します。 子供の万里子に対してはあまり目をかけてやっていないようでもあり、少々ネグレクトではないかと。 子供を家に置いたまま、長崎の街に外国人の愛人と会いに出かけたり平気でしています。 それでも、佐知子は生活のために悦子の紹介でうどん屋で働くなどもするのですが、その一方で、何度騙されても外国人の男と別れられず、必ずアメリカに連れて行ってもらうのだと夢見ています。 足が地についていないのですよね。 悦子に対しては平気で借金を申し込むようなところもあるし。 一方の悦子は、我慢強く、おとなしい女性に描かれています。 この物語は、悦子が既にイギリスに渡ってしばらくした後の時から始まります。 長崎時代、お腹の中にいた子供の景子は、イギリスで首を吊って自殺してしまったのです。 その後に生まれた景子の妹であるニキ(現在は親と離れてロンドンで一人暮らしをしています)が、葬儀に出席するために母親の元に戻ってきたところから始まるのです。 イギリスでの悦子とニキの会話、その過程で長崎時代の事を思い出し、その頃のこととして描写される佐知子と万里子のこと、悦子夫婦の家に遊びに来ていた義父のこと、そんな日常的な風景が描かれていきます。 それは、なんて言うのでしょう、何だか他人の私生活を覗き見ているようなところもあり、私には決して居心地の良いものではありませんでした。 それは決して幸せな描写ではなく、敗戦後の貧しさも描かれますし、人間の負の気持ちも描かれていて、読んでいて息苦しくなるようなものでした。 かといって、それが何か大きな事件につながり発展していくという作品でもなく、ただ淡々とそれらのことが語られ、唐突に現在のイギリスでの悦子の生活に飛んでいくのです。 巻末解説では、このような作風を『薄明の世界』と評していますが、そうかもしれません。 特に、中心をなしている長崎時代の描写は、淡い、薄墨のような、それでいて戦争の影や、古い時代と新しい時代の相克を引きずっているような描写になっています。 ご存知の通り、カズオ・イシグロは、長崎県で生まれ、5歳の時にイギリスに渡り、以後、英国籍を取得して英語を母国語として小説を書くようになったわけですが、本作は、何か作者の私小説的な感じもしてしまいました。 ちなみに、リードで書いた『カフカ的云々』という点ですが、これは巻末解説で、本作を含めたいくつかの作品について「カフカ的という形容は誰にでも思いつくだろう」と書かれていた点についての私なりの感想です。 私は、本作を『カフカ的』とは全く感じなかったものですから。 >> 続きを読む
2019/11/26 by ef177
『民主主義には二度万歳をしよう。一度目は、多様性を許すからであり、二度目は批判を許すからである。ただし、二度で十分。三度も喝采する必要はない。三度の喝采に値するのは「わが恋人、慕わしき共和国」だけである』(144ページ) 民主主義をひたすら称える思想は多い。笑う思想も多い。疑うだけ疑って、仕方なく居直る思想も多い。しかし、ある程度認めて、あとはそっとして置く、このような思想は余り多くないのではないか。そう考えたが最後、E・M・フォースターの虜になっていた。 わたしはその程度がひどく、例えば、頭のなかを整理するとき、E・M・フォースター座りで行う(もちろん、一人のときだよ)。まず、椅子に包まれるようにして座り、そのとき臀部が座の奥にあるか確認する、そして背中を背板にやや凭れさせ、窓の外遠くを眺めるような姿勢になれば完成だ。人には思索が捗る姿勢があるらしく、英国詩人ワーズワースは、部屋を真っ暗にして詩作に励んでいた。これをシェリーが耳にして、真似をしようと暗闇で羽ペンを走らせたのは有名な笑い話。 もちろん、フォースターにも欠点はある、いや多いともいえる。フォースターは絶えず考える人である反面、その行動力は乏しく(旅行は好きだったが)、彼の思想から未来を切り開く突破口は期待できない。あくまでも相談相手止まり、アリストテレスやカントのような追いかけるべき背中を見せてはくれない。 それでは、フォースターの思想は、時代遅れで役に立たないのであろうか。否、そうではないとわたしは信じたい。二、三年前、戦後最大の民間思想家である吉本隆明が亡くなったが、吉本の思想の基底には「個人」があった。「個人の生活は国家よりも大きい」「個人から世界を見るべきだ」 これは、つねに「個人」を第一としたフォースターの思想の系譜を引くものと考えて間違いない。ところで、このレヴュー、何回思想という言葉が出てくるのかしら、まあいいや。だから、こう賞賛しておく。 E・M・フォースターには二度万歳しよう、と。 >> 続きを読む
2015/01/17 by 素頓狂
光文社古典新訳文庫、上下巻の上巻。ブロンテ3姉妹の次女、エミリー・ブロンテ1847年の作品です。イギリス、ヨークシャーの荒野が舞台となり、リントン家とアーンショウ家で起こるとてつもない悲劇が描かれています。読み始めから不穏な空気が漂います。場面場面で人と人との争いが絶えません。この先の話はどうなってしまうのかと不安な感情に襲われます。同時代の作品だと、貧しく過酷な環境でも、懸命に生きていればそこから一筋の希望が見えてくるという物語(例えばシャーロット・ブロンデとかディケンズとか)が主流なので、ズブズブと泥沼にはまっていくような展開をなすこの作品は、当時では異質だったことでしょう。私も他とは違う違和感を覚えました。ただ語り手が次々に入れ替わる作品の構造とか、人間の悪・闇の部分をかなりの筆圧で描ききっている所はすごいと感じました。いずれにせよ、こういう内容で書こうと思ったE.ブロンテのぶっ飛び具合に感服してしまいます。さて後半はどうなるのか、前向きな話には絶対ならないところへ向かう重い気持ちと、どこまで落ちるんだろうという怖いもの見たさとが入り混じった気持ちでいます。 >> 続きを読む
2018/01/17 by Reo-1971
エミリー・ブロンデ1847年の作品。光文社古典新訳文庫、上下巻の下巻。上巻と下巻の4分の3ぐらいの所までは、心にずしりと鉛を置かれたような状態で読み続けていました。ヒースクリフの鬼の所業に対して嫌悪感を持ち続けながら。昔、北九州監禁殺人事件のノンフィクションを読んだんですが、その時に感じた、"人はこんなにも鬼畜になれるのか"という絶望感と同じ感情が甦ってきました。E・ブロンデはどこに向かってこの作品を書いていたんだろうか、人はどこまで悪魔になるのかという試みなのだろうか、と。しかしながら、そういった自分の重苦しい感情は、ラストの部分を読み進むにつれ、しだいに変わっていきました。ヒースクリフも悪魔ではなく、人だったんだと。嵐が丘の主人に孤児として拾われた男は、一生幸せと言うものを持ち得ず、結局孤独に死んでいったのです。孤児は孤児のまま変わらなかった、切ない人生。そんな血みどろな人間模様が屋敷の中で展開されているその外のムーア(荒れ地)では、さわやかな風が吹いているのです。作者のE・ブロンデはこの作品を出した次の年に亡くなりました。30才という若さで。この作品に費やしたエネルギーは計りしれないものだったでしょう。その影響が命を短くしたこともなきにしもあらずだと思います。そのエネルギーが伝わり、読むこちらもかなり神経をすり減らしながらも物語に十分入り込むことが出来たと感じています。 >> 続きを読む
2018/01/20 by Reo-1971
【小野寺健】(オノデラタケシ) | 読書ログ - 読書ファンが集まる読書レビューサイト(著者,作家,作者)
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