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オスカー・ワイルド

著者情報
著者名:オスカー・ワイルド
おすかー・わいるど
オスカー・ワイルド
生年~没年:1854~1900

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      幸福な王子 ワイルド童話全集
      カテゴリー:小説、物語
      3.8
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      • 改めて読むと、
        『王子』の貧しい人への愛に元づく自己犠牲の物語というより、
        『ツバメと王子』の愛の物語がメインのように感じた。

        まず生前豊かに暮らしいて王子は、

        『貧しい人は助けなくてはいけない』

        という理想的で少し幼さ(知ってか知らずかこの地で冬を越せないツバメを引き止めて、死なせてしまってる点とか)
        も感じる信念の元動いていて、


        それに対して、ツバメは

        『王子の役に立てるなら、死んでも構わない』
        という愛に元づく自己犠牲で王子の頼みごとを聞いている。
        (ツバメは貧しい人を救うなんて高貴なことを考えると
        寝ちゃいそう)

        そして、ついにツバメは寒さのあまり死んでしまい、
        追って王子も愛する者の死を感じ取り、死んでしまう。

        男女の愛とか自己愛より

        自己犠牲の愛の素晴らしさを伝えたかったんだろうと
        思う。


        キリスト教的価値観に馴染みがなく所々理解に苦しむけど、
        (特に最後の一文、「天国で私を褒め称えるようにするつもりだ」って
        言っちゃう神様って…そのままに受け取ると違和感しかない)


        昔は貧しい人のために犠牲になる王子イケメンと思ってたけど、

        今読むと自己犠牲を発揮するツバメさんイケメン!








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        2016/05/23 by kitutuki

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      サロメ
      カテゴリー:戯曲
      4.5
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      • まさかの旧仮名づかい!ちょっととっつきにくさを感じますが、
        ビアズリーの挿絵がたっぷり入っていてデカダンムード120%
        しかし、私は最近知りました。
        オスカー・ワイルドがビアズリーの絵も人も大嫌いだったということを。
        それを知って納得したのですが、ビアズリーの絵は、「ワイルドのサロメ」には合っていません。
        このサロメは、若く儚く透き通った月のように清らな乙女なのです。
        一方、男心を惑わす妖しい魅力を備えていることを自覚もしている。
        サロメが初めて恋に落ちるその瞬間、その相手とは……。
        月の光を浴びてはいけない。月は人の心を狂わせるから。
        摩訶不思議な月の光に溢れた宵に、倒錯した愛と狂気に満ちた美の世界が展開します。

        「なんて痩せているのだろう!ほっそりとした象牙の人形みたい」
        「その肌の白いこと、一度も刈られたことのない野に咲き誇る百合のよう、山に降り降りた雪のよう」
        「お前の髪は葡萄の房、エドムの国のエドムの園に実った黒葡萄の房」
        「お前の唇は象牙の塔に施した緋色の縞。象牙の刃を入れた柘榴の実」
        サロメが観た男は決して女の愛を受け入れてはくれぬ預言者ヨカナーンでした。

        ええとですね。実際のヨカナーンはラクダの毛の衣を身に纏い荒野をさすらう放浪者です。
        外見はほぼホームレスですね。しかし月の魔力か恋の力か、サロメの目にはこの通りの美青年に映るのです。

        Suffer me to kiss thy mouth. 
        憑かれたようにヨカナーンを求めるサロメ。冷たく拒むヨカナーン。
        彼を手に入れるためなら何でもする。そしてサロメが望んだものは…。

        さて。ここでいつもの翻訳読み比べタイム!
        How beautiful is the Princess Salomé to-night!
        「いかにも美しい、今宵の王女サロメは!」(福田訳)
        「こよいはなんとお美しいことだ、サロメ王女は!」(西村訳)

        Thou speaketh truly. God is terrible; He breaketh the strong and the weak as a man brays corn in a mortar. But this man hath never seen God. No man hath seen God since the prophet Elias.

        「全くそのとほりだ。神は恐しい。弱いも強いも一緒くた、碾臼の中の穀物同然、みんな打ちのめされてしまふのだ。
        だが、あの男が神を見たわけがない。神を見た者は預言者エリア以來ひとりもゐないのだ。」
        (福田訳)

        「いわれるとおりだ。神さまは恐ろしい。強い者も弱い者も打ち砕かれる、人間が小麦を臼でつき砕くように。
        だが、あの男は神さまなどついぞ見たことはないのだ。預言者エリアこのかた、神さまを見た者はひとりとしておらぬわ」(西村訳)

        Ah! I have kissed thy mouth, Jokanaan, I have kissed thy mouth. There was a bitter taste on thy lips. Was it the taste of blood?... But perchance it is the taste of love.... They say that love hath a bitter taste.... But what of that? what of that?

        「あゝ!あたしはたうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン、お前の口に口づけしたよ。
        お前の唇はにがい味がする。血の味なのかい、これは?……いゝえ、さうではなうて、たぶんそれは恋の味なのだよ。恋はにがい味がするとか……でも、それがどうしたのだい? どうしたといふのだい?」
        (福田訳) 

        「ああ!おまえの口にくちづけしたよ、ヨカナーン、おまえの口にくちづけしたよ。
        おまえの唇は苦い味がした。あれは血の味だったのか?……いいえ、ことによると恋の味かもしれぬ……恋は苦い味がするとか……でも、それがなんだというの?それがなんだというの?」
        (西村訳)

        新潮版は、語順も言葉もほぼ直訳です。

        Kill that woman!  「殺せ、あの女を!」(福田訳) 「あの女を殺せい!」(西村訳) 


        仮名遣いに関しては読んでいるうちに慣れますから問題ないです。
        岩波版は文中に訳注が入らないので、新潮版よりも読み易いくらいでした。
        古文調に翻訳するのもワイルドの意図に沿っていると思います。
        ワイルドの原文では hath = has thy=yourという具合に古語を使用しています。この作品は下手に現代口語にしてはいけないのです。

        私ならサロメのセリフに「あたし…だよ」とか「お前」は使いません。
        少なくとも thyは「そなた」でしょう。

        もう一つ不満。新約聖書に馴染んでいる日本人ならば、王の名は「ヘロデ王」であるはずです。
        それをフランス語読みのつもりなのか「エロド」と呼び変えているのがわざとらしくて厭。

        古典的で文語的だからといって、福田訳を「作品のもつ耽美性、毒々しさ、残忍さ、悲喜劇性が際立つ名訳」と決めつけるのはどうでしょう?
        翻訳家の権威に目がくらんでいる人も多いのでは?

        言葉のリズムに限れば西村訳のほうが優れている気がするのですが。

        また、毒々しさというのは「ビアズリーのサロメ観」であって、オスカー・ワイルドの戯曲の世界観とは別物だと、今の私は確信しています。
        岩波版の「サロメ」は、絵本のように大量の挿絵が入っているため、どうしてもビアズリーの個性である毒気に引きずられます。
        読者の印象がビアズリー解釈の「サロメ」になってしまうことでしょう。
        でも、まあ、これはこれ。ということで。

        先達のありがたいお仕事を参考に、脚本家気分で自分で翻訳してみるのが一番いいのでしょうね。

        P.S.
        もう1冊光文社の新訳が出ているので、いずれそれも読んでみたいと思います。
        宮本亜門演出で国立劇場で舞台化した「サロメ」は、平野啓一郎の新訳を脚本化したそうです。
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        2015/11/21 by 月うさぎ

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      ドリアン・グレイの肖像
      カテゴリー:小説、物語
      5.0
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      • オスカー・ワイルドを語るときに「彼の人生そのものが芸術作品」という表現がありますが、
        それは芸術至上主義のワイルドに対し、少し失礼な気がします。
        「ドリアン・グレイの肖像」は非常に魅力的で稀有な小説です。
        物語の世界に引きずり込まれる快感がこの小説にはあります。
        ストーリーの神秘的・魔力的な魅力と奇抜さ。
        登場人物の圧倒的な魅力と存在感。
        美意識に彩られた芸術論と個人主義哲学への共感。
        シェイクスピアを思わせる文章の美しさ、演劇的な演出、自然美の表現などなど。
        心を去らない一冊。紛れもない名作と言えるでしょう。

        【ストーリー】
        若さと美貌と純真無垢な精神を兼ね備えた20歳の貴族、ドリアン・グレイ。
        仕上がったばかりの彼の肖像画は青年画家、バジル・ホールウォードの最高傑作になった。
        ドリアンは初対面のヘンリー・ウォットン卿の話術に幻惑され、自分の若さと美貌の価値を知り、それを失う恐怖から肖像画に向かって叫んでしまう。

        「いつまでも若さを失わずにいるのがぼく自身で、老いこんでいくのがこの絵だったなら!」

        新しい思想(ヘドニズム=快楽主義)に耽溺し、贅沢や快楽主義に耽ってゆくドリアンは知的ながらも傲慢で無反省な人間へと堕落していきます。
        彼の真の魂を見つめるのは彼の肖像画だけでした…。

        デヴィッド・ボウイの愛読書としても知られ、70年代に多くの少女漫画家が取り上げられていました。
        当時、耽美や倒錯愛や退廃文化に染まっていた女子高生の頃に読んだこの本は、今読めばきっと別の感想になるはず……。でしたが、そう変りませんでした~(^o^;)

        「芸術家とは、美なるものの創造者である」
        「すべて芸術はまったく無用である」

        ワイルドのこの芸術論には全く同感ですし。
        彼の美学や良心に対する姿勢は今でも非常に共感できます。
        というよりも、ワイルドに影響受けたまんまなんでしょうね。多分。

        新しい発見はありました。
        ヘンリー卿が、決してワイルド自身の代弁者として描かれてはいないということです。
        よく『ヘンリー卿=ワイルド』と短絡的に決めつける意見が多いのですが、
        (実際当時は私もそんな風に感じていたものでした)
        ドリアンの口から「逆説公」と言われるほどの「皮肉屋」というところが正解でしょう。
        「かれの言葉は華麗にして奇抜、そして無責任極まりないものだった」とあるように、
        所詮ディベートのごとき言葉遊び的な非実践型の口先男であることが所々で示唆されています。
        ハリーも自分の見たいようにドリアンを眺めているにすぎません。バジルと同様です。
        人品を外見の立派さで判断できるという考えはヴィクトリア時代の「常識」だったといいます。
        結局は最後までドリアンの本質が見抜けませんでしたよね?
        妻の離婚での傷心を隠せない弱さもあり、犯罪を醜悪として決して容認できないある種の道徳心も潔癖さも実は捨て切れてはいません。
        ハリーにとっては現実は見るに堪えないもので、醜悪さは犯罪です。
        犯罪は現実そのもの、つまりは醜悪の極みなのです。

        バジル、ドリアン、ハリーの3人をすべて含むのが、ワイルドですよね。
        そして3者をすべて「否定」してみせたのがこの作品における彼の意図ではないでしょうか?
        ワイルドはこれほど大きなものはないくらいの矛盾を抱えていた人のはずです。
        ああ、もし彼が現代に、少なくとも20世紀の末ごろに生きていたなら
        ずっと生きやすかったでしょうに。
        でもそうすると、彼の芸術は生まれなかったかもしれません。それも困りますね。

        ヴィクトリア時代の清教徒的な窮屈な精神世界と偏狭な道徳概念に苦しみ、
        それを踏みにじり悪徳に忘我するほどには落ちぶれられない彼。
        その悩める姿がこの小説に浮かんでくるように感じました。

        感覚の重視を提唱しているのは興味深い点です。
        もしかしたら、この時代にこれはとても斬新な提唱だったのではないでしょうか。
        ドリアンがアロマテラピーやパワーストーンなどに熱中し、科学的に効果を証明しようとしている描写もあります。
        現代の流行を考えると不思議な感じがしました。
        迷信より科学を信じるという姿勢も見受けられます。

        デカダンチックな衣装はまとっていますが、決してオカルト小説ではないのです。

        時代に抗う小説を書くことで、彼は魂の自由を求め、個人主義的生き方を選んだのでしょう。
        >> 続きを読む

        2015/03/06 by 月うさぎ

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      ドリアン・グレイの肖像
      カテゴリー:小説、物語
      5.0
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      • 〈あらすじ〉
        美しい青年ドリアンに魅了された画家バジル・ホールワードは彼の肖像画を描く。ある日、ドリアンの肖像画を描いているバジルの元へ友人ヘンリー・ウォットンが訪ねてくる。ドリアンは快楽主義者のヘンリーの影響を受けて堕落してゆく。
         
        そして、ドリアン・グレイの肖像が完成し、それを鑑賞することでドリアンは自分の美しさを自覚することになる。老いにより己の美貌が失われてゆくことに恐怖したドリアンは自分は美貌と若さを保ったまま、代わりに肖像画のほうが老いてゆけばいいのにと口に出して願う。その願いは現実のものとなり、老いも罪も引き受けて、その絵は醜く変貌していくのだった……



        僕は老いについてそれほど頻繁に考えたことはない。ただ、腰がまがり手押し車を押す老人を見るとたまに考えてしまう。彼らは今まで当然持ちあわせていたものを、時間という波に不当に奪われてどんな気持ちなのだろうかと。そんな時僕は絶対奪われたくない、しかし時間の不可逆性に抗うことは不可能であると絶望する。僕のような小市民ですら老いについて考えれば恐怖を覚えるのだ。優れた美貌を持ちそれを賛美されたドリアン・グレイが老いに対して感じた恐怖はいかほどのものだったのだろうか。

        物語が進むとドリアンはシビル・ヴェインという女優に魅了され交際することとなる。しかし、シビルが女優として優れていたのは、舞台の上に本物のロマンスを見出していたからであり、ドリアンとの間にロマンスが生まれてしまった以上、彼女の演技力は失われてしまう。そんな彼女に愛想を尽かし、散々罵ったあとにドリアンは彼女の元を去る。

        シビルに罵言を浴びせてしまったことを反省し、義務感からシビルと結婚しようとするドリアン。そしてラスト付近で再び改心しようとするドリアン。これは彼が持ち合わせる、あるいは捨てきれなかった道徳心によるものだろう。おそらく多くの人間が持っているであろう義務感から生じる、低俗であるが故に実用的な道徳心だ。

        ところで、僕がこの本を手にとったきっかけは「(500)日のサマー」という恋愛映画でヒロインのサマーがこの本を読んでいたという話がでてきたからだ。若く美しい真実の愛を信じないサマー。彼女はあの時どんな気持ちでこの本を読んでいたのか。そんなことを考えながら映画を観直すのも面白いかもしれない。

        僕はヴィクトリア朝時代の思想がどういったものであるかわからない。だから、ヘンリーが批判していたものがなんなのかが分からなかった。しかし既存の「道徳」を批判する姿には惹かれるものがあった。僕は正義という言葉があまり好きではないからだ。というのもその言葉はある種免罪符的な意味を持っていて、時に人殺しすら正当化される言葉であるから。身近なところではネット上でもそういう現象は散見される。正義だとか善だとか道徳だとか表現はその時々で変わるが、こういったものを盾に他人を攻撃する現象は枚挙に暇がない。僕は他人を攻撃することそのものにではなく、それを正当化する行為を欺瞞であると感じる。

        同性愛者として有名なワイルドだが、彼は今よりも同性愛に理解のなかった時代、それどころか同性愛が「罪」として定義され犯罪者扱いされた時代に彼がどれほど苦しめられたかは想像を絶するものだ。あとがきによるとそういった時代であるため小説でも同性愛のシーンを明確に描くことはできなかったようだ。なるほど、だからドリアンとバジルとヘンリーの関係はそういった匂いを漂わせながらも、どこか掴みどころのないものだなと納得した。



        好きな文章

        「周りの者たちと違うところなどないほうがいい。醜い者や愚かな者がこの世でもっとも幸せなのだ。彼らはゆっくりと腰を落ち着け、舞台を眺めていればいい。勝利の味を知ることはないが、敗北の苦しみも知らずにすむ。彼らは我々みなが臨むように、穏やかに無頓着に、平静を乱されることなく生きていく(後略)」p15

        「自然体でいるのも一つのポーズだ。しかも知る限りではもっとも苛立たしいポーズだね」p17

        「良心と臆病は同じものさ、バジル。良心の方を看板にしているだけだ。それだけのことさ」p21

        「いいことをするというのは、自分自身と調和することだ。(中略)不調和でいることは他人との調和を強いられる。自分自身の人生――それが重要なんだ。(中略)現代の道徳はその時代の基準を受け入れることで成り立っている。文化的な人間にとって、その時代の基準を受け入れることは、はなはだしい不道徳の一手段だと思う」p155

        (ドリアンの年老いてしわだらけになったら、どうなってしまうのか?という質問に対して)
        「そうしたら君は勝利のために戦わねばならなくなる。今は君の手に黙って運ばれてくるもののためにね(後略)」p203

        「感覚を偏重することはしばしば、そして十分な理由をもって、非難される(中略)感覚は、その本質がいまだ理解されたことがなく、未開で動物的だ。それは世の人々が感覚を、美を求める繊細な本能を主軸にする新しい精神主義の一部にしようとせず、それどころか感覚そのものを飢えさせて服従させようとしたり、苦痛によって死に追い込もうとしているからだ」p249
        >> 続きを読む

        2016/06/14 by けやきー

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      サロメ
      カテゴリー:戯曲
      4.0
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      • 怪しくも美しく儚くも残虐な、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の新訳版(平野啓一郎訳)です。
        宮本亜門が舞台化のために「サロメ」の新訳を平野氏に依頼したのがきっかけだったようです。
        亜門さんと平野さんのサロメ像は私が考える「ワイルドのサロメ」と同じらしいので楽しみでした。

        「ワイルドのサロメ」は本当は、若く儚く透き通った月のように清らな乙女であると同時に無垢な誘惑者なのです。
        ビアズリーの絵に象徴されるデカダンチックで罪の象徴のような、妖艶なサロメではなく。

        「サロメ」のレビューは3本目なので、新潮と岩波と翻訳比べしてみますね。

        How beautiful is the Princess Salomé to-night!
        「今夜のサロメ姫は、また、なんという美しさだろう!」(平野訳)
        「いかにも美しい、今宵の王女サロメは!」(福田訳)
        「こよいはなんとお美しいことだ、サロメ王女は!」(西村訳)

        THE PAGE OF HERODIAS
        Look at the moon! How strange the moon seems! She is like a woman rising from a tomb. She is like a dead woman. You would fancy she was looking for dead things.
        THE YOUNG SYRIAN
        She has a strange look. She is like a little princess who wears a yellow veil, and whose feet are of silver. She is like a princess who has little white doves for feet. You would fancy she was dancing.

        へロディアの近習
          ねえ、月を見て。月がなんだか、すごく異様なんだよ。まるで墓から出てきた女みたいで。死んだ女みたい。死者たちを探しているかのような。
        若いシリア人
          確かに異様だなァ。黄色いヴェールを纏った、銀の足の小さなお姫さま、そんな風情だね。白い小鳩みたいな足のお姫さま。……まるで踊ってるみたいだ。
        (光文社版/平野訳)

        エロディアスの侍童
          みろ、あの月を。不思議な月だな。どう見ても、墓から脱け出して来た女のやう。 まるで死んだ女そつくり。どう見ても、屍をあさり歩く女のよう。
        若きシリア人
          まつたく不思議だな。小さな王女さながら、黄色いヴェイルに、銀の足。まさに王女さながらの、その足が小さな白い鳩のやう……どう見ても、踊つてゐるとしか思はれぬ。
        (岩波版/福田訳)

        ヘロデヤの小姓
          お月さまをごらんなさいまし!なんとふしぎなお月さまですこと!お墓から抜けだしてきた女みたい。死んだ女みたい。まるで屍をあさり歩く女みたい。
        若いシリア人
          変な様子をしてるな。黄色いヴェールに、銀の足をしたかわゆい王女のようだ。鳩みたいなかわいらしい白い足をした王女のようだ。踊りを踊っているとしか思われぬ。
        (新潮版/西村訳)


        Ah! I have kissed thy mouth, Jokanaan, I have kissed thy mouth. There was a bitter taste on thy lips. Was it the taste of blood?... But perchance it is the taste of love.... They say that love hath a bitter taste.... But what of that? what of that?

        「ああ!わたし、お前の口唇にキスしたよ、ヨカナーン。お前の口唇にキスした。
        苦いのね、お前の口唇って。血の味なの?……ううん、ひょっとすると、恋の味なのかも。恋って苦い味がするって、よく言うから。
        ……でもそれが何なの?何でもないことよね?」(平野訳)

        「あゝ!あたしはたうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン、お前の口に口づけしたよ。
        お前の唇はにがい味がする。血の味なのかい、これは?……いゝえ、さうではなうて、たぶんそれは恋の味なのだよ。恋はにがい味がするとか……でも、それがどうしたのだい? どうしたといふのだい?」
        (福田訳) 

        「ああ!おまえの口にくちづけしたよ、ヨカナーン、おまえの口にくちづけしたよ。
        おまえの唇は苦い味がした。あれは血の味だったのか?……いいえ、ことによると恋の味かもしれぬ……恋は苦い味がするとか……でも、それがなんだというの?それがなんだというの?」
        (西村訳)

        語順、言葉の選び方、サロメのキャラクター設定。全部違いますね。
        岩波は特に古典的で修飾の多い文章で翻訳されています。


        平野は「サロメ」を幼さの残る少女としてイメージされていることが過去の翻訳と最も違う点です。
        見るもの誰もが恋焦がれるような美少女・サロメです。
        畏れも知らず恋も肉欲もしらなかった乙女が、ヨカナーンと出会ったことで、恋情と情欲が一気に身の内に溢れだしてしまう。
        それが何なのかわからぬままに、欲望にとりつかれ月の魔力に支配され、サロメはヨカナーンを手に入れることだけに命を賭けてしまいます。

        ところどころ、とても素晴らしい訳があって、翻訳者の努力に唸らされます。
        が。逆にいただけない訳もあります。
        結局、3者の翻訳のいいところどりをして楽しむのが最もお勧め。という結論にならざるを得ませんでした。

        平野訳のどこが悪いのか?
        それは幼いウブなサロメを強調したいあまり、まるで子供のような言葉遣い。
        王女としての品格、上位者として育った高慢さ、他者を圧倒する生まれもっての女王らしい強さがないことです。

        「わたし、あそこには戻らないから」
        「その預言者、……おじいちゃん?」
        「わたし、踊らない」
        「ヨカナーンの首をちょうだい」

        うう~ん。清らかというよりはちょっと幼稚すぎるような…。
        私の「サロメ」ちゃんは月光の輝きのごとき凛とした美少女なんだけどなあ。
        サロメのキャラを作らなかったという割に、現代っ子的すぎると思うんですが、みなさんはどうお感じでしょう?


        平野氏は、意識的に古典的な「飾り」を外して、声にだして日本人がしゃべることを意識した翻訳にしたといいます。

        しかしそもそも原文において hath = has thy=yourなど古語を使用しており、古典的なムードが漂っています。文学的には「サロメ」に関しては、古文調に翻訳するのがワイルドの意図に沿っているのです。
        このあたりは評価が分かれるでしょう。

        預言者ヨカナーンは、預言を語るときと自分の言葉を語るときと意識的に変えているようです。
        これは上手いと思います。
        他の翻訳と比べると人間的な感じがします。
        ヘロデもヘロディアもオペラに見られる定型的な人物設定を避けた結果だそうですが、あまり異常ではない…というか俗人っぽい。

        これによって、異常なストーリーはドラマとして受け入れやすくなっています。
        一方、作品世界の美しさ残酷さ異様さはかなり減少してしまっています。

        いずれにしろ、こういう解釈部分は演劇を上演する際に、演出家、役者が与えればいいものなのですよね。
        戯曲とは物語のエッセンスをいかに効果的に構築し、見せられるかが大事なので、
        読む側が語られる声、展開する舞台の上の光景、役者の衣装や表情などを自由に想像できる方がいい。

        亜門さんも「隙間のある翻訳」がいいと言っています。

        また、音声として出てきた時の響きの美しさと文章のリズムが大事です。
        古典的な言葉の美しさに酔うか、分かりやすさに徹するか。難しい選択です。

        物語を堪能したい方には平野訳が一番よい翻訳かもしれません。
        演劇を演出しやすい実用的な翻訳。
        しかし古典的なムードを含めて文学を楽しみたい方には向きません。

        結局はここに戻ってきてしまうのですが、自分で翻訳してみるのが一番いいのでしょうね。

        「サロメ」は70ページ程度の一幕ものの短い劇です。
        なので1冊の本にするために、詳しい注釈、翻訳者のあとがき、作品とワイルドについての田中氏の解説、宮本亜門さんのコメントと、本編以外のボリュームのほうがずっと多いのです。
        作家や作品や時代背景を知るにはなかなかよい資料となります。
        特にワイルドへの既存の先入観をお持ちの方にはお勧めです。
        でも私はもっと作品を読みたいな。って思うのですが。

        【亜門さんの演劇】
        サロメは誰? なんと、多部未華子! なるほど彼女、目力あるものね~。わかる気がします。
        でも「踊り」の場面に見せ場がある演劇なので、踊れる女優さんのほうがいいと私は思います。
        蒼井優あたりはどうかな。声は鍛えないといけないかもしれないけれど。
        http://www.nntt.jac.go.jp/play/salome/staff/index.html
        舞台、観たかったです。
        >> 続きを読む

        2015/12/26 by 月うさぎ

      • コメント 2件
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      幸せな王子
      カテゴリー:小説、物語
      3.5
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      • 清川さんの作品の素晴らしさ。
        それが、ワイルドの作品と合い間って、想像が拡がる。
        せとは何だろう?
        そんなことを考えた。
        モノではなく、感謝されること、存在意義を実感できること・・・そんなことなんだろう。

        そんな気持ちを、みんなが持てれば、この国・この世界も随分と変わるんだろうな。
        まずは、自分から。
        >> 続きを読む

        2014/07/02 by けんとまん

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