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田母神顯二郎

著者情報
著者名:田母神顯二郎
たもがみけんじろう
タモガミケンジロウ

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      文化の起源 人類と十字架
      4.0
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      • 終電の社内で酔っ払ったスーツ姿の男性が、「社員が愛社精神を持ちうるかどうかは、明確な企業文化があるかないかで決まるんだよ~!!」と同僚らしき人に力説していたのが妙に引っかかったので読んでみた本。
        はっきりいって期待した答えは得られなかったけれど(笑)、別の側面でとても興味深い内容だった。


        著者は学会の中心から距離を置いている(置かれている)フランスの批評家らしく、彼がスタンダールやプルースト、ドストエフスキーなどから見出し、風雪に耐えて唱え続けてきたテーマをインタビュアーとの対談形式で炙りだすのが本書の趣旨。
        ではそのテーマが何かというと、「ミメーシス(模倣)とスケープゴート(供犠)」と「キリスト教」。


        模倣は、ミラーニューロンの発見によって脳機能として人間に備わっているものだと分かってきており、学ぶは真似ぶというように個人の成長や社会の発達に不可欠で一般に肯定的に捉えられ得るものだが、著者によるとそれこそが暴力を生み出す源泉だそうで、この視点に沿って社会における暴力の処理の仕方を俯瞰すると、以下の4段階で展開されているという。

        ① ミメーシス的欲望
        ② ミメーシス的対抗意識
        ③ ミメーシス的あるいは供犠的危機
        ④ スケープゴートによる解決


        まず①だが、前提に置かなければならないのが欲求と欲望の違いで、欲求は食欲や性欲など個人と対象との関係だけで成り立つのに対し、欲望は他者の所有物及び求めるものに対する欲であり対象との間に常に他者が介在する。
        つまり欲望の発生元は、ある他者を模倣のモデルにした際にそのモデルの対象物への欲求ないし欲望をも模倣してしまうという人間の性質であり、これが発動したのが①の段階。

        ②はモデルと同じ対象を欲したことにより生じるモデル自身に対する対抗意識。この状態を第三者が意識するとさらに対象の価値は上がっていき、結果対抗者が増えていく。

        それがエスカレートすると集団に闘争的エネルギーが生まれ、最終的には対象がそのものの価値から離れてただただ争いのための媒介となってしまい、ホッブスの言うところの万人の万人による闘争のような対抗関係が確立してしまった段階が③。

        そして、この対立関係にもはや解決策が無くなってしまった状態で、成員たちの暴力の矛先をスケープゴートという一点に集約し、極限まで高まったエネルギーを収めて共同体を自壊から救うのが④の段階。

        このように破滅を防ぐための暴力を組み込んで社会は成り立っていて、暴力の処理の仕方を洗練させて儀式化していく過程で、①や②をコントロールし暴発前に妥当性のある形で④をチョイスする仕組みとして禁忌や規範、制度など社会的なメカニズムが生み出されていったという意味で、模倣と供犠は文化の起源なのだという。


        その上で、こうした供犠選定の落としどころとして神に奉げるという方法をとったのが宗教だという見解の元、誰の中にも眠るこのような群衆心理をこそ悪と見なしたエポックメイキングな宗教がキリスト教だというのがもう一つの著者の主張。

        スケープゴートは成員たちの内面の不協和の矛先として設定される者であるが故に全員の敵でなければならず、(本当は)ミメーシス的危機の発端や拡大の原因でなかったとしても別要因で「罰を受ける妥当性がある者=悪の根源」とみなされてしまう。
        これはそもそもミメーシス的供犠を必要とする状況が先立っているからであり、本質的には誰がそうなってもおかしくない(もちろん文化的に妥当性のある理由で裁かれることもあるが、その裁きの基準自体は当該文化の歴史が作り出した必然ともいえるし、恣意的なものだともいえる)。
        例えば、荒れた学級で子供たちはその流れに乗る方が良いか静観した方が良いかを絶えず感じ取って負のエネルギーのたまり場にならないよう立ち回る。
        この場合、ミメーシス的供犠がうまく働いていると価値転換がうまい子供等によってエネルギーが無化されたり別の影響が少ない矛先に転嫁したりできるのだが、うまく働かないと頭が良いとか悪いとか醜いとか美しいとか目立つとか片親だとか不具者だとか他民族だとかであることをきっかけに選定された子供が、状況に沿った攻撃理由を後付けされ、陰惨ないじめに発展し悲劇的な結果に至ることもある(この後付け以前の不定形の動機こそがミメーシスが負に転んだ際の働きということ)。

        ところがこういった場合、加害者側が悪いのは被害者側なのだと本気で思っていることがある。これは、その(ミメーシスによる)いじめが集団の不協和解決のために行われたことであり、故にスケープゴート=悪、その他成員=正義であるという構図が半ば無意識に出来上がっているので、スケープゴートに悪を押し付けているという意識すらもたない(または意識にのぼらないようにする)から。そして、スケープゴートによる解決がうまく働くと、緊張関係が中和されるだけでなく以前より集団の結束は高まる。

        文化の起源から集団の安定に一定の機能を果たしてきたこのシステムに対して人が悪を為す根本的な理由を見出し、共同体の争いや危機を終わらせるために犠牲者の無実を顕在化させ、スケープゴートの儀式に頼らざるを得ないという必然性から人間を解放するという方法論をとったのがキリスト教なのだという説を著者は唱え続けてきたのだという。
        旧約における原罪をミメーシスの悪用、サタンを供犠的危機時の群衆の集団心理状態の比喩、新約でのイエスの受難をスケープゴートの本質的無罪の象徴と見立てることで、自身の暴力性と向き合わなければならない痛みは伴うが、罪悪(罪悪感ではない)を抱えることはない世界を希求するのがキリスト教であり、これは本質的にキリスト教者だけでなく誰もが責任を負うべき問題なのだと。


        と、実際に聖書を読んでいないので著者の主張の妥当性を確認する術を持たないままの感想だが、本書の趣旨を踏まえてキリスト教がミメーシスによる暴力との対峙を教義の根本に据えていたとすると、隣人の範囲を区切り、外部(=異教徒)を供犠にして内部の自浄化を保ってきたように見えるキリスト教の歴史的側面は、ミメーシスに抗うことの難しさを物語っているように思える。
        本書を読んだ後、自分なりにこの視点を持って暮らしてみたが、あまりにも多くの場面に供犠を見つけ(たつもりになっ)てしまい、抽象化すべき「群衆」を個人に投影する誘惑に負けそうな自分を見てしまったので、スケープゴートを発生させる回路から逃れることの難しさもわかる気がする。




        ということで最初の話に戻すと、明確な企業文化があると自他の区別がはっきりするので内部に適合した人は愛社精神のようなものが芽生えやすいかもしれないが、それを目的化すると多くのスケープゴートを(不当に)発生させる仕組みになりかねない。
        ただ、著者は一人の供犠に理不尽に全ての責任を押し付けるのではなく、制度上納得感のある適度な責任を無数の供犠に負わすという意味で資本主義を肯定しており、全く供犠のない世界を夢想している訳ではないようだ。
        そこで文化とはミメーシス的危機を解消させていく仕組みだという観点に立つと、供犠(=敵として作り出した他者)との関係性で独自性を見出す文化より、ミメーシス的群衆意識との対峙の元で(=敵をミメーシス的群衆意識と設定して)会社の目的と各成員の個性に基づいた組織の性格に(ミメーシスが無化できる領域として)価値を置きつつ、適度なミメーシス的欲望に基づいた競争を行う企業文化こそが望ましいということだろう。
        何にせよ、文化が暴力をコントロールするために形成されてきたという起源を持つとして、これを作ったり守ったりすることで新たな暴力が生まれるのであれば文化の退行と見なせるので、愛されるための決まりごとなんて作らない方が良いと思う。
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        2013/04/22 by Pettonton

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