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俘虜記 (新潮文庫)

5.0 5.0 (レビュー1件)
著者: 大岡 昇平
定価: 802 円
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    「俘虜記 (新潮文庫)」 の読書レビュー (最新順)

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    • 評価: 5.0

      "戦場という極限状況におかれた人間の死の意識と生への渇望を明晰に分析して描いた大岡文学の名作"

      「私は昭和二十年一月二十五日ミンドロ島南方山中において米軍の俘虜となった」という書き出しで、大岡昇平の処女作である「俘虜記」は始まります。

      この大岡昇平原作の「俘虜記」は、「文学界」の昭和23年2月号に発表され、その後、5年間に渡って書き継がれた連作小説で、前半が"俘虜になる前"、後半が"俘虜となった後の生活"が描かれています。

      フランスの文豪スタンダールに傾倒し、彼の優れた研究、翻訳で知られた大岡昇平が、昭和19年に招集を受け、フィリピンに出征し、捕虜となったその体験をもとに、戦後「俘虜記」を書いて文壇に登場して来ました。そして、この作品は第1回横光利一賞を受賞しています。

      復員した大岡昇平に、彼のかつての家庭教師でもあった、日本を代表する文芸批評家の小林秀雄が、「従軍記を書け」と勧めたのだと言われています。そしてその際、「百枚に圧縮しなせえ。他人の事なんか構わねえで、あんたの魂のことを書くんだよ。描写するんじゃねえぞ」とアドバイスを与えたという逸話が残っています。

      私はこの小説の中でも前半部が好きで、特にその第一章にあたる"捉まるまで"のくだりが、人間にとっての"根源的な生と死"の問題を突き付け、考えさせてくれるため、何度も繰り返し読んでいます。

      戦場という"極限状況"におかれ、いったんは受け入れた"死の意識"が、突発的に"生の渇望"にとって替わっていった、ひとりの人間の意識の流れを描いた見事な一節です。

      「私の三十五年の生涯は満足すべきものではなく、別れを告げる人はあり、別れは実際つらかったが、それは現に私が輸送船上にいるという事実によって、確実に過ぎ去った。未来には死があるばかりであるが、われわれがそれについて表象し得るものは、完全な虚無であり、そこに移るのも、今私が否応なく輸送船に乗せられたと同じ推移をもってすることができるならば、私に何の思い患うことがあろう。私は繰り返しこう自分にいい聞かせた。しかし死の観念は絶えずもどって、生活のあらゆる瞬間に私を襲った。私はついにいかにも死とは何者でもない、ただ確実な死を控えて今私が生きている、それが問題なのだということを了解した。」

      主人公の"私"は、作者の大岡昇平の分身とも言うべき存在で、年齢は35歳です。"私"は、出征兵士として祖国に別れを告げ輸送船に乗り組んだ男であり、"35年の生涯"は、"私"が祖国に生まれて生活してきた全人生にほかなりません。"私"は、身分は出征兵士であり、いまだ志の満たされぬ人生への未練に、うしろ髪を引かれるような思いを残しつつ輸送船に乗り、不条理な死というものが待ち受けているであろう戦地へと赴く男として描かれています。

      ここで大岡が描いているのは、別れに抱く未練や辛さがどれほど人間に悲痛な思いを与えたとしても、時の流れが、人間の精神や心情をも押しつぶしてしまうのだと表現しています。これは、恐らく人間の精神や心情を押しつぶす"戦争"というものを象徴的に暗示しているのだと思います。

      戦場に赴く以上、"死"は覚悟しなければなりません。"未来には死があるばかり"と考える主人公の考え方は、"観念"と言うか、少し大袈裟に言えば、"思想"としては正しいのかも知れませんが、その"死"というものは、何か具体的な表象を持って存在するのではないと思います。

      それは、大岡が表現するところの"完全なる虚無"であるのにすぎません。だから主人公は、かつて祖国との別れの辛さという観念的な苦しみが、"現に輸送船上にいるという事実"の力によって、忘れ去られていったように、やがて否応なく強いられる"死"という現実が、主人公から"死"の恐怖をも確実に過ぎ去らせてくれるとするならば、何故"死の観念"に恐怖するのか、何も思い患うことなどないではないかと主人公は考えたのだと思います。

      しかし、現実には、振り捨てたはずの"死の観念"は絶えずもどって、"私"を襲います。"私"はもはや"死の観念"を振り捨てようとはせず、確実に近づきつつある"死"を淡々と見守りながら、生きる自分の"生"をこそ、大事にしようとする心境に達するという心の動きを見事に描写していると思います。

      「死の観念はしかし快い観念である。比島の原色の朝焼夕焼、椰子と火焔樹は私を狂喜させた。到るところ死の影を見ながら、私はこの植物が動物を圧倒している熱帯の風物を目で貪った。私は死の前にこうした生の氾濫を見せてくれた運命に感謝した。山へはいってからの自然には椰子はなく、低地の繁茂に高原性な秩序が取って替わったが、それも私にはますます美しく思われた。こうして自然の懐で絶えず増大してゆく快感は、私の最期の時が近づいた確実なしるしであると思われた。」

      かつて、恐怖となって襲った"死の観念"が、ここでは"快い観念"にかわっています。主人公に"快い観念"を与えているものは、死を覚悟した目に映る熱帯の風物です。原色の朝焼夕焼、椰子と火焔樹など動物を圧倒するような"熱帯植物の強烈な生命力"が、私を狂喜させ、それらを目で貪り、感謝せずにはいられないという境地へと達していきます。これは、現実に大岡昇平というひとりの人間が、死の自覚を経た心境を通して、初めてとらえ得た境地だけに説得力を持って、我々、読者の胸に響いて来ます。

      そして、山にはいると、主人公を狂喜させた椰子や熱帯植物の奔放な繁茂は消え去り、自然の風物にも高原性の秩序が取って替わります。にもかかわらず、主人公の目に自然はますます美しく映り、快感が絶えず増大してゆく事を感じていきます。そして、この"絶えざる快感の増大"は、"死の近づき"の確実なしるしであると主人公は考えていくのです。

      「しかしいよいよ退路が遮断され、周囲で僚友がつぎつぎに死んでゆくのを見るにつれ、不思議な変化が私の中で起こった。私は突然私の生還の可能性を信じた。九分九厘確実な死は突然おしのけられ、一脈の空想的な可能性を描いて、それを追求する気になった。少なくともそのために万全をつくさないのは無意味と思われた。

      明らかにこれは周囲に濃くなって来た死の影に対する私の肉体の反作用であった。こうした異常な状態にあって、肉体がわれわれをして行なわしめるものはすこぶる現実的であるが、その考えさすものは常に荒唐無稽である。」

      退路の遮断、僚友たちの相次ぐ死など、"死の近づき"が、ある極点に達したかと思われた時、突然"私"の中で起こった不思議な変化----、九分九厘確実な死はおしのけられ、生還の可能性を信じようという意識の変化が起こります。つまり、この小説の大きなテーマの内の一つとも言える、それまで"私"をとらえていた"死の意識"にかわって"生への渇望"への大きな変化が現われるのです。

      その変化が何故、どのようにして、突然現われたのかを大岡は明晰になおかつ、論理的に心理の分析を行なっています。その変化を"濃くなって来た死の影に対する私の肉体の反作用"として主人公は精神を圧倒する肉体の現実的な力強さに目を向け、肉体や現実に比べて、人間の観念や思想の脆さに思い到り、不条理な戦争に強いられた現実主義者としての主人公の姿が透かし絵のように浮かび上がって来るのです。

      "異常な状態"を強いられた時に示す思想と肉体の反応を対比して、"思想の非現実性を指摘する主人公の批評"というものは、取りも直さず、大岡昇平という作家の核をなすものだと思います。

      大岡昇平という作家は戦前は批評家の卵として、スタンダールの研究者として知られていただけあって、容赦のない分析癖と批評眼の持ち主だと思っています。彼のそうした資質は、この「俘虜記」という作品にも色濃く反映されていると思います。

      「俘虜記」における明晰な論理は、まるでダイヤモンドの結晶を思わせますが、生命の危機におかれた人間を描きながら、これほど冷静沈着にその心理を分析し、縦横に考察の筆をふるった作品は、それまでの日本の小説にはなかったのではないかと思います。

      それが、この私小説的でもあり、報告文学的でもある小説を、私小説でも報告文学でもない小説にしているのだと思います。

      今後も大岡昇平の「野火」、「レイテ戦記」と読み進んでいきたいと思っています。
      >> 続きを読む

      2016/03/25 by

      俘虜記 (新潮文庫)」のレビュー

    • 藪の中に身を潜めた主人公は、掃討せんと近づいてきた若い米兵の顔を見た刹那、どうしても撃つことができなかった……この場面は印象的でした。

      透徹した筆致で淡々と描いていく大岡作品には、一貫して人間とはなんなのだ? という深い問いが投げかけられているようですね。だからこそ、ただの戦争小説に収まらないのでしょう。このあとの「野火」は、そのあたりがレトリックや文体とともに進化した傑作となっていますし、「レイテ戦記」は、一見すると徹底して抒情を排した戦争記録なのですが、いやはや、少ない言葉の中に著者の精神性がしっかり宿った渾身の記録作品だと私は感じるのですが……これからもレビューを楽しみにしています♪
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      2016/03/26 by アテナイエ


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