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フーコン戦記 (文春文庫)

3.0 3.0 (レビュー1件)
著者: 古山 高麗雄
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    「フーコン戦記 (文春文庫)」 の読書レビュー (最新順)

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    • 評価: 3.0

      (その1)

      三部作の最後の作品。

      最初の「断作戦」では、龍兵団2600名中、わずか30人が生き延びた騰越守備隊の玉砕の様子を、次の「龍陵会戦」では、作者自身がその一員であった勇兵団の戦いを、そしてこの作品では、菊兵団によるフーコン谷地での戦いを描いています。

      戦いといっても、兵力・物資とも圧倒的に劣勢だった日本軍は、九州の広さのフーコン地域をただただ敗走しながら、飢えと病気で兵士がばたばた倒れていく、そういう悲惨な戦いを繰り広げざるをえませんでした。

      サモウの野戦病院というのか、患者収容所というのか、あれもひどいものであった。患者が多くて、とてもあの瀬降り病棟に全部を収容しきれず、土の上に、何人もの患者が横たわっていた。雨が降ると、そこでそのまま打たれて、ずぶ濡れに濡れていた。そのような患者が次々に死んだ。死体は、共同の大きな死体壕に投げ込まれた。死体壕に雨水が流入してできたプールに、沈んでいる死者もあり、浮かんでいる死者もいた。禿鷹が降下して死者の肉を爪にかけて、飛び去った。
      (p13)

      伐開路に入ると、いきなり泥道の脇の木に凭りかかって、よどんだ眼を開いたまま死んでいた兵士がいたのであった。泥の中に座ったまま死んでいる兵士を、それから何人見たのであったか。まだ死んではいないが、泥の中で動けなくなっている兵士、座ってもいられなくなって、横になって、顔だけを泥の上に出していた兵士、弱々しい声で、連れて行ってくれ、と言った兵士、そう言いたかったのだろうが、もう弱り果てて声も出せず、鯉のように口ばかり動かしていた兵士、口を動かす力もなくなっていた兵士、そういった死体や、死にかけていた兵士が、何メートルか行くたびに、虚ろに俺を待っていた。
      (p363)

      傷口に真っ白な蛆がたかっているのに、それを取り除く力もなくなっていて、ただ死を待っていた兵士もいた。そういう兵士たちを、あのときは、もう哀れとも思わず、俺は歩いたのだ。物を思う力も、もうろくになかったのだ。今日のうちに、あるいは明日、俺もこの人たちのように野垂死にするかもしれない、と、ぼんやり思いながら歩き続けたような気がするのだが、実はこれも確かではない。今、そんな気がしているだけの話かもしれない。後になって思っているのかもしれない。だが、あの伐開路の泥道の脇に、死体や死にかけている髪も髭も伸び放題の、土色の顔の中で眼の光を失いかけている兵士が、乞食のように汚れたボロをまとって、点々と身をさらしていたのは事実である。だが、事実には違いないのだけれども、夢の中の光景のようにも思えるのである。自分自身の疲労困憊の具合についても、記憶がぼけている。忘れられない経験のつもりでいるが、経験はぼけて、そのうちの何かだけが、それも多分変形して残るのである。
      (p364)

      作者は、インパール作戦に較べて語られることの少ない騰越、龍陵、フーコンの戦いをきちんと伝えたいという思いもあって、この3部作を思い立ったということです。
      3部作に共通しているのは、よくある戦記物のように、戦場の描写に重点が置かれているのではなく、もちろんそれも具体的に書いてありますが、それ以上に、そうした過酷な経験を経てきた主人公の現在、われわれと同時代に生きている人物に焦点があてられているという点です。

      焦点はあくまで主人公の現在にあります。
      われわれと同時代に生きている人間、そういった人物が過去にたどった過酷というにはあまりにも過酷な体験、騰越の戦い、龍陵の戦い、フーコンの戦いがそれであったわけですが、それらの戦いとは何であったのか、当時は何であり、今現在においては何であるのか、それをずっと問い続けています。

      しかし、この問いの答えは、この作品、この三部作で与えられているのでしょうか。

      戦争から数十年が経ち、晩年を迎えた主人公にとって、その問いは、おりにふれ繰り返し繰り返し出てくる問いであると同時に、答えの出ない問いであり、そしていまはもう、投げやりな姿勢でしか向かいあえなくなってしまっています。

      戦争のことも、軍隊のことも、もうどうでもよくなって来ている。もう自分のことが、他人のことのようでもある。フーコンの密林で、飢え、疲れて、這いまわった俺は、本当に俺なのか。俺は、もう、オイルの切れかかったライターの炎のようなものかもしれないな、と思うのである。年をとるということは、そういうことだ。フーコンがどうの、天皇の軍隊がどうのと言ってみても、間もなく俺は消えるのだ。これでいいではないか。世の中にには、ひどい目に遭う人がいる。甘い汁を吸っているやつがいる。それを、とやかく言ってみても、しようがない。俺はひどい目に遭った人間なのか。片腕を失ったということは、ひどい目に遭ったということかもしれない。だが、生きて還って来た、ということは、恵まれているということかもしれない。しかも、恩給をもらっている。これは、ひどい目に遭っていることなのか、恵まれていることなのか。
       辰平はそんなことを、しばしば思うのである。だが、もう、どうでもいいじゃないか、というのが、毎度の辰平の結論だった。もう、どうでもいい。恵まれていようといまいと、だからと言って、どうしようもないことではないか。戦場のことも、戦争のことも、もうどうでもいい。過去のことは、薄れてしまうことは薄れてしまえばいい。忘れて、馴れて、答えの出ないことを、とやかく思いながらなんとか暮らし、そして死んでいけばいいのだ。
      (p76-77)

      主人公はこのような問いと結論との中でどうどうめぐりしています。

      しかし投げやりな姿勢だとはいっても、そもそも一人の人間が歴史の巨大な出来事に遭遇し、翻弄され、深刻な経験を経なければならなかったとき、その出来事の意味を把握するということは、実はとても困難なことなのではないでしょうか。

      そして、もし把握することができたとしても、その人が実際に毎日を生きていく上で、どれほどの価値があるのでしょう。

      その前に、人間は生きて食べていかなればなりません。まず仕事を得、金を稼がなければならない。それが人間の現実でしょう。

      「あの戦争は侵略戦争だった」
      「いや、アジア諸国の独立のための戦いであった」
      こういう議論は議論として必要なのかもしれませんが、現実の要請の前で、実際にどれほどの意味があるのでしょうか。

      戦争に参加した兵士たちにとっては、勝手にビルマに送られて、「日露戦争用の鉄砲、三八式歩兵銃を担がされ…途方もない長い道のりを、途方もない長い時間歩いて向かって行って、兵員が少なくても、食べる物がなくても、大和魂で戦えば勝てる、敵の兵員が十倍なら、一人が十人づつ殺せば勝てる、俺たちはそんなことを言われながら戦い、やられたのだ」(p41)という眼にあわされ、奇跡的に生き延びたとしても、それが終わればやっぱり日々の暮らしがあるわけですから、毎日毎日暮らしを乗り越えていかなければならない普通の人間にとっては、そんな抽象的な議論は空しく響くだけなのではないかと思います。

      普通の人間。
      そういうことです。
      作者の描くのは、過酷な戦争を体験した特別なヒーローではなく、そういう戦争を体験し、なんとかそれを生き延びたとはいうものの、やっぱり普通の人間である人間、われわれがそうである普通の人間を描いています。それは現在生きている人間です。同時代の人です。生身の人間、現実の人間が、ここでは率直に自らの現在を語っています。
      だからこそわれわれは、遠い戦争を語る作中人物にこれほど関心を惹かれ、最後まで読み続けずにはいられないのだと思います。


      (その2)

      話は突然変わりますが、主人公のスケベさ、いいですねえ。
      戦争未亡人と知り合い、菊兵団がフーコンでたどった道筋を地図でたどりながら、主人公辰平の戦いを振り返るというのがこの作品の基本的な骨組みですが、二人が地図づくりを進めるにつれて、辰平の未亡人への関心が高まっていきます。

      それが辰平の一方的な思いであるのかどうかは、相手の思いが書かれていないのでわかりませんが、スケベさはなかなかリアリティがあって、いかにもジジイらしい想像で、女性に関するこういうあけすけな表現は三部作のこれまでの作品ではみられなかったものです。
      そしてそれはこの作品に不思議な重みを与えています。

      辰平は、いつだったか戸乃倉が、おりももう呆けたばい、年たい、と言ったのを思い出した。戸乃倉は、二言目には、あれができんごつなって、ぐんと呆けが進みよった、だの、立たんごつなったもんな、もう俺もおしまいたい、だのと言うのである。
      あれ、とは性のことである。戸乃倉もついに、できんごつなったか、ま、この年になれば、みんなそんなもんだ、と辰平は思ったものであった。辰平も、三、四年間から立たなくなっている。戸乃倉が言ったように、もうおしまい、だと思っている。しかし、立たなくなっても辰平は、文江との、手や口での性行為を思うのである。
      (p163)

      文江に対しては、助平な空想もする。実際にはもうできんのに。俺は、思いの中で、文江と接吻したり、乳首を吸ったり、股間に顔を埋めたりした。
      (p211)

      女性はどうかしらないけれど、男というのはたいていこういう妄想を抱いているわけで、それはそれでしかたないなあと思う。

      日常の生活は、作者がこの作品で描いているように、生活という個々の出来事の中に、こういう妄想をはらみながら、ただ流れていくものなんだろうと思う。

      そういう語り口の自然さが、前に書いたことがあるけれども、取り扱っている問題の深刻さにもかかわらず、どこか肩の力を抜かせてくれるような、ほっとさせてくれる文章を生んでいるのだと思う。
      こういうテーマの作品にこういう言い方をするのは変だけど、読んでいて楽しいんですね。
      この作者の作品は、机の上でしゃちほこばって読むよりも、寝ころんで読むのに適した作品だと思います(もちろん誉め言葉です)。

      ただ、そうはいいながらも、ほんとにこれでいいんだろうか。
      これはこれでリアルだけど、でも理念とか意義だとかが、こうやって日常の中に消えてしまっていっていいものだろうか。
      現実の生活の要請はそうなのかも知れないけど、それでいいんだろうか。
      私には、そういう不安がやっぱりつきまといます。

      そして、この作者の「吉田満」への持続的なこだわり、戦中派としての歴史的責任と役割を真摯に問い続けた「戦艦大和ノ最後」の著者に対する関心と緊張感は、この作者が密かに抱かざるをえなかったそういう疑問の裏返しの表出ではなかったのかとも思えてくるのです。

      では、オマエ自身は、結局そこらへんのところ、どう思っているのかと聞かれると、う~ん、私はやっぱり、これはこれで立派な作品だとは思うけれども、これだけで済ましてしまうのは、やっぱりいかんのではないかと思う。

      そう言い切ると自分に跳ね返ってくるのでおそろしいし、その資格もないかもしれないけれど、敢えて言えば、「ただ自己身辺の叙述に低徊」しているだけだと神学者・滝沢克己が漱石の「道草」に対して寄せた批判が、ここでもあてはまるのではないかと思う。

      だからといって、ではどうすればいいかという問いには、私は答えられないのですけどね。
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      2017/11/11 by

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