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うつくしい列島 (河出文庫 い 35-2)

著者: 池澤 夏樹
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    「うつくしい列島 (河出文庫 い 35-2)」 の読書レビュー (最新順)

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    • 評価: 評価なし

             絶景に包まれた秋津島


       あたらしい年を迎えるたびに、ある焦りが心をよぎる。みずからの脚でまだほとんど日本地図を塗りつぶせていない。ある不安が浮かんでくる。いつまで健脚を保てるのだろうか。そしてある声が聞こえる気がした。
      「この景色をみないで死ぬなんて、もったいないなあ」
      その声の主は、履き古されたゴツいトレッキングシューズのつま先を、トントントントン日野の2㌧と忍び足する堤真一とリリー・フランキーではなくイケザワさんだった。

      ぼく 「でも、どこを巡ればいいか分からないよ」
      イケザワさん 「この本にザッとまとめておいた」
      ぼく 「ありがたいけど、アクセスの悪いところばっかりだね」
      イケザワさん 「それはほら、近場のスタバに行くんじゃないんだから、それ相応の覚悟をもたないと」

      ぼく 「やっぱりいいや。ぼくは筋トレをしないといけないし、文学の要諦をじぶんの言葉で再構築する仕事もある。プルーストに挑戦しなきゃ」
      イケザワさん 「……」
      ぼく 「あ、そういえば充電バイクで日本を含めた世界文学の旅をしてた途中だった。さっき森鴎外に頼んだら、コンプライアンス違反になる恐れがあるからと充電を断られたんだ。充電お願いできませんか?

      イケザワさん 「仕方ないなあ。しかしいつまでも道案内はゴメンだよ」
      ぼく 「分かってますって、それでは万葉集目指して出発進行」

       スイカ模様のヘルメットをかぶった二人は、時に逆らう旅路についた。


          ニッポン景勝地豆知識


      【伯耆大山】
       ホウキ雲の向こうに♪ 見つけた一粒の星は♪
       読み方は「ほうきだいせん」鳥取県にある標高1,729メートルの火山。ちなみに、伯耆とは鳥取県西部の旧国名。
       この山は二重人格らしい。北や南や東から見るとギザギザと険峻なのに、西側から見ればなだらかな美しい山容。伯耆富士や出雲富士と呼ばれるのはこの西側からの眺めのこと。このように、山容が富士山と似た各地の山を郷土富士として、○○富士と呼称する習わしがある。有名なのは青森の岩木山(津軽富士)。桜の名所らしいが、もちろん私は行ったことはない。
       
       
      【立山カルデラ】
       富山県は海の幸も豊富だが、イケザワさん曰く、つくづく川の県という印象をいだくほど川が多い。一級河川だけでも、小矢部川、庄川、神通川、常願寺川、黒部川。どれも急流だけれども常願寺川が別格。明治時代に来日したオランダ人の技師ヨハネス・デ・レーケが、「これは川じゃない、滝だ」と言った由。
       そもそも廃藩置県が施行された頃の富山は石川県の一部だったが、石川県が富山の治水の重要性を鑑みず、怒った富山が県として独立した経緯があった。知らなかった。土砂流出も悩みの種で、立山カルデラの内外には砂防ダムがあり、これらの砂防事業に感銘を受けた幸田文の文学碑もある。もちろん、私は行ったことはない。


      【三陸海岸】 
       ぼくには好きな地理用語がいくつかある。青いバナナ、モルワイデ図法、リアス式海岸。やっぱりリアス式海岸、このうつくしい響き。しかし現地の眺めはこの響きを上回るらしい。「まずはしばらく黙ってこの美しい風景を見よう」とはじまり、この入り組んだ地形が、日本の美をうまく象る背景が語られてゆく。
       そして震災の話。海の民にとっては理想の地と思われる、リアス式海岸の美しさと住みよさ、いつかは来る津波の恐ろしさ、この二つの間でわれわれはどうにか生きている。
       残念ながら私は行ったことがない。いつか行ってみたい。
      >> 続きを読む

      2019/01/05 by

      うつくしい列島 (河出文庫 い 35-2)」のレビュー

    • 弁護士Kさん

      〉その歌においてなぜこの表記が選ばれているのかを、時代の推移の中で考察してはじめてその歌を理解できるのだという姿勢には、全面的に共感できます。
       
       ぼくも全面的に賛成です。というのも、やはり言葉の移り変わりに想像力を働かせ、できる限り言葉を遠くまで運ぼうとする苦心が、創作しいては文学的エネルギーの源泉と考えたいので。
       こういった議論があまり見受けられない理由はあくまで私の勝手な想像ですが、現代の学者としては実証主義にとらわれ過ぎているのかなあと、たとえば万葉集は不明なところもそれなりにあってクロス・ワード・パズルのような趣きがある。だから、判明している箇所は拘って解釈して、分からない部分は流すだと文献を読み解く態度の一貫性が問われて面倒くさい。むかしの学者としては、彼らが当たり前と感じたり、考えていることはあえて書かないことが多いみたいです。江戸時代の国学者はもちろんそうだし、折口信夫と柳田國男の違いで話題になるのが、柳田國男は初学者への気配りがあるけれど折口信夫はあまりない。「明治大正史 世相篇」のような、ゼミの輪読に適したような著作を折口は柳田ほど遺していない気がします。話がややずれますが、海外も正書法等にうるさくなくなっている傾向が少しあるのかなあと。シェイクスピアを初期近代英語で読むのはエリザベス朝に関心がある人だけと何かで読んだ憶えがあります。
       ぼくとしては、用字や句読点のひとつひとつに細やかな反応をみせるのが、文学愛好家の努めと思っているのですが、なにしろ自分自身も間違うことですし、あまり気にし過ぎると生きづらい(笑)。国語や仮名遣いの問題をみても一目瞭然、人は流され易きほうへ流され、言葉はますます簡略化していくのであります。石川九楊さんの本、図書館で探してみます。

      〉このあたりをよみながら、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』を読みかえしてみたいと、漠然と思いました。実は、あまり記憶していないんですが、なにか関係ありそうでしょうか。

       プルーストに関心を向けたのは、吉田健一の「埋れ木」を河出文庫で読んでいたとき、ああプルーストなんだなあ、と感慨が洩れたのが大きなきっかけでした。それまでプルースト周辺で疑問だったのは、ジョイスやカフカの強い影響を受けた作家は傑作を遺しているのに、プルーストの信奉者はどうだろう?たとえば堀江敏幸さんの作品、ぼくは大好きだけど佳品や秀作でとどまっている感がある。海外文学でもそういう傾向があるかもしれない。ヴァージニア・ウルフの「灯台へ」や「ダロウェイ夫人」もいい作品なのですが、やっぱりプルーストの代わりを探し求める人の行き着く先みたいなところもあると思うんですよね。あれは長くて、正直にいうと中だるみするところも多々ある。しかし、「時間」と真っ正面から対峙するとあのようになるのかもしれない。現在、九鬼周造のいろんな著作や、ラテンアメリカ文学、フリオ・コルタサルやカルロス・フエンテスの本を覗きながら、いろいろ考えていますが、まだまだ分かりません。九鬼周造が指摘する人間の三つの相、自然的人間と形而上的人間と歴史的人間。これが、フリオ・コルタサルの自伝で語られるじぶんの作家としての三つの段階、審美的段階、形而上的段階、歴史的段階、というように上手く対応しているのが面白いなあ、そして、時間について考えることは、これら三つを総括することだけれども、三つめの歴史的人間、歴史的段階が大きな役割を果たす。これを考える上でメキシコを舞台にしたのが「澄みわたる大地」で、アイルランドがもちろん「ユリシーズ」、フランスが「失われた〜」、アメリカ南部が「アブサロム、アブサロム!」なのかなあと、漠然と考察を続けております。
       息抜きにカルロス・ルイス・サフォンの「風の影」を読んでいるのですが、この本、めちゃくちゃ面白いです。元バルセロナのサッカー選手で来日したイニエスタのオススメの一冊なのですが面白い。ディケンズ的な大きな物語とセルバンテス風の滑稽さ、諧謔とがうまく混在した作品で軽めの読み物として面白い。以前、サンティアーゴ・パハーレスの「螺旋」をレビューで紹介しましたが、スペインの文学は案外面白いのかもしれません。むずかしい思想を要求しない、単純に読んで面白い本も偉大だし、物語のエンターテインメント性を軽視しては駄目だなあと、とても複雑な心境です。「軽さ」と「重さ」の問題かなあ(笑)。
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      2019/02/23 by 素頓狂

    •  教えていただいた『詩の自覚の歴史』、たいへん面白く読みました。
       
       特に、大伴坂上郎女!
       ぼくは彼女の、

       坏に 梅の花浮かべ 思うどち 飲みての後は 散りぬともよし

      という歌の、あまり女性らしくない潔さがとても印象に残っていて、気になる歌人の一人でした。まあ、女性のなかでは収録作品数が圧倒的に多い人なので、万葉ファンであれば気にならないのがおかしい存在ではありますよね。
       しかし、この書で初めて、大伴家の「家刀自」、「斎姫」としての彼女の位置付け、甥であり婿である家持との関係についての考察を読み、これまでうっすらと感じていた「潔さ」が、とても具体的な、陰翳をもったものとして感じられるようになりました。
       
       うら若き総領息子の家持を支える姨として……。
       我が背子が 著る衣薄し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで

       娘の異性関係を気遣う母として……。
       風交じり 雪は降るとも 実にならぬ 我家の梅を 花に散らすな

       斜陽の豪族、大伴家の斎姫として……。
       かくしつつ 遊び飲みこそ 草木すら 春はさきつつ 秋は散りゆく

       家持との関係は、われわれ現代人の感覚からは肯うことが難しいけれども、それでもやっぱりその潔さにぼくは惹かれます。

       ひさかたの 天の露霜 置きにけり 家なる人も 待ち戀ぬらむ
       玉守に 玉は授けて かつがつも 枕とわれは いざ二人寝む

       潔くて、でも可愛い。

       戀ひ戀ひて あへる時だに うつくしき 言尽くしてよ 長くと思はば
       我が背子に 戀ふれば苦し 暇あらば 拾ひいていかむ 戀忘れ貝

       しかしまあ、面白いといえば、面白いのだけれども、一方では、ずいぶん勝手なことを書くものだ、という気もするのです(^_^;)

       例えば、憶良について、その思想が全部借り物にすぎないとか、五七調がスムーズではなく言葉に鈍感であるとか評するのはあんまりではないでしょうか。憶良のみならず、額田王にせよ人麻呂にせよ、その漢詩体交じりの歌を五七調に訓読したのは後の世の業なのであって、万葉歌人たるもの、そういった訓読を前提としてリズム感を云々されたのではタマランのではないか。家持についても、人麻呂時代の反歌の位置づけが既に理解できなくなっていると評している部分がありますが、詩人ではないド素人のぼくからみると、家持よりも現代の詩人の方が人麻呂をよく理解できるなどということがあり得るとは思えません。
       まあ、斉藤茂吉や折口信夫になるともっともっと好き勝手なことを言っていて、山本さんはむしろ控え目な方かもしれないのですが。

       とはいえ、そういった部分も含め、ほんとうに読み応えのある本でした。
       本日、泣く泣く図書館に返還し、やはり山本さんの『柿本人麻呂』と、折口信夫全集第6巻を借りてきたところです。

       また、いい本を紹介して下さいね。
      >> 続きを読む

      2019/03/08 by 弁護士K


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