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スポ-ツを考える

身体・資本・ナショナリズム
5.0 5.0 (レビュー1件)
カテゴリー: スポーツ、体育
定価: 735 円
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    「スポ-ツを考える」 の読書レビュー (最新順)

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    • 評価: 5.0

      本書は社会とスポーツについて様々な角度から考察を加えた本です。歴史社会学者ノルベルト・エリアスのスポーツ論を検討し、その意義と限界を明らかにしつつ近代スポーツの意味を考えます。1995年に書かれた本ですが、今読んでも違和感はありません。カール・ルイスやベン・ジョンソンなどが出てくるのがなつかしいくらいで。

       産業革命を成し遂げたイギリスで近代スポーツが始まったのはなぜか。従来は富めるブルジョワジーの余暇の増大によるものと考えられてきた。しかしスポーツが生まれた時代はジェントルマン(地主階級)が資本主義・植民地主義を担っていて、産業ブルジョワジーの時代ではない。

       筆者はエリアスの論を引きながら、議会制の誕生とスポーツの誕生がほぼ同時期であることに関係づけて、「非暴力」という考えが生まれたことを理由に挙げている。ルールによる非暴力化したゲーム。これはスポーツに限らず、資本主義のマネーゲームまで貫く現代の競争モデルと言える。筆者はエリアスがこの非暴力という考えを導入しながら、国民国家(ネーション・ステート)間の暴力(戦争権)については考察していないことを限界としている。非暴力は国家の内部のことであって、非暴力というよりも国家による暴力の独占と考える方が適切としている。それは革命を抑制し、国内の相対的安定化をもたらす。

       スポーツの普及が近代オリンピックにあることは否定できない。しかし近代オリンピックが、ネーション・ステートの成立とほぼ同時期だったために、政治的にイノセントであることはできなかった。読んでいて面白かったのは、近代オリンピックはピエール・ド・クーベルタンが創始者となっているが、クーベルタン以前に当時オリンピック復興はヨーロッパ全土で起こっていた運動だったということ、女性の参加を最後まで反対していたこと(クーベルタンは女性の役割は勝利者に冠をかぶせることだと言っていた)、晩年は恵まれず、ノーベル平和賞から外れ失望、ヒトラーからの多額の年金で余生を過ごしたことなど初めて知ったことがありました。

       古代オリンピック、古代ギリシャへのあこがれ、ヨーロッパ人たちのギリシャの正統な後継者だという自負が近代オリンピック創設への情熱となっていくが、これらは後にナチス・ドイツなどに利用されていく。ベルリン・オリンピックではオリンピック映画が作られたが、映像とオリンピックの新しい関係を切り拓いた。つまりメディアとスポーツの関係が始まったことだ。

       筆者はメディアとスポーツの関係で、スポーツのアメリカナイゼーション、大衆の誕生とスポーツの関係を詳細に論じている。ベースボールに典型的な、ヒーローを産み出すスポーツの構造、メディアを通してスポーツが消費されていく構造、社会がスポーツを生み出したのだが、今やスポーツのようなイベントがその時々に社会を形成(あるいは視覚化)しているという現象など、読んでいて一番面白いところです。

       他にもデジタル化された計測が、スポーツを人間の限界を超えた記録への挑戦にかき立て、結果的にドーピングのような肉体改造を余儀なくされているというのは興味深い考察です。

       また女性の参加によるスポーツの性差の縮小に触れて、男性を中心とした身体文化の終焉を迎えているという考察は興味深いです。それはスポーツだけでなく、社会的なすべての要因においてです。スポーツがイギリスに生まれ、アメリカで新しい性格を獲得し、今、三度目の転換点、性差の消滅という地点に我々は立っている。ぞくぞくするほど面白い。

       本書の終わりの方でスポーツとナショナリズムについて論じているが、すでにプレイする個人としては、ネーションを超えているという。スポーツが世界のどこで行われても同じルールに基づいて行われる普遍性を手に入れている以上、これは当然の成り行きです。では、ネーションなしで競技が成り立つかというとそうではない。競技会を開催する国際的な機関が必要で、そこに選手を送るのはネーションである。ここで筆者は重要な指摘をしますが、もはや国家は個人と世界をつなぎ、調整する媒介のような役割しかない空虚さが浮き彫りになると。もともと国家は虚構でしかないが、それが明らかに露呈する確立した個人と世界が結びつく世界、近代的思考の極地としている。スポーツには国家への帰属意識、権力を相対化できるところがある。もちろん、筆者はスポーツにナショナリズムを高揚させる側面、暴力をむしろ誘発する側面があることを(フーリガンについてなど)詳しく論じている。

       この本は、オリンピックのために読んだのではないのですが、偶然その時期に読むことになりました。ロンドン・オリンピックでもさまざまなことを考えさせられました。南スーダンが国家として参加できなかったこととか、すべての競技で女性に門が開かれたこと、イスラム圏からの女性の参加、韓国の領土問題のプラカード、オリンピックと平行して悪化していくシリア情勢、日本に関していうと、マスコミに騒がれた人がメダルを逃し、そうでない人や競技がメダルを取ったことなど。これから色々な言説が飛び交うことだろう。私たちは実に面白い時代に生きているといえます。
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      2012/08/14 by

      スポ-ツを考える」のレビュー

    • 勝利への脱出(だったと思うんですが)ドイツ代表VS連合国捕虜混成チームの試合で、ドイツ側が押している時には観客の声援のボリュームを上げ、反対の場合には絞るというシーンが有りました。

      あのシーンはスポーツが体制側のプロパガンダに利用される象徴的なものだったなぁと良く覚えています。
      >> 続きを読む

      2012/08/14 by makoto

    • Tsukiusagi様、政治とスポーツのことでは、本書で発展途上国の選手が数多く活躍している件が取り上げられています。餓死者が出たり政情不安定で暴動が起きたりしている国が頑張って選手をオリンピックに送る。どうしてそんなにしてまでオリンピックに参加するのか。それは近代化へのアクセスなのだと。政治・経済・文化で到達できていなくても、近代社会にアクセスすることに意味があると論じています。 >> 続きを読む

      2012/08/14 by nekotaka


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