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日本推理小説論争史

3.0 3.0 (レビュー1件)
著者: 郷原 宏
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    「日本推理小説論争史」 の読書レビュー (最新順)

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    • 評価: 3.0

      【論争を通じて日本のミステリがどのように発展していったかを考えてみる】
       日本の推理小説を巡って、過去から現在に至るまで様々な論点について作家や批評家達の間で熱い論争が繰り広げられてきました。
       本書は、そういった論争を振り返り、誰がどのような主張をしてきたのか、当時の文章を引用しながら通覧してみるという本です。

       どういう理由か分からないのですが、本書の構成は必ずしも年代順ではないのですね。
       ここはやはり年代順に並べて主要な論争を振り返ってみましょう。
       見出しの冒頭に書いてある章は本書中の章を表しています。

      第7章 本格×変格論争
       甲賀三郎が、探偵小説の中には本格と変格があるとして、純粋な探偵小説をそうでないものから分離しようとした議論です。
       甲賀は、探偵小説を純化し、本格物を上位に置こうとした意図があったと思われます(変格は探偵小説に非ずという意識があるのでしょう)。
       これに大して大下宇陀児は、もっと多様なタイプの探偵小説があっても良いのだ、それも探偵小説の一つの形だと主張し、議論になったわけですね。
       ここで気をつけたいのは、左翼プロレタリア文学側から主張された『健全』、『非健全』という議論も微妙に絡み合っているところです。
       変格は非健全というよく分からない主張がなされたようですよ。

      第6章 探偵小説芸術論争
       甲賀三郎は、探偵小説(本格物)はその本来的特質の故に探偵的要素が中核をなすのであり、必ずしも芸術的要素が必要なものではない(もちろん芸術的要素があっても良いのだけれど)と主張するのに対して、木々高太郎は優れた作品というのは探偵小説であったとしても芸術的なものでなければならず、現在は芸術的な探偵小説はまだ生まれていないけれどそういう作品こそを目指すべきであると主張しました。
       例えば、『カラマーゾフの兄弟』には探偵小説的要素があるということは誰もが認めていたところでしたが、江戸川乱歩は、文芸作品としては素晴らしいけれど探偵小説として見た時には大したことはないと批評します。
       これに大して、木々は、それは探偵小説として書かれなかったからであり、あの作品を探偵小説として書いていたならば理想的な探偵小説になったであろうと主張します。
       この論争は次に挙げる『一人の芭蕉』論争につながっていきます。

      第5章 一人の芭蕉論争
       この論争は探偵小説雑誌の編集者によって仕組まれた論争であり、木々高太郎の探偵小説芸術論に対して、これまで中立的な立場にあった乱歩に反論を書けと迫ったことから起きた論争でした。
       乱歩はそれでも冷静で、もちろん芸術的な要素を具備した探偵小説が書ければそれは素晴らしいけれどなかなかに難しいのだといなします。
       もし、一人の芭蕉のような天才がいて、芸術的要素と探偵的要素を見事に融合することができるのならばそれは待望するのだがと言うのですね。
       これに大して木々は、芸術的要素がなければそれは理想的な探偵小説ではないと固執し続けます。
       乱歩の方が大人の議論をしているんじゃないかな。

      第1章 名探偵論争
       さて、時代は大分下って、今度は都筑道夫と佐野洋が名探偵を巡って論争します。
       都筑は、『黄色い部屋はいかに改装されたか?』において、現代的な本格推理小説においては名探偵が待望されると書いたのですが、佐野はこれに反論します。
       この論争は論点がかみ合っていなかったりずれていたりしますので、コアな部分だけを取り上げて整理すると、都筑は何作もの作品に共通して登場する名探偵がいた方が良いという立場に立ち、佐野はそんなものは必要ないという立場に立っていたと理解しました。

       佐野の主張の要点は、一人の名探偵でシリーズを書いてしまうと、作品がどうしても型に嵌ってマンネリ化してしまい、同じような傾向の作品しか生まれなくなるのでそれは作者の怠慢であると手厳しく批判し、そうならないようにシリーズ探偵は用いるべきではないと言います。
       確かにパターン化するおそれはありますが、その中でも工夫の余地は大きいと思うのですけれどね。

       これに対して都筑はシリーズ探偵が良いと言うのですが、何故良いのかはあまりうまく書かれていないのですね。
       一人の名探偵を創出したならそれを続けて使う方が得だとか、同一の探偵を使えば少なくとも一人分だけは登場人物の名前を考え出す労力が減るとか言うのですが、この辺りの『省エネ』主張はあまり説得力は無いように思えます。

       都筑が書いていることでなるほどと納得したのは次の点でした。
       作品によっては、犯人が自分の作ったトリックを捜査側に見破って欲しいと思うプロットがあるわけです(都筑は『鬼警部アイアンサイド』の一つのエピソードを例に取って説明します)。
       こういうプロットの場合、犯人としてはちゃんと自分のトリックを見破ってもらわないと困るのですが、凡庸な探偵役だと果たしてちゃんと見破ってもらえるかどうか不安なのに対して、シリーズ探偵であれば過去の作品において優れた推理能力を持っているということは証明済みなので、犯人としてもこの探偵がいるならば見破ってもらえるはずだと期待するのは自然だし、読者もあの探偵なら見破るだろうと安心できるというわけですね。

       佐野は、例えば同じ地区に大学教授と大工がいて、それぞれが優れた探偵能力の持ち主なら、作品によって大学教授が探偵役をつとめ、次の作品では大工が探偵役をつとめる方が自然であり、いつも同じ一人の名探偵ばかりが登場する方が不自然だと批判しますが、そうとも言えないでしょう。
       多くの名探偵は積極的に謎の解明に乗り出しているわけですから、いわゆる『巻き込まれ型』のプロットにしない限り、毎度同じ名探偵が出てきてもそれはそれで構わないのではないでしょうか?

      第2章 匿名座談会論争
       1998年、『このミス』編集部が毎回企画している匿名座談会の席上で、座談会の出席者が笠井潔に対してかなり過激な批評をし、編集部も『間違いだらけの笠井潔』という小見出しをつけたことから勃発した論争です。
       主たる論点は、座談会側が、笠井の『黄色い部屋はいかに改装されたか』の読み方がおかしいと批判し、また、笠井の持論である『大量死』の主張が恣意的であるなどと批判したのに対し、笠井が猛反発したものです。
       笠井はかなり感情的な反論を書き、ひいてはそもそも『匿名座談会』などというものが卑怯なのだと論難します。

       この過程で、匿名座談会に参加していた何人かは自らその正体を明かしたのですが、最後まで素性を明らかにすることを拒んだ出席者も2人いました。
       笠井は、編集部に対して、(1)次の誌上で笠井の反論を掲載すること、(2)『間違いだらけの笠井潔』という小見出しをつけたことを編集部が謝罪すること、(3)匿名座談会の出席者の素性を明らかにすることを要求したのだそうです。

      編集部は(1)と(2)の要求は呑んだものの、(3)に関しては当初から匿名でという条件でやった座談会なので、本人が自ら素性を明かすのならともかく本人が拒否しているのを編集部が明かすことはできないと拒否しました(まあそうでしょうね)。
       これを不服とした笠井は、自分の反論文の中で素性を明かすことを拒否した出席者の名前を明かして論難するという仕儀に及んだのですね~。
       この辺になってくるとかなり感情的で、あまり気持ちの良いものではありません。

      第3章 邪馬台国論争
       高木彬光が書いてベストセラーになった『邪馬台国の秘密』(1973年刊行)を巡る論争です。
       まず、佐野洋が噛みつきます。
       この作品は高木が創出した名探偵高津恭介が病気のため入院した際、無聊を癒すために邪馬台国はどこにあったのかという歴史的な謎を解くというスタイルの作品でした。
       佐野は、まず、この作品は小説になっていないと論難します。
       この作品は入院中の高津恭介と作家の松下研三のほぼ二人による会話によって成り立っている作品なのですが、これでは『小説』の体を成しておらず、本来ノンフィクションで書くべきものを専門家の批判を恐れて小説めいた形で書いたのではないのかと疑問を突きつけます。

       これはちょっとどうでしょうか?
       例えば、ジョセフィン・テイの『時の娘』(1951年刊行)という作品でも、主人公が入院中に、「リチャード3世は果たして世に言われているような極悪非道な暴君だったのか?」という歴史的な謎に迫るわけですが(名作の評価が高い作品です)、この作品でも入院中の主人公とその周囲の者達との会話でほとんど成り立っているわけで、つまりは『ベッド・ディテクティブ』というジャンルは既に確立されているのですから、それを小説じゃないという佐野の批判はあまり当たっていないように思えます。

      むしろ佐野の批判がクリティカルにヒットしたのは、高木が邪馬台国の場所を特定する根拠として使った『黄道修正説』に決定的な誤りがあったことを指摘した点でした。
       これは確かに高木のミスであり、高木はその後の改訂版で書き直しを余儀なくされたのです。
       
       これだけならそれで終わった話なのですが、ここにさらに論争を挑んだのが松本清張でした。
       ご存知の通り、松本清張は歴史にも造形が深く、その観点から高木の書いている内容は学術的な観点から言えば問題があると噛みついたわけですね。
       高木もこれに反論するのですが、紹介されているやり取りをみる限りではどうも高木には分が悪そうです。

       というわけで、ご紹介した限りでも日本の推理小説を巡ってはこれまでに様々な論争が繰り広げられてきたことが分かります。
       建設的な論争であれば、それはミステリの向上につながるものであり、歓迎したいとは思うのですが、中には相当に感情的な論争もあったようで、そういうのはどうかなぁと正直思いました。
       確かに、自分の作品、あるいは主張が批判されるのは面白くはないことでしょうけれど、そこは冷静に、大人の対応をしてもらうと良いのかなと思うのです。

       ご紹介しなかった論争もあるのですが、その中の一つに、左翼からミステリ陣営に対する論難が本書で紹介されていました。
       これなんかは私としてはまったく理解できない論争で、ご紹介も控えさせていただきました。
       かつてあったというプロレタリア文芸の方面からの批判なのですが、要はミステリはブルジョア的であるという批判なのですけれど、そういう思想的な批判はあまり意味が無いように思えるのですよね。
       勝手に土俵を設定されて、そこでブルジョアがどうのこうのと言われても。
       それにあまり当たっていないのではないでしょうか?
       例えば、そのように批判されている江戸川乱歩も『芋虫』では全文削除の検閲を受けており、あれがブルジョア文学だと言うのは当たらないのでは?(もっとも、乱歩は反戦文学としても書いていないのですけれどね)。

       このレビューで、笠井潔についてちょっと厳しく書いてしまったかなとも思うのですが、論争の中で笠井が主張していたことでその通り!と思った点もいくつもあるのですよ。
       その一つは、笠井も具体的な指摘を伴わない『好きか嫌いか』レベルの主張は批評たり得ないと言っており、それはごもっとも!と思いました。
       その点は、以前レビューした『このミステリーがひどい!』という本について述べたとおりです。


      読了時間メーター
      □□□     普通(1~2日あれば読める)
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      2020/05/16 by

      日本推理小説論争史」のレビュー


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