読書ログ - 読書ファンが集まる読書レビューサイト
こんにちはゲストさん(ログインはこちら) | 読書ログ - 読書ファンが集まる読書レビューサイト →会員登録(無料)
神谷幹夫 , Alain
1クリック登録
910円でamazonで購入。書き込みあり。書き込みは大好きなので問題はなし。P24 心の悲しみをおなかの痛みのように考えるのだ。そうすれば、憂鬱はもう何とも思わない。のところに蛍光ペンが引かれ、欄外に、そんなに簡単に出来ないでしょ…と、書かれたいた。そう、作者は成功した強者。幸福とは強いこと。心が。と作者は言っている。ただし、この文章に続く部分、まるで茫然自失状態で、ほとんど何も感じないようになる。もう何ごとをも責めない。耐えているだけだ。でも、からだは休めること。こうして、悲しみを相手にふさわしい戦いをすることになる。それは祈りというものが最後に行き着くところである。これはすばらしい発見である。そう、そう、そうだよね!忍耐する勇気を持とう、に通じる。時間が解決してくれるのを待つ、ということ。42頁まで読んだところで終了。訳が直訳すぎでヘタ。結局、気の持ちようのオンパレード。「 暮しの手帖 」の投稿の方が読んでて気分がいい。星を1個にしたんだけど、反映されません。 >> 続きを読む
2020/04/27 by KATUYO
DescartesRené , 谷川多佳子
デカルトの学問に対する姿勢や、彼の思想における重要概念のいくつかが短い文章に詰め込まれている。特に、哲学の第一原則である「Cogito ergo sum」「我思う、ゆえに我あり」や、演繹法を行う上での4つの準則、神の存在証明に至る議論は、この一冊が哲学史上、最も重要な本のうちの一冊だということを直感させる。 特に重要な議論は、神の存在証明に関するものだろう。この議論は、後にパスカルらに批判されるが、ここにデカルトの自然観がよく表れている。17世紀の科学革命真っ只中だが、彼があくまでも科学の背景に神を見ていることがわかる。これは、今日的価値観に相反するものだが、当時の人びとの、未知への合理的解釈がうかがえる。 ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』とデカルトの『方法序説』を読み終わったが、ここで経験論、合理論のそれぞれの始まりを確認できた。これらは近代哲学の重要な考え方であり、後のカントやヘーゲルに繋がってくることから、今後も繰り返し勉強しなければいけない書物たちである。 >> 続きを読む
2018/02/12 by shinshi
デカルト
ここで言う精神とは、知識を獲得する際の思考のあり方のようなことを言っています。そのための規則が述べられています。前半はすべての問題解決に用いることができる一般的な内容になっており、役立ちそうです。「いかにして問題を解くか」の発見学のような。後半は数学的、哲学的な説明になっており、読まなくても本質は得られると思います。知識を得るためには、直観と演繹によって得られるのが本当の確実な知識で、それを日常的に行なうにはある種の方法が必要。そこでは分析と総合が意味をもつ。その過程で最も重要なことは、「順序」をつけて考える、「順序」に従うことである。最後の解説にエッセンスが詰まっていてわかりやすいと思います。まぁまぁおもしろかったかな。ただ読みにくいけど。「方法序説」も読んでみたいと思います。 >> 続きを読む
2015/03/19 by densuke
J.J. ルソー
思っていた内容とは違うがなかなか興味深い。人間が不平等ではない状態にあったのはいつか?そして何により不平等となったかを思索する。ルソーがいうには未開人こそが自由で平等であるという。多分にロマンが含まれているが、たしかに平等である。そして賢く、豊かになるにつれて所有という概念、そしてそれを定める「法」がうまれたことによって不平等が発生したと展開する。少々強引であるが、ルソーの生きたヨーロッパは専制君主の時代であり、法を行使するものとそうでないものとに大きな差、つまり不平等が生じている事を念頭に置けば、この結論も意味を持つ。さて、ここで注意しなければならないのはルソーは法をなくそうとしているのではないことである。当然ながら無政府主義者でもない。ルソーが求めているのは人間が平等であった頃の自然の定め、つまり自然の裁定に従うことである。そこには人間の持つ本質的な道徳が存在し、そしてそれこそが不平等から抜け出せる鍵であるということを示唆している。短いが法の本来のあり方を問う鋭い問いかけである。 >> 続きを読む
2017/06/30 by 夏白狐舞
前田陽一 , PascalBlaise , 由木康
17世紀の哲学者による箴言集。大半がキリスト教についての内容であり、聖書からの引用が多くある。聖書を読んでいると、その内容をより理解出来るだろう。 私は、同時代の哲学者たちの作品の代表作や、もちろん聖書も読んでこの『パンセ』に臨んだが、結果として非常に読書が難航した。前半の有名な「パスカルの賭け」の部分や道徳論、人間の矮小さについての議論(人間は考える葦である…)は楽しめたものの、後半のキリスト教色の強い議論らは、あまりその分野に明るくない私にとって楽しめるものではなかった。もちろん、それらの中から、本質的な(つまり表徴としての神学的議論の内部の)パスカルの思想を読み取るのが、哲学を学ぶものとしての正しい姿勢なのだろうが、それはなかなか難しい。 神の存在が否定され、我々の道徳を基礎づける、上位概念が欠落した現在こそ、このような17世紀の古典を読むことの重要性が説かれてはいるが、『パンセ』の再読解は、現代の我々にとっては一苦労するものになりそうだ。 >> 続きを読む
2018/02/22 by shinshi
パスカル
パスカルの「パンセ」は本当に面白い。元々、哲学者でもあり数学者でもありそして数々の名言を残した人物として多くの方から支持されている人である。哲学ということについて彼は次のように述べている──哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである──普通に哲学だからといって鵜呑みにせずそこから自分の思考を手繰ってみよという意図の元に生まれたものだと自分は思っている。ちなみに伊坂幸太郎氏の「死神の浮力」という小説でも「パンセ」からの名言が幾たびか使われている。他にもこういうものがある。──人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。──この哲学者の本に魅了される人々はすべからく自分の「哲学」を欲しがっている。しかし哲学や宗教がすでに伝播されていた時代に「自分で思考することが大切なのだ」と真顔で言える人は当時、異端児扱いされただろう。己の身の程を宇宙と対比させながら思惟に身を委ねていたパスカルの孤独を思うと自分は胸が熱くなる。そして、よりよく生きたい。そう強く願うのである。本を欲しがる理由は「よりよく生きたい」ことなのだと改めて気づかされる。 >> 続きを読む
2013/10/28 by frock05
合田正人
とっつきにくい哲学をすごくわかりやすくまとめてくれています。個人的な感覚としては、詩集のように軽やかに読み進められました。しかもその内容がすべてpositiveなのです。哲学に対する興味がわいてくる一冊でした。 >> 続きを読む
2012/07/10 by cocodemer
RousseauJean Jacques , 永田千奈
哲学の本を集めた書棚をうろつくのは危ない。ときに、矢のような書名が、眼に襲いかかって来る。 『孤独な散歩者の夢想』わたし「うわぁーーーー、左眼をくり抜かれた。今のは痛かった……痛かったぞ!」 ? 「くそ、心臓を外したか。おい、そこの素っ頓狂な男。いざ、尋常に勝負!」わたし「フン、たかがスイス生まれの哲学者で、百科全書派の一人、パリのパンテオンに埋葬されている数少ない偉人のお前がわたしと勝負だと。面白い」 パカラッ、パカラッ、パカラッ、パカラッ、パカラッ(馬の足音)ジャン・ジャック・ルソー「敵将、討ち取ったり!」 いや~、哲学者なんか相手にしてはダメですよ。あいつら、容赦のかけらもないから。英国の哲学者ホワイトヘッドによると、西洋のあらゆる哲学は、プラトンの哲学書の補足に過ぎないらしい。それから、名前はよく知れ渡っているイマヌエル・カント。まあ、ソクラテスとカントの二人が哲学の中心人物で間違いはないけれど、デイヴィッド・ヒュームとジャン・ジャック・ルソー、この二人の本を読まなければ哲学はできないらしい。 しかし、ヒュームの理論はむずかしくて、彼が示した経験から得られる人間の知性の限界を理解する前に、自らの知性の限界を知って絶望してしまう。あ、忘れてた。わたしのような普通の人間は哲学なぞする必要がなかった! そこで今日は、読み物として面白みのある哲学っぽい本をくすねてきやした。 正直に打ち明けてもいいですか? ぼくはこの本を余り理解できていません。したがって、興味を持たれた方は、後ろのほうにとても詳しい解説があるので、それを読んで自分の貴重な読書タイムのお伴にするかどうか決めてね。 ただね、ルソーは植物と水を愛する人で、そういうところが自分(わたし)と似ているから、分からなくても通じ合えるところがあるんです。普段のぼくは、女性にしか興味がないようなことを言ってますが、あれは仮初の姿なのかもしれない。 わたしの本当の姿は、杜へとつづく孤独な散歩道を歩く愚者なのである。 >> 続きを読む
2015/05/08 by 素頓狂
田母神顯二郎 , GirardRené
終電の社内で酔っ払ったスーツ姿の男性が、「社員が愛社精神を持ちうるかどうかは、明確な企業文化があるかないかで決まるんだよ~!!」と同僚らしき人に力説していたのが妙に引っかかったので読んでみた本。はっきりいって期待した答えは得られなかったけれど(笑)、別の側面でとても興味深い内容だった。著者は学会の中心から距離を置いている(置かれている)フランスの批評家らしく、彼がスタンダールやプルースト、ドストエフスキーなどから見出し、風雪に耐えて唱え続けてきたテーマをインタビュアーとの対談形式で炙りだすのが本書の趣旨。ではそのテーマが何かというと、「ミメーシス(模倣)とスケープゴート(供犠)」と「キリスト教」。模倣は、ミラーニューロンの発見によって脳機能として人間に備わっているものだと分かってきており、学ぶは真似ぶというように個人の成長や社会の発達に不可欠で一般に肯定的に捉えられ得るものだが、著者によるとそれこそが暴力を生み出す源泉だそうで、この視点に沿って社会における暴力の処理の仕方を俯瞰すると、以下の4段階で展開されているという。① ミメーシス的欲望② ミメーシス的対抗意識③ ミメーシス的あるいは供犠的危機④ スケープゴートによる解決まず①だが、前提に置かなければならないのが欲求と欲望の違いで、欲求は食欲や性欲など個人と対象との関係だけで成り立つのに対し、欲望は他者の所有物及び求めるものに対する欲であり対象との間に常に他者が介在する。つまり欲望の発生元は、ある他者を模倣のモデルにした際にそのモデルの対象物への欲求ないし欲望をも模倣してしまうという人間の性質であり、これが発動したのが①の段階。②はモデルと同じ対象を欲したことにより生じるモデル自身に対する対抗意識。この状態を第三者が意識するとさらに対象の価値は上がっていき、結果対抗者が増えていく。それがエスカレートすると集団に闘争的エネルギーが生まれ、最終的には対象がそのものの価値から離れてただただ争いのための媒介となってしまい、ホッブスの言うところの万人の万人による闘争のような対抗関係が確立してしまった段階が③。そして、この対立関係にもはや解決策が無くなってしまった状態で、成員たちの暴力の矛先をスケープゴートという一点に集約し、極限まで高まったエネルギーを収めて共同体を自壊から救うのが④の段階。このように破滅を防ぐための暴力を組み込んで社会は成り立っていて、暴力の処理の仕方を洗練させて儀式化していく過程で、①や②をコントロールし暴発前に妥当性のある形で④をチョイスする仕組みとして禁忌や規範、制度など社会的なメカニズムが生み出されていったという意味で、模倣と供犠は文化の起源なのだという。その上で、こうした供犠選定の落としどころとして神に奉げるという方法をとったのが宗教だという見解の元、誰の中にも眠るこのような群衆心理をこそ悪と見なしたエポックメイキングな宗教がキリスト教だというのがもう一つの著者の主張。スケープゴートは成員たちの内面の不協和の矛先として設定される者であるが故に全員の敵でなければならず、(本当は)ミメーシス的危機の発端や拡大の原因でなかったとしても別要因で「罰を受ける妥当性がある者=悪の根源」とみなされてしまう。これはそもそもミメーシス的供犠を必要とする状況が先立っているからであり、本質的には誰がそうなってもおかしくない(もちろん文化的に妥当性のある理由で裁かれることもあるが、その裁きの基準自体は当該文化の歴史が作り出した必然ともいえるし、恣意的なものだともいえる)。例えば、荒れた学級で子供たちはその流れに乗る方が良いか静観した方が良いかを絶えず感じ取って負のエネルギーのたまり場にならないよう立ち回る。この場合、ミメーシス的供犠がうまく働いていると価値転換がうまい子供等によってエネルギーが無化されたり別の影響が少ない矛先に転嫁したりできるのだが、うまく働かないと頭が良いとか悪いとか醜いとか美しいとか目立つとか片親だとか不具者だとか他民族だとかであることをきっかけに選定された子供が、状況に沿った攻撃理由を後付けされ、陰惨ないじめに発展し悲劇的な結果に至ることもある(この後付け以前の不定形の動機こそがミメーシスが負に転んだ際の働きということ)。ところがこういった場合、加害者側が悪いのは被害者側なのだと本気で思っていることがある。これは、その(ミメーシスによる)いじめが集団の不協和解決のために行われたことであり、故にスケープゴート=悪、その他成員=正義であるという構図が半ば無意識に出来上がっているので、スケープゴートに悪を押し付けているという意識すらもたない(または意識にのぼらないようにする)から。そして、スケープゴートによる解決がうまく働くと、緊張関係が中和されるだけでなく以前より集団の結束は高まる。文化の起源から集団の安定に一定の機能を果たしてきたこのシステムに対して人が悪を為す根本的な理由を見出し、共同体の争いや危機を終わらせるために犠牲者の無実を顕在化させ、スケープゴートの儀式に頼らざるを得ないという必然性から人間を解放するという方法論をとったのがキリスト教なのだという説を著者は唱え続けてきたのだという。旧約における原罪をミメーシスの悪用、サタンを供犠的危機時の群衆の集団心理状態の比喩、新約でのイエスの受難をスケープゴートの本質的無罪の象徴と見立てることで、自身の暴力性と向き合わなければならない痛みは伴うが、罪悪(罪悪感ではない)を抱えることはない世界を希求するのがキリスト教であり、これは本質的にキリスト教者だけでなく誰もが責任を負うべき問題なのだと。と、実際に聖書を読んでいないので著者の主張の妥当性を確認する術を持たないままの感想だが、本書の趣旨を踏まえてキリスト教がミメーシスによる暴力との対峙を教義の根本に据えていたとすると、隣人の範囲を区切り、外部(=異教徒)を供犠にして内部の自浄化を保ってきたように見えるキリスト教の歴史的側面は、ミメーシスに抗うことの難しさを物語っているように思える。本書を読んだ後、自分なりにこの視点を持って暮らしてみたが、あまりにも多くの場面に供犠を見つけ(たつもりになっ)てしまい、抽象化すべき「群衆」を個人に投影する誘惑に負けそうな自分を見てしまったので、スケープゴートを発生させる回路から逃れることの難しさもわかる気がする。ということで最初の話に戻すと、明確な企業文化があると自他の区別がはっきりするので内部に適合した人は愛社精神のようなものが芽生えやすいかもしれないが、それを目的化すると多くのスケープゴートを(不当に)発生させる仕組みになりかねない。ただ、著者は一人の供犠に理不尽に全ての責任を押し付けるのではなく、制度上納得感のある適度な責任を無数の供犠に負わすという意味で資本主義を肯定しており、全く供犠のない世界を夢想している訳ではないようだ。そこで文化とはミメーシス的危機を解消させていく仕組みだという観点に立つと、供犠(=敵として作り出した他者)との関係性で独自性を見出す文化より、ミメーシス的群衆意識との対峙の元で(=敵をミメーシス的群衆意識と設定して)会社の目的と各成員の個性に基づいた組織の性格に(ミメーシスが無化できる領域として)価値を置きつつ、適度なミメーシス的欲望に基づいた競争を行う企業文化こそが望ましいということだろう。何にせよ、文化が暴力をコントロールするために形成されてきたという起源を持つとして、これを作ったり守ったりすることで新たな暴力が生まれるのであれば文化の退行と見なせるので、愛されるための決まりごとなんて作らない方が良いと思う。 >> 続きを読む
2013/04/22 by Pettonton
重田園江
基本はフーコーの著書『監獄の誕生』を解説する読書案内で、加えてフーコーの著作の性格や、その魅力を伝えることを意図している。章ごとの流れとしては、2章までが導入、3~8章と12章が主に「規律」をめぐる『監獄の誕生』の読解、9章~11章がフーコーの近代国家への見立て、13章ではその政治活動について紹介する。未読の読者が対象だといってもフーコーへの難解なイメージから警戒感があったが、『監獄の誕生』を読解するパートを中心に興味深く読めた。近代になって身体刑が自由刑に転換したことへの問い自体はフーコー独自の着眼ではないとされるが、私にはそこからが新鮮だった。ブルジョワジーの要請とも一致する規律型の権力が空間と時間を制御することで、機械化された人間という名の資源を生み出したとする主張が腑に落ちる。著者の「今では自発性も主体性も、どことなく気恥ずかしいような時代がかった言葉の仲間になってしまっている」という一文には、規律が自明のものとして内面化されてしまった社会を薄ら寒く感じ、怖れを新たにする。同時に、規律が自然発生的に「つまらない工夫が積み重なってテクニックとして精緻化」されたという指摘と、近代国家に対して規律を生んだ元凶とする見方を短絡的とする戒めも独特だと感じた。自身の中高生時代の学校体験や、一部にある感情的な語り口など、フーコーの魅力を伝えようと模索する著者のパーソナリティが端々に滲むのも本書の特徴だろう。ここでフーコーは理解し難い哲学者としてでなく、「見えているものを違った仕方で見せる」ことで、社会に違和感を感じ続けた著者という一人の人間を励ました存在であることを理解し、著者がその魅力を伝えようとする動機にも納得できた。12章の「監獄の失敗」が黙認され続ける事実への考察には、偶然最近読んでいた『凶悪犯罪者こそ更生します』や『獄窓記』が伝える日本の刑務所の実情とも重なった。一定の犯罪者を確保して市民の被害者意識を醸成することが目的であれば、刑務所が更生施設としてほぼ機能せず再犯者を多く生み出しつづけるのは必然だ。犯罪者の更生を目指すという人権的に真っ当な試みは意図せず、人びとの内面にも根を下ろす「規律」が張り巡らされた社会システムに対する挑戦にあたるのではないだろうか。そもそも「犯罪者が更生する」ということを、市民感情として一定数以上の人々がそれ自体をあまり望まないだろうことは想像に難くないからだ。 >> 続きを読む
2021/05/25 by ikawaArise
石田英敬 , 小林康夫 , 松浦寿輝 , ミシェル・フーコー
ミシェル・フーコーの著作、講義の概説書。倫理学の講義のレポートの参考文献として読んだ。以下に引用したい箇所を示す。・「狂気は野生の状態では見出されないものなのです。狂気は社会のなかにおいてしか存在しない。狂気は、それを孤立化する感受性の諸形態、それを排除しあるいは補足する嫌悪の諸形態の外に存在するものではないのです。」・狂気とは「(精神疾患を患う)狂人だけではない。貧者、浮浪者、性病患者、同性愛者、放蕩者、浪費家、瀆神者、無宗教者、自殺を試みる者といった人々…共通項とは…『非理性』なのである。」・デカルトの『省察』の一節を分析するフーコーは、デカルトの「懐疑」が思考から狂気の可能性を排除していることを明らかにする。そこでは理性と非理性とのあいだに決定的な分割線が引かれ、狂気はこの境界線の向こう側に閉じ込められている。…理性がみずからの圏域から非理性を追放するのと同様に、社会は非理性的存在を排除することで、安定した均質性を獲得しようとする。 >> 続きを読む
2017/07/07 by shinshi
DescartesRené , 山田弘明
前半は深く考えることが重要であると気づいたきっかけや発見した「方法」、そして「我思う故に我あり」に至る経緯など。そして後半は自然学についての諸問題として主に生物について述べている。特に機械・動物・人間の違いについては現代のAIに繋がる問題提起がなされており先進的なものの見方をしていたことが伺える。一方で意見の公表については非常に慎重であり、ガリレイ事件を主な理由として『世界論』の公刊を取りやめたりもしている。ただ、公刊することで巻き込まれるであろうつまらない議論によって考える時間を盗られるのを嫌ったことも明かしており、どちらかと言えばこちらが本当の理由のように思える。哲学書に分類される本書であるが、哲学書というよりもデカルトの自伝という感じで、学問に対する思いや真摯さが伝わってくる。 >> 続きを読む
2016/10/30 by 夏白狐舞
ColebrookClaire , 國分功一郎
非常によい本ではあるが、僕自身、もうドゥルーズへの関心を失ってしまった。巻末の「読書案内」が解説付きで役立つ。ただし、前提として英語圏の人達のために書かれている。 >> 続きを読む
2013/04/13 by togusa
StrathernPaul , 浅見昇吾
フーコーの生きざま、彼が求めたものがいきいきと伝わって来る一冊である。尽きることのない欲望、ぎらぎらした強い生の力があったからこそ、フーコーはあれほどの仕事を成し遂げたのであろう。彼の著作に対する細かい賛否は、専門家ではないので判断できないが、一人の人間としてのフーコーのありようは、本書においてかなり的確に描かれているのではないか、という印象を受ける。 伝記的事実や有名な著作も一通り押さえられているので、フーコーという名前は知っているけれど近づきがたくてよくわからないという人にお勧めできる本だと思う。 >> 続きを読む
2016/10/26 by コノハ♦
青柳瑞穂 , RousseauJean Jacques
東浩紀
小泉義之
國分功一郎
篠原資明
Alain , 白井健三郎
カテゴリー"フランス・オランダ哲学"の書籍一覧 | 読書ログ
ページの先頭に戻る
会員登録(無料)
レビューのある本