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枡野俊明
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心理学の本や、様々な啓発本の内容に「今を生きる」「今この瞬間に集中する」というニュアンスの教えが、今まで読んできた本の中で、必ずといっていいほどあり、それだけ「今この瞬間」を生きれていない人が多いんだなとこの本を読んで改めて思った。よく、不安や後悔などの陰性感情は、過去や未来を思って作り出される産物で、今この瞬間のリアルタイムな問題などほとんどないという。だから、「今この瞬間」にフォーカスできれば、問題のほとんどが消えることになる。だから、良くも悪くもあまり未来に思いを馳せたり、良い思い出に浸ることも良くはない気がする。(良い未来に一喜するなら、不安な未来で一憂するから)過去や未来に理想を求めて幸福になろうとする前に、今この瞬間、手に届く範囲の現状から幸福を見出せないと、きっとなにを成し遂げたって満たされることはないのだと思う。結局なにごとも、なにをするかより、「どう思うか」「どう解釈するか」が問題で不安、心配、幸福などは、物質的なことでは解決できないと思う。 >> 続きを読む
2018/02/24 by seinen-boy
酒井雄哉
村木厚子さんの著書で本書を知り、興味を持ちました。四百年で三人しか達成していない二千日回峰行を最高齢で満行した天台宗の僧侶による語り。内容は「今を大切に、身の丈にあったことをひとつひとつこなしていこう」といった人生訓の王道といえそうなものと、著者の来歴を含めた実体験からなります。千日回峰行については巡拝の歩行距離の長さよりも九日間の堂入りのほうがきつそうです。著者自身は千日回峰行を何でもないことのように語っています。各章の大まかなテーマは以下のようなものです。第一章 「一日一生」 →今を大切に第二章 「道」 →来歴第三章 「行」 →修行、学び第四章 「命」 →家族第五章 「調和」 →自然、世界各章間に編者による、天台宗の修行に関連する語彙についてのコラム「比叡山」「千日回峰行」「常行三昧」「大阿闍梨」が収められています。 >> 続きを読む
2020/07/29 by ikawaArise
美しい動作を図などを用い説明するのではなく、なぜその立ち振舞が美しい所作であるのかについて説明されている本でした。 所作というものは相手を思いやる行動であると思います。相手を思いやっている行動だからこそ相手の心に響き、美しいと思われるのです。どの所作も意識をしていれば決して難しいものではありませんが、無意識にできるものかというと難しいものだと思います。三世代家族や子供の減少により、一番思いやるべき人たちが減少していることが、相手を思いやる練習の場を減らしている原因なのかもしれません。 真に美しい人とは一流ブランドで身を固めた美人ではなく、相手のことを常に思いやることのできる人であると思います。最近では自分だけが良ければ他の人は苦しんでいてもいいという考えが世界中に蔓延し始めているように感じます。世界中に利己的な考えが蔓延すれば争いが起きるでしょう。争いを防ぐためには各々が他人を思いやる心を保つ必要があります。いきなり世界中の人々に対して思いやりを持つことは難しいですが、毎日顔を合わせる人に対してならば思いやりを向けることは可能ではないかと思います。次に会った人に対して聞こえるように挨拶をする。この行動が世界を平和にそして、自分を美しくしてくれる第一歩なのかもしれませんね。 >> 続きを読む
2016/11/10 by taka0316
山折哲雄
本書は著者山折哲雄が断っているとおり、親鸞や親鸞の思想についての概説書ではありません。身体で親鸞を「よむ」ことを目指して親鸞の足跡をたどりながら、親鸞の思想を探っていきます。 古人の思想について学ぼうとするとき、どうしても書物に書かれた情報だけを見がちであると思います。もちろん書かれた情報は最もその人の思想が表れていることは間違いないのでしょうけれど、交通機関も発達していない時代に長大な距離を歩いたその道のりや、山を登り、海を渡るそうした身体の動きは結構大切なのではないかと改めて思います。筆跡に残された筆遣いの力強さ、像に残された表情など、言語化されていない情報を私たちは書物の情報に比べて軽視してきたと思います。日常の私たちのコミュニケーションはその多くを非言語コミュニケーションに負っていることはよく知られていることです。そうであれば、古人の思想を探るにしてもこうした肉体的なアプローチはあっていいのではないかと思うのです。 弟子から見た親鸞、カミ概念を親鸞はどう扱ったか、親鸞の妻とされる恵信は親鸞をどう見ていたか、筆者はこれまでの親鸞像とは違う親鸞の息づかいや肉体を何とか描き出そうと努めています。 >> 続きを読む
2013/07/30 by nekotaka
禅の言葉に学ぶ・・・この頃、手にする本が、生き方、心のあり方ちょっと宗教じみてきた。この本のタイトル、「ていねいな暮らしと美しい人生」もまさに外見ではなく、自分本来の心のなかを、穏やかな人生を送るために必要な禅の思想を、わかりやすく解説・・・・・くやしいが、すんなりと心に染み入るだけに、私も年をとったのか。折りかえした言葉をひらうと松樹千年翠(しょうじゅせんねんのみどり)・・「大切なものは、いつも眼の前にある」白雲自在(はくうんじざい)・・・「こだわりなく自由自在に」一期一会(いちごいちえ)・・・「ただこの一時に生きる」誰家無明月清風(たがいえにかめいげつせいふうなからん)・・・「チャンスは誰にでも平等に来る」莫妄想(まくもうぞう)・・・・「なすべきことのみなせ)これのみ、解説を写すと、ここでいう「妄想」は俗にいう誇大妄想とは違い、相対的二元論、つまり、生死、愛憎、美醜、貧富というような対立的分別には、選り好みが生じて執着心が起こるから、このような分別心、つまりものを二つに分けて考えることをやめなさいということ・・・・莫妄想(まくもうぞう)なんだって・・・。求めない、こだわらない、悩まない。「禅の教え」、日々の生活に生かせまっせ。心豊かに生きるためのヒント集。あまり、仕事には生かしたくないですな・・・その時点で、縛られている自分に嫌気が差しますな。禅とは「本来の自分に出会う」こととか・・・・ものごとに対する考え方、見方を変えてみる。心静かに、一日が終えれるよう、本棚に入れるのではなくしばらくベットの枕元に置いておく、そんな本でおます。 >> 続きを読む
2013/07/20 by ごまめ
相田みつを
この本の名言をご紹介します。***うばい合うと 足らないけれどわけ合うと あまっちゃうんだなあ >> 続きを読む
2013/09/12 by 本の名言
永井宗直
すべきこと•思想を学ぶこと•日々の所作、掃除、食事で実践すること•禅、読経、写経などをすること >> 続きを読む
2015/09/24 by shohheit
日本子宮内膜症協会羽田守快藤巻一保大宮司朗
密教の神仏を知りたいと思った時に買った本。中身は宗教そのものなのに、宗教色のない、教科書的なガイドになってるところがよい。図や写真も多くて、とても重宝してます。 >> 続きを読む
2015/11/03 by nekoya
梅原 猛
いわゆる十六羅漢(らかん)という永遠の仏道修行者の一人、戎博迦尊者(じゅばかそんじゃ)についての記述から入ります。この人はどんな人かと言えば、・・・・・・・・・・・・・・第九番目は、戎博迦尊者というのだ。ジュバカ尊者はいつも横向きにすわっている。そしていつも己れの半面しか見せないのである。そして左手に扇を握り、右手は三本の指をまげて、二本の指をのばしている。多くの人はいう。ジュバカは、左手に扇を握って、右手に拳を握っていると。けれど、そういわれたときジュバカ尊者はにやりと笑うのである。よく見てごらんというのである。私は扇なんか握っていやしませんよ、拳なんか握っていやしませんよ、というのである。けれど私が何度見ても彼は左手に扇を握っていて、右手に拳を握っている。どうも変である。 そしてなぜ彼はいつも横向きばかりにすわっているのであろう。彼にその理由を聞いたけれど彼は笑って答えない。そして相変わらずよく見よというのである。彼の言葉の謎は半分はとけた。右手である。右手は拳を握っていると私は思ったが、じっさいはそうではない。拳を握っているように見えるのは、三本の指がまげられているからだ。あとの二本はのばしているが、こちらから見ると三本の指のみが見える。三本の指がまげられていると、あとの二本の指もまげられて、拳をむすんでいるのではないかと人は思う。しかし、それは人間の錯覚にすぎない。 (中略) 扇を左の手に持っているのではなくて、扇で手を握っているのではないかという。扇で手を握っているというとは、いささか妙な理屈である。しかしここで起こっているのは、二つのものが出あっているということなのである。手と扇、あるいは人と物、それが出あっている。人の立場、手の立場に立てば、人あるいは手が主体である。そこで手は扇を握るという。われわれ人間は、こういう人間的主体中心の世界に住む。けれど物の立場に立ったらどうか。物が主体になることだってありうる。それゆえ物が手を握るといったとて、変ではない。・・・・・・・・・・・・・ 「羅漢 仏と人のあいだ」(梅原猛:講談社現代新書)P33-P35)以上引用した戎博迦尊者のほかにも15人、個性的な人物たちの群像が語られます。羅漢という概念は原始仏教に端を発します。元の言葉は「阿羅漢」で、梵語で「arhan」仏教の修行の最高段階、またその段階に達した人(広辞苑)で、いわゆる小乗仏教の概念でしたが、大乗仏教が興り、羅漢という存在は消し去られます。ところが、中国に仏教が伝来した際、そこに老荘思想(老子、荘子などの哲学)が既にあり、仏教と結合して、あらたに「禅宗」という一宗派が誕生します。そこでは、羅漢という存在も復活するのですね。上の引用の最後の連、この発想はまさに老子のそれと変わりありません。物事の2面性という意味では、やはり中国哲学の易経(えききょう)の発想と同じです。 この本を読んだ私は、大学生活1年目の終わりの春休み、(このときはその年、初めて実施された共通一次試験のさなかでしたが(現在の大学入試センター試験))、南房総にスケッチ旅行に行き、鋸山(のこぎりやま)の1500羅漢をスケッチブックにいくつか記しました。本来は16人の羅漢だけだったのが、18人に増え、さらには日本で500羅漢、1500羅漢というように、当初の難しい哲理を語る羅漢ではなく、人間味溢れた羅漢信仰に変わっていきました。ゆるいとは言え、日本人にも受容されたのですね。たとえば埼玉県・川越市の喜多院にある羅漢の群像は有名です。そこには、哲学的に峻厳な羅漢ではなく、庶民的感覚の仏たちがいます。私にとって、梅原猛さんのこの本は、記念すべき本の一つになりましたが、碩学・梅原猛さんにとっても、思いいれのある本のようで、前書きにこうあります:・・・・・・・・・・・・・この本は、私の書いた多くの本の中で、最も奇妙な本である。私はかつて、こういう種類の本を書いたこともないし、また今後もこういう種類の本を書かないであろう。最近、この本を読み返して、私は思った。一体、どういう精神の状態で、私はこの本を書いたのであろうか。はたして、これを書いたのは、本当に、私自身なのであろうか。(中略) 私のことを、詩人と称する人がある。それは誉めことばあると共に、貶しことばでもあろう。誉めことばとすれば、それは私の著作が詩的情感に溢れたものであるという意味でもあろうし、貶しことばとすれば、それは学問的実証性の乏しい詩的空想力の産物にすぎないという意味でもあろう。 まあ、批評は各人にまかせよう。しかし、私自身としては、もしも想像力の過剰に苦しむ人間を詩人と名付け、想像力の貧困に耐える人間を学者と名付けることができるとすれば、私は学者の領域より以上に詩人の領域に属する人間であると思っている。・・・・・・・・・・・最後に:私にとっても、梅原猛さんのこの本は、私という小宇宙に響き、以後の私の活動に大いに影響をあたえたのです。 >> 続きを読む
2013/06/19 by iirei
石川昌孝
93歳で曹洞宗の大本山永平寺貫首になり、108歳まで勤め上げた高僧、宮崎奕保禅師の生涯を8年かけて取材したもので元々はNHKスペシャルで放送されたんだけど、反響が大きく単行本化された。老僧ならではの言葉選びと禅問答のような会話があり、何度か読み返しながら意味を吸収する。禅師と著者の会話を引用してみると〜第三章 平気で生きる〜「正岡子規の『病床六尺』という本には、“人間は、いつ死んでもいいと思っておったのが悟りだと思っておった。ところが、それは間違っておった。平気で生きておることが悟りやった”と書いてある。いつ死んでもいいと思っておったのが悟りやったと。ところがいつ死んでもいいどころではない。平気で生きておることが悟りやったと。わかるか。ー中略ーー平気で生きていることほどいいことはない。いつ死んでもいいと思っておったって、それが安心みたいだけれど、平気で生きておるか。平気で生きていることは、難かしい」〜第四章 自然に生きる〜「自然は立派だーーー私は日記を付けておるが、何月何日に花が咲いた。何月何日に虫が鳴いた。ほとんど違わない。規則正しい。そういうのが法だ。法にかなったのが大自然だ。法にかなっておる。だから、自然の法則を真似て人間が暮らす。人間の欲望に従っては、迷いの世界だ。人情によって曲げたり縮めたりできないもの、人間が感情によって勝手に変えられない自然。そういう生活をして生きておられたらいいね」こういう本こそたまに読み返えそう。1日坐禅を組む禅師の行動や考え方は一般人には難しいかもしれないけれど人の根本的なところに忘れず置いておくべき言葉がいくつも語られている一冊だった。こ難しい本ではないので、ある程度大人になった人はこんな本も一度読んでみるといい。心にストンと落ちる言葉が見つかるかもしれない。 >> 続きを読む
2014/08/15 by achiko
矢野絢也
宗教団体と国税庁との税金を巡るやり取りを交渉に携わった当事者が書いた回想録のようなもの。当事者だけあり、具体的かつとても生々しい。政治家も巻き込んで行動していたことが書かれている。宗教団体への税金は問題になることもあるが、これを読むと課税しても良いのでは感じた。 >> 続きを読む
2013/05/19 by 6kawa
永坂嘉光 , 頼富本宏
ブラタモリで高野山を見てから俄然空海に興味を持ち手に取った一冊。写真と文章が美しかった。いつか空海の足跡を辿るような旅をしてみたい。 >> 続きを読む
2018/06/07 by キトー戦士
野々村馨
一般のサラリーマンが30才の時、突然出家し雲水として、曹洞宗大本山・永平寺に一年間の修行生活に・・・・。単に、座禅を組む、瞑想するだけが修行だけではなく、〈作務〉といって作業を大切にする。仏は、人の心の中にあり、作務は動く座禅であり、それに没頭することは、自分の心の中の仏と一つになる道である、と。それはまさに、想像以上の24時間気の休まることのない、寝ている時間でさえ修行、食事、排泄、掃除、身の支度、動作ひとつに細かい作法が決められている。私情の入り込む余地をことごとく排除し、うむを言わせず身も心もがんじがらめの型にはめこんでしまうことによって、すべての執着心を捨てさせる・・・。作者、雲水「魯山」が一年経って、座ることによって感じたことは、座ることに馴れ、痛みを克服するなどということは何の意味も持たず、その一瞬をあるがままをすべてを無条件に受け入れる、それが作者の「只管打座」である。そして、ここに自由があった。禅における自由とは、「自分が」「自分の」といった意識から解放されたところにあらわれる。ようするに自由とは、自分を取り巻く外部の何か解放されることではなく、自分の内面にある欲望やその他もろもろの精神的なものから解き放たれることである。人間は、劇的で変化にとんだものほど魅力を感じ、心を動かされやすい。そして単調なものほど軽視され、日常生活の中に埋没し、気づかずに通り過ぎてしまう。しかし、日々繰り返す単調で平凡なことこそ、人間が気づかなくてはいけない真理がひそんでいる・・・・と。「平々凡々」 「凡事徹底」 「日々是好日」 「吾唯足知」 「唯我独尊」私の手帳に書いてある言葉です。いかに、毎日、心しずかに、過ごせるかですな。 >> 続きを読む
2019/05/06 by ごまめ
南直哉
問う。語る。思索する。繰り返す。時の流れ。新たな問いへ。人はいろいろ考え、悩み、営みを続けていく。だからこそ、明日につながるのだろう。こころが静かになる。 >> 続きを読む
2017/11/03 by けんとまん
著者は、「禅の心」とは、物事にとらわれず今この瞬間を大切に生きること。執着を手放し日々満足して生きること。よけいなものをそぎ落としシンプルに生きることだ、と述べています。 禅には、トゲトゲした心が楽になり、安らかな気持ちで毎日を送るためのヒントがたくさんあります。 本書は、禅門で伝えられている逸話や禅話も織り交ぜながら、怒りから自由になるためにはどうしたらいいのか、その作法について分かりやすくまとめた一冊です。 詳細なレビューはこちらです↓http://maemuki-blog.com/shohyou/mental/masuno-ikaranai/ >> 続きを読む
2013/08/28 by ヨッシィー
瀬戸内寂聴
お坊さん(尼僧)の説法はためになる! 美容院で見た女性週刊誌に連載されてたのを読んだことがあったが、 これは母が借りたのを又借りして読んだ。 重みのあるお話ばかり。だけど明るく楽しく語ってくださってて心に素直に入ってくる。 やっぱり、寂聴さんの人柄もあるのかな。(何千人もの人が聞きに行くのが分かるような気がする) 小説もいいけど、こういう話もいい。 >> 続きを読む
2013/01/19 by バカボン
『禅が教えてくれる美しい人を作る「所作」の基本』の続編に当たる本です。禅の心や所作について前著よりも深い内容になっています。さらに前著ではなかったお辞儀や座禅の組み方などがイラスト付きで解説されているので実践的かつ、わかりやすくなっています。 私が特に気に入ったお話は「お賽銭の意味と所作」でした。私はお賽銭を投げることは基本的にありません。それは自分の投げたお賽銭ぶんの見返りが返ってくるとは思えないからです。私にとってお賽銭というものは神社やお寺で何か願掛けをする対価として支払うものなのです。しかし、この本では「自分の欲を捨てる」という意味でお賽銭を投げるということが美しい所作であると述べられています。一般的に人間には自分が一度手にしたお金やものを「手放したくない」という気持ちがあるそうです。この気持ちこそ執着や煩悩というのです。お賽銭を投げるという行為はこの執着や煩悩をお寺や神社に捨てさせていただくという行為だということです。このように考えるとお賽銭というものは仏や神にお金とご利益を交換してもらう行為ではなく自分の醜い部分を引き取ってもらう行為だと思えるので、お賽銭も感謝の気持ちを込めて投げさせていただくことができそうです。 この本はページは200ページと薄いものですが自分の行動を照らし合わせて読むと非常に奥の深い内容の本であると思いました。書かれていることは至極当たり前のことが多いです。しかし、当たり前だからこそ、意識せずになあなあに過ごしている行動も数多くあります。この本を読むことによってなあなあに過ごしている部分を確認することができたので私にとって価値のある本であると感じました。 >> 続きを読む
2016/11/18 by taka0316
栗田勇
激しい狂に生きた禅僧、一休。栗田勇が書いた「一休」を時間をかけて、ようやく読み終えました。動乱の室町時代。強烈な個性を持って、素手で俗世の闇を切り裂くように現われ、世間を仰天させる振る舞いで「風狂」を名乗り、生身の体を汚濁の巷に投げ入れるかのように生きた、反俗の禅僧、一休がいた。とんちの「一休」でも、大徳寺復興の「一休和尚」でも、収まりきらない激しさだ。27歳で大悟。師からの印可状を拒絶し、焼き捨てまでした一休。退廃した禅院には、徹底した「ノー」を突きつけ、その鋭い刃先を、相克と矛盾の中に生きる己にも向ける。そして、自らを「目の見えぬろば」とも呼ぶこの自己凝視こそが、開眼した人の「狂」の在り方なのだと思います。それは晩年、盲目の琵琶弾きの森侍女と結ばれ、恋を高らかに歌い上げた詩歌へと結晶していく「狂」だ。これらは「狂雲集」と名付けた自分の著書に収められていますが、ここで一休の筆は一段と冴えわたっていると思いますね。この作品の冒頭に、度肝を抜かれる話があります。入寂の年、自分の髭と頭髪を抜いて、弟子に作らせた木彫の肖像に植え付けさせたといいます。いやいや、こんなことで驚いていては、一休さんとは付き合えません。生でもない、死でもない現象の実相を知る人の、これは次代へのメッセージではなかったのか?絵入りの法話「一休骸骨」の「一切空」の核心に連なる、胸のすくようなパフォーマンスだ。多くの謎に満ちた一休という人の全身からほとばしり出る「狂」は、森侍女との風流とも呼べる日々の中で、静かに深まり、著者の言葉を借りるならば、「天空の霊性の極を生きる」姿を映し出すんですね。「新月のごとき容姿」を愛し、「腰に水仙の香りが漂う」と賛美し、「私の手よ、この手はおまえの手」と森侍女を詠う時、その手は既に、信仰していた弥勒の手であったのかも知れません。 >> 続きを読む
2018/08/23 by dreamer
武山廣道 , ひらたせつこ
図書館で借りて読んだ。
2016/05/20 by 匿名
さすが阿闍梨。徳の高いお坊様の言う事は判りやすいね。疲れてる人とかが読むといいんでないのかなぁ。疲れてる人悩んでる人におススメ。人生を生きていくには自分をよく知ることが大事最終的に物事の判断をするのは自分自分の人生、他人が代わりに生きる事は出来ない!!疲れた時は疲れた自分を乗り越えようとしないで自分の心と対話弱音を吐いた自分を受け止めて自分のやりたい事を言い聞かせる…すぐに結果を求めない!!焦ってばかりでは頭が先に動いて(考え過ぎ)も心が動かない人の心や気持ちはゆとりが大事。人生=日々の積み重ね→地味に経験を重ねるとみんなそれなりに…人生ムダになるものはない=失敗は成功の前触れ、経験に生かされる人間が生きている期間はあッという間人はいつ死ぬか分からないんだから自ら命を絶つのはダメ悩みが多くて困ってる人もいるけど悩めるのは命があるからとかためになる事が書いてある!!(b^ー°) >> 続きを読む
2013/02/21 by あんコ
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