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カテゴリー"キリスト教史、迫害史"の書籍一覧

      イエスの生涯

      遠藤周作

      4.5
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      • キリスト教って?と思って、聖書を読んでみました、というか読みかけて挫折。旧約聖書はユダヤ教(キリスト教も共通)の話らしいけど、何だか神様は怒ったり脅したりで恐ろしいし、物語もダラダラ続いてよく分からないし、・・・早々に挫折。新約聖書はイエス様の言葉が、優しさに満ちた良い言葉がいっぱいなんだけど、やっぱり物語がよく分からないし面白くない。・・・挫折。

        世界で超有名な”キリスト教”って、実際どんな教えなのか、キリスト様ってどんな人だったのか・・・遠藤周作さんのこの本を読んで、やっとユダヤ教とキリスト教、イエス様のこと、キリスト教というのは何なのか、何となく(ちょっとだけ^^;)分かったような気がします。

        もっとも、これは遠藤周作さん個人の解釈ですが、日本人にはとても腑に落ちる。

        イエス様は、苦しみ悩む弱い人たちに寄り添い、”神様はどうして助けてくださらないのか。なぜ神は我々を見捨てるのか”と絶望しかかっている人たちを救いたいと思った。そして、大衆が感じている”怒り、裁き、脅す神” ”父親のような厳しく怖い神” ”沈黙の神”に違和感を覚えていた。そして、彼は、神とは実は”愛にあふれた方”なんだ、”神の愛” ”愛の神”を信じる。(当然神様は信じてる。神様を信じるというのは大前提の社会、神を冒涜すると死刑の時代)

        大衆はイエスを、地獄のような現実やローマ帝国の支配から救ってくださる救世主だと期待するが、イエスはそうではなく”神の愛””愛の神”をみんなに証明したいだけ。その証明の方法が、(神を冒涜しているという罪で、実際は政治的に利用され)十字架にかけられて無抵抗で無力にも死ぬことだった。(ゲンキンな)大衆は期待はずれだと怒ったけれど、(彼を裏切り見捨てた弟子や)すべての人間の”罪”を引き受け、すべてを赦し、すべてを神にゆだねて・・・。

         「父よ、彼等を許し給え。彼等、その為すことを知らざればなり」



        ・・・みたいな?
        イエス様は本当にやさしく愛に満ちたよい人だった。そしてあくまで神を信じていた。一生懸命に”神の愛””愛の神”を伝えたんですね。自分の命をかけて・・・。

        聖書の内容も、実は何人もの聖書作家が色々な資料やら伝承やらを参考につくってるので、事実とはちがうところや矛盾が多いらしいです。

        キリスト教は、キリストが十字架で殺された後、やっと彼の真意に気づき、心を打たれた弟子たちが広めたものらしいです。

        西洋の歴史的政治的な背景があってのユダヤ教、キリスト教みたいです。なので、日本人には色々と細かいところや腑に落ちないところもあってなかなかなじめませんが、ただ、キリスト様の”愛”は真実で普遍的なものだと思います。(”慈しみ”の心はあらゆるものに打ち克つ、キリスト教の”愛”もそういうものなのでしょうね、きっと。)
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        2016/06/13 by バカボン

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      旅のパウロ その経験と運命

      佐藤研

      4.0
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      •  パウロが実際に歩いた行程を「使徒言行録」と手紙類からたどり、実際に行ってみたという、ありそうでなかった本です。
         筆者も言っていますが、聖書を読んでいると、まるですぐ近くの隣町にでも行くように次の訪問先が書いてあったりするのですが、実際には200キロもある道のりだったりするわけです。しかも徒歩で。当時の人たちが陸路でいける距離は一日30キロだそうです。ですから何度も野宿を繰り返すことになります。そういう部分は聖書を読んでいても見えてきません。パウロはいわゆる「回心」経験の前にキリスト教徒(というか、イエス派の人たち)を迫害しますが、パウロのいたタルソスからダマスコスまで500キロあるというのですから驚きです。いくら許せないと思っても、何日にもわたって歩いて迫害しにいくパウロは相当に執念深い性格です。筆者はパウロを熱狂的な性格と評していますが、うなずけるところです。
         パウロとバルナバが第一回伝道旅行にでかけた総距離が1200キロ(稚内から鹿児島までの直線距離だとか!)。高低差1000mの高原地帯を歩くというのですから、尋常ではありません。
         さて、本書がパウロの足跡をたどりながら、当地の今昔を歴史を交えて書いてあるだけなら、それだけでも面白いのですが、本書の目的は、パウロの思想に触れることです。筆者はルカの書いた使徒言行録のルカ創作部分をなるべく削りながら、パウロ直筆の手紙と照らし合わせて、パウロがなぜこのルートで、この街に行ったのかということをパウロの政治的な立場や思想を明らかにするために追っていくのです。
         エルサレムにいる使徒たちとユダヤ教から逸脱しかけているパウロとではかなり考え方が違います。特に異邦人伝道においては、ユダヤ教徒になることを前提にして割礼を必要条件とする保守的な立場と、ただイエスに従うことを求めるリベラルな立場とでは意見が対立します。筆者はパウロが何とかしてこの分裂を食い止めようとしていたと考えています。パウロはキリスト教としてユダヤ教から独立することを望んではいなかった。それを「献金問題」としてとりあげます。第三回の伝道旅行でパウロは献金をエルサレムに自ら持っていくが、それは異邦人伝道の教会がエルサレム教会を重んじている証拠としてでした。しかしエルサレムは献金を受けとらなかったと筆者は見ています。パウロは捕まり、皇帝に上訴したパウロはローマへ護送されます。その間、エルサレムのイエス派の信者はパウロを助ける動きをしません。筆者はパウロの死後10年ほどしてキリスト教がユダヤ教から完全に分離独立した時に、パウロの思想が利用されたが、パウロの思想は結局理解されていなかったと考えています。特に「信仰義認」に対しては否定的で、むしろ「義認信仰」と言うべきだと主張しています。ガラテヤ2:15~21の「ただイエス・キリストへの信仰によって」とあるのは不適切だというのです。原語では「pistis Iesu Christu」で、英語だと「pistis of Jesus Christ」。これは「イエス・キリストの信」と訳すべきで、「我々のイエス・キリストへの信仰」ではなく、これはプロテスタント的・ルター的な解釈であると断じています。キリストだ第一義であって、我々は二義的に「追認」するに過ぎない。我々にできるのは「応答(レスポンス)」であって、我々の信仰次第で「義」と認められるか認められないか、救われるか救われないかが決まるわけではないと言います。ルターは、「pistis」(ギリシャ語)・「fides」(ラテン語)をドイツ語訳の時に「Glaube」と訳したが、これは「人間が信仰する」の意味しか持たない。筆者はこれはルターが当時の堕落したカトリック教会と闘うために言い出したことを考えています。「信仰のみ、それ以外はいらない」という主張です。しかしそれが後代には「信仰」が救われるための「条件」に転化し、「信仰がないから救われない」という呪いとなって人間に迫る、しかしそれは間違っていると筆者は言います。
         パウロが経験したいわゆる「回心」はイエスが「抗殺刑」(筆者は美しさがただよう「十字架」という言葉を敢えて避けている。「stauros」は「杭」という意味で、十字架への磔ではない。実際の刑も一本の杭またはT字型の杭へのくくりつけ刑である)によって殺された姿を心眼で見てしまい、パウロの中の「自分」が抗殺柱のイエスに呑み込まれ破裂し死滅してしまったと筆者は考えます。それをパウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私において生きている」と表現しています。この心眼で見た経験は、パウロが迫害していたイエスの弟子たちの言葉を何度も聞く内に卒然として心に浮かんだ映像ではないかと推測しています。筆者は「力は弱さにおいて全きものとなる」(コリントⅡ12:9
        をパウロの最高の言葉としています。これはパウロ自身の身体の「とげ」や挫折体験を元にしている言葉ですが、究極的には抗殺柱のイエスに行きつきます。
         私はこれを読みながら、パウロが長い旅路を徒歩で移動する時間と苛酷な身体使用がパウロの思想を作ったと思いました。思索の深まりは、むしろ思索から離れた時に起こるものです。いわゆる「寝かせ」の時間が必要です。思索から離れるために「無心」に身体を動かす時間が必要だと思います。歩行と思索の関係は深いと私は思っています。孔子は中国を旅した。ブッダもインドを歩いて托鉢したのではないか。ただ座禅をしていただけではないでしょう。パウロが野宿をして一人疲れきった身体で星空を眺めながら、前の街でした自分の説教を反芻し、質問や反論について検討し、次の街での説教を考えていたのではないでしょうか、あるいは神や、イエス・キリストやについて思いを巡らしていたのではないかと想像します。
         身体を使っていると、どんなに頑張っても一日に決まった距離しか歩けない、そういう限界のある存在としての人間を痛烈に感じさせるものです。どんなに高尚なことを考えようとしても腹が減って仕方がないかもしれないし、足が重くて一歩も歩けないかもしれない。強い日差しにめまいがして、強風に向かってよろよろ歩き、雨に打たれ、体調を崩すこともあったでしょう。でもそういうところからしか本当の思想は生まれないのかもしれません。
         
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        2012/07/16 by nekotaka

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      こどものための聖母マリア物語

      星野真理 , WildsmithBrian

      5.0
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      • 子ども向けに美しい絵で描かれた、イエスの母のマリアの物語。

        聖母マリアの物語は、よくジョットなどの絵画にも描かれているが、聖書に直接出てくるわけではなく、さまざまな伝説による物語である場合が多いので、それをわかりやすく一冊にまとめたこの本は、読んでいて、なるほど、あの絵はこの物語の場面を描いたものだったのか~っと感銘深いものが多々あった。

        イエスがあれほど深く豊かに人を愛する心を持ったのは、もちろん神の子だからというのがキリスト教のとらえかたなのだろうけれど、マリアが本当に優しい良い母親だからこそ、あのような心に育ったのではないかと読みながら思った。

        昔、ヴェネツィアで、ティツィアーノの聖母被昇天の絵の実物を見たことがあるのだけれど、聖書には出てこないこの場面も、この絵本でこういう物語だったのだなぁと感銘深く読んだ。

        たしかに、マリアは人類の歴史上最も偉大な母の一人だったのだろうと思う。
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        2013/06/05 by atsushi

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      キリストの誕生

      遠藤周作

      5.0
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      • この本、実は、十二、三年前、同じく遠藤周作の『イエスの生涯』とともに古本屋で買った。
        しかし、そのまま長いこと本棚に眠っていて、ついこの前、『イエスの生涯』を読み、とても感動し、それでこの本も読みだした。

        しかし、なかなか遅々として進まず、真ん中らへんまでは、なかなかあまり面白さを感じなかったのだが、真ん中らへんから俄然面白くなり、ラストの方はただただ感嘆の、本当に遠藤周作の入魂の書だった。

        特に感銘を受けたのは、以下の三つのことである。

        1、ステファノの殉教に関するペテロらの行動と心理の分析。
        2、なぜペテロやパウロの殉教の様子を知っていたはずのルカがそれについて一行も書かなかったか。
        3、ユダヤ戦争によるエルサレム破壊の後の、本当の意味の「キリストの誕生」の意味。

        これらは、本当に深く深く心に響き、印象的だった。

        使徒行伝の中のステファノの殉教に関し、遠藤周作は緻密に前後の文章を分析し、ペテロやヤコブらの他の主要な教会を率いていた弟子たちは、結局何もしていなかったこと、つまり、イエスが十字架に架けられた時に逃げ出して、臆病で卑怯だったペテロたちは、イエスの十字架の二年後において、ステファノの殉教に関して、また同じように臆病で卑怯に見て見ぬふりをしたことを指摘している。

        これは今まで全然考えたことがなかったので、とても印象的だった。
        通常、私たちは、イエスが十字架の死を遂げた後、その時は逃げ出したペテロたちが、不思議なほど強くなり、殉教も恐れず、イエス・キリストの福音を人々に伝えるようになったと考えがちだ。
        実際に、そういう面もあったのだろう。
        しかし、二年経った時に起こったステファノの殉教事件の時に、またペテロやヤコブたちは、同じことをせざるを得ない状況に追い込まれ、またそのように振る舞った。

        そして、そのあと、このステファノの死の後に、本当の意味で、ペテロたちは強くなり、異邦人にもキリストの福音を伝えていくようになる。

        人は一挙には変わらず、凡夫はどこまでも臆病で悲しい存在だということと、にもかかわらず、いくつかの出来事を経て、人は本当に変わっていくということを、とても考えさせられた。

        それから、ペテロ、さらにはパウロは、熱烈にキリストの福音を伝道していくことになるが、イエスの十字架から四十年ぐらい経ったときに、ローマでペテロもパウロも皇帝ネロのキリスト教弾圧により殉教した。
        しかし、その様子を知っていたはずのルカは、その様子を聖書に全然書き記していない。

        遠藤周作は、その理由を推測し、おそらく、あまりにも悲惨な死だったために、書かなかったのではなく、書けなかったのだろう、と記していて、とても印象的だった。

        ペテロやパウロのような立派な人たちが、なぜ理不尽な不条理な酷い死に方をしなければならなかったのか。
        その神の沈黙の前に、ルカたちは、語る言葉を持たず、何も書けなかった、書こうにもあまりにも悲し過ぎて書けなかったのだろう。
        その遠藤周作の推測は、おそらく全くそのとおりで、正鵠を射ていると個々の底から思えた。

        さらに、その後、ユダヤ人はローマ帝国に反乱を起こし、ユダヤ戦争が勃発し、ローマ帝国の軍勢の前に完全に滅ぼされることになる。
        この時も、神はエルサレムの破壊に何も介入せず、沈黙を保ったままだった。

        イエスの十字架の死と、ステファノやペテロやパウロらの殉教と、イスラエルの滅亡と。
        これら三つの、あまりにも悲しく不条理な出来事とそれに対する神の沈黙。

        しかし、それゆえにこそ、キリスト教は滅びず、このことへの問いもひっくるめて、不思議と生き残り、その後広まり続け、ついにはローマ帝国をひっくり返すまでに広がっていくことになる。

        遠藤周作は、ユダヤ教の風土では、通常、人を神と崇めることは決してありえないし、他にも多くの殺された立派な預言者やラビもいたのに、それらの誰も神として信仰されることはなかったのに、イエス・キリストだけは、十字架の出来事の後の十数年後には、メシアでありキリストであり神の子であり、主であるという信仰が広まっていったことに注意を促す。
        つまり、そうとしか思えない何かが、イエスにあり、イエスと出会った人に忘れがたい印象をそれらの人に刻印していったからではないか、と述べているが、確かにそのとおりだったのだろうと思う。

        この本を読み終わった後の深い感動は、うまく言葉では言い表せない。
        多くの人に、『イエスの生涯』と併せて読んで欲しいと思う一冊である。
        また、この本の最後の方で資料として使われている『ユダヤ戦記』も全部必ず読もうと思った。
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        2013/10/12 by atsushi

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      異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖支配

      小林朋則 , GreenToby

      いいね! Tukiwami
      • 過去にあった異端審問(あるいは魔女裁判)に関する本。インサイド・ヒストリーズは2冊目で一冊目はルビコン。結構真面目に歴史について書いています。異端審問とはそもそもは一神教特有の非寛容思想(同一思想以外は受け付けない)の行き着いた先で、政治的にはムスリムの爆発によるイベリア半島支配->レコンキスタによる挙国一致体制による再征服->ムスリムの恐怖から逃れるための挙国一致体制を維持するために異なると思われるものを弾圧(全体主義)から始まり、丁度宗教改革と反動宗教改革から泥沼の政治対立(宗教だけど政治対立と思う)に至っていたヨーロッパに飛び火して行ってそれが大航海時代に新大陸へ伝わり、近代辺りまで続いていたと理解していますが、この辺は専門家ではないので間違っているかもしれません。始まりは少々行き過ぎた修道士クラマーとシュプレンガーにより書かれた魔女に与える鉄槌(Malleus Maleficarum)というフェミニストが読んだら泡吹いて気絶しそうな本に始まります(読んだことはありませんが・・・)。封建制のような閉鎖した社会においてはしばしば発生しますが、社会的に貢献することは無いというのが私の理解です(効率よく有能もしくは善良な人間を殺す政策なので)。あまり、人にはお勧めいたしません。 >> 続きを読む

        2012/12/11 by Shimada

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      最後のイエス

      佐藤研

      4.0
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      • 表紙を良く見れば気付けたはずなのですが、「最後のイエス」を「最後のYes」と思いこんでしまい、誰かは知りませんが、最期に何に対して「Yes」と言ったのだろう?という内容を想像していました。

        でも、この本の「イエス」はイエスキリストのイエスです。
        これも何かの縁だろうと、普段あまり宗教には縁がないのですが読んでみました。

        何と言っても著者の立場が良いと思います。
        聖書の研究家で有りながら、禅の指導者という顔も持っている方らしく、内容もとてもバランス感覚に富んだ方だと思いました。

        イエスキリストと言う存在の「神」ではなく「人間」の側面を丁寧に追っている点に好感が持てます。

        冒涜と取られてしまうと悲しいのですが、神として生まれた瞬間からその全てを正しいものとして信じることよりも、一人の人間として、悩み成長する中で神に至ったのだと考えた方が、わたし個人としては受け入れ易かったです。

        慈愛に満ちた態度で人に接するためには、人に優しくされたこと。それに喜びを見出した経験などが必要なんじゃないかなぁ。
        >> 続きを読む

        2012/12/27 by emi

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