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カテゴリー"音楽"の書籍一覧

      小澤征爾さんと、音楽について話をする

      小沢征爾 , 村上春樹

      3.5
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      • 村上春樹さんが、小澤征爾さんと、音楽の話を・・・

        小説家らしい春樹さんの質問に、しばしば沈黙する征爾さん。

        バーンスタインやカラヤンに師事した征爾さん、曲目のレパートリ―なんぞ
        まるで落語家と一緒、まさに稽古をつけて貰うように、一つ一つ増やしていく。

        マーラーとの出会いもひたすら、スコアを読み込むだけで、レコードを聴いた事もなかったと、
        そうそう、自分のレコードもまるっきり聴いて無いようで、途中で、レコードマニアについて
        実は「僕はもともとレコード。マニアみたいな人たちがあまり好きじゃなかったんです。」と、
        でも春樹さんの音楽の聴き方は深く、見る目の違いも「なるほど、こんな見方もあるんだ」と、
        新しい体験だと・・・まあ、結構、私もクラシック聴きながら何かをしていることが多い。

        でも、落語は困ったもので、CDとかDVDの録画したものを画面を見ず音だけを聴きながら、
        パソコンをしようとするのですが、落語は頭の思考がとられるのでまるっきり無理。

        そういう意味では、本を読む時やプログを打つ時のクラシックはなかなか良いもんでおます。

        また、きちっとメソッドをもった恩師斎藤先生とのやり方には、征爾さん反抗していたとは意外。
        「指揮にしても、教えることにしても、こうあるべきだという形を用意してくんじゃなくて、
        その場で相手を見て決めるというやり方と。相手がやっていることを見て、その場で対応していくので、
        僕は教則本など書けないと・・・相手によって言うことが違う・・・・」でも、これが逆説的にみれば
        世界の色んな有名オーケストラと、少ない時間で一緒に音楽をつくる秘訣なんでしょうな。

        ベッドでこの本を読みながら、聴いたCDを紹介。

        Beethoven「ピアノ協奏曲・NO3」・・・(P)インマゼール・ブルーノ・ワイル指揮・ターフェルムジークバロック管弦楽団
        Beethoven「ピアノ協奏曲・NO3」・・・(P)グルダ・ホルシュタイン指揮・ウィーンフイル
        Beethoven「ピアノ協奏曲・NO4」・・・(P)グールド・バーステイン指揮・ニューヨークフィル
        Beethoven「ピアノ協奏曲・NO4」・・・(P)ペライア・チェリッヒダッケ指揮・ミュンヘンPO
        Prokofiev「ピアノ協奏曲・NO3」・・・(P)ワイセンベルク・小沢征爾・パリ管弦楽団
        Bizet「交響曲ハ長調」「カルメン組曲」「序曲、祖国」・・・小沢征爾・フランス国立管弦楽団
        Brahms「交響曲・NO2&NO3」・・・小沢征爾・サイトウキネンオーケストラ
        Faure「ペアレスとメリサンド」・・・・小沢征爾・ボストン交響楽団
        Berlioz「レクイエム」・・・・・・・・・・・・小沢征爾・ボストン交響楽団

        Mahler「交響曲・NO1」・・・・・・・・・・若杉弘・ドレスデン国立歌劇場och
        Beethoven「弦楽四重奏曲・NO13」・・・ベルリン弦楽四重奏団
        Ravel「弦楽四重奏曲ヘ長調」・・・・・・・・・・エマーソン弦楽四重奏団

        まあ、すべて、途中からは寝てしまっているのですが・・・
        音楽とともに心地よい時間が過ごせる
        小沢征爾さんと村上春樹さんの対談集でおます。
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        2013/06/18 by ごまめ

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      ボクの音楽武者修業

      小沢征爾

      4.5
      いいね! you-ta1031
      •  若いころの誤りを正してくれた人は、一生の指針となる。
         私にとって、それはショーペンハウエルであり、小澤征爾さんだった。ショーペンハウエル先生は、人生における不幸や苦難の受け入れ方と、「意志の力」の可能性と限界の境界線を示してくれた。そして、小澤さんが教えてくれたことは、髪の毛がフサフサな人にも立派な人はいる! ということ。
         笑ってはいけない。高校生くらいから薄毛だった私には、髪の毛の少ないことが、自らを卑屈にしてしまう大敵だった。今でも少し尾を引いていて、家内から、
        「あなたは卑屈になり過ぎるところが良くない」
        と度々言われる。しかし、これでも十分改善した方だし、こういうしこりは残るものなのだ。
         分かってますよ、ブルース・ウィリスのあの言葉や、そんなこと気にしなくてもという声。だが、そういう言葉は全く信用できなくて、
        「わたし、髪の毛で人を判断しませんよ~」
        とか言ってる女性は、だいたい複雑怪奇な髪をした男の隣を歩いている。
         誤解を招きたくないので強調しておくが、これまで述べてきたことは、小澤さんを知る前の考えだよ。ドキュメンタリー番組「OZAWA」に出会い、こんな偏狭な考えは吹き飛ばされた。小澤さんはインタヴューでこう言ったのである。

        「ぼくは音楽のテクニックなんか知らないよ。ただやるだけさ。たぶん、音楽のテクニックっていうのは、自分が感じたことを、自然に表出させるための手段なんだ」

         なぜか私は、音楽のテクニックを「生き方のコツ」へとすり替え、ただただ胸を熱くさせていた。なるほど卑屈になるのは、自分の心の働きが不自然だからであり、前向きに生きていく為に、それを上手く整える必要がある。もちろん簡単なことではないですよ。しかし、何か糸口のようなもの、いや、暗くて長いトンネルの終わりが見えた気がした。
         
         この『ボクの音楽武者修行』は、当時、26歳の小澤青年によって書かれたもので、まだ年若いうちから、数え切れないほど貴重な経験を積んでいることに驚かされる。つねに一生懸命で、必死で、頭の回転もさることながら、心のモーターはそれ以上にフルスロットル。本当に何かに懸けようと思ったら、形振り構わず、泥臭くないといけない。きれいな成功があるとしても、それは見せかけの成功なのかもしれない。
         順境なら良し、逆境ならなお良し。
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        2015/04/30 by 素頓狂

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      音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉

      岡田暁生

      5.0
      いいね! Fragment
      •  音楽を語るのは簡単ではありません。なんとなく良かったとか悪かったとか、感動したとか癒やされたとかはいえるけれど、もっと語ろうとすると自分の貧困な語彙力に絶望することもしばしば。音楽は言葉に出来ないものなのだから語る必要なんてないし、語れないからこそ音楽はスバラシイと考えるしかないのでしょうか。

         そうではないと著者は言います。聴くと語るがセットになって、音楽という趣味は洗練されていくのです。語ることによって聴いた音楽に肉薄することができ、他者と音楽体験を共有することもできます。音楽を語るための言葉は、才能に左右されるのでもなければ、生得的な感性が必須なわけでもありません。ただ地道に学び、習得していかねばならないものです。

         聴くという行為も一筋縄ではいきません。個人の気分や体調に左右されることはもちろんのこと、属する集団や社会といった歴史的文脈によって聴く型が規定されていることもあるからです。大切なことは、音楽を聴く自分を客観視(相対化)すること。つまり、自らが完全に自由な位相で音楽を聴けないことを自覚することです。自由ではないと認識するがゆえに、あの音楽の形式はなんだろう、どんな感情を誘発させるのだろう、作曲家や作詞家の意図はなんだろう、どんな場所で音楽をきけばよいのだろう、この音楽が作られた歴史的背景(文化的背景)とはなんだろうといったことなどを考え、音楽に対して思索的であろうしないといけないのです。

         上記のように聴く、語るということの複雑性について「はじめに」で端的に述べたあと、本論へと本文は展開していきます。次に、各章を簡潔にまとめながら、本書の内容を振り返りたいと思います。

        1、「音楽と共鳴するとき 『内なる図書館』をつくる」
         音楽は相性なのさ。とはいっても、相性というのも単純ではありません。個人のその日の体調や年齢で変わるでしょう。また、相性は完全に個人的なものでもありません。何を好きと思うかは、個人が置かれてきた環境、あるいは、属する集団や社会などに左右されています。つくられているかもしれない自らの好みに敏感になっておくことが必要なのです。
         
         ですが、著者は半ば祈るように、相性を超えた有無を言わせぬような音楽があるともいっています。途中で聴くのを中断したり、細切りにしたりすることがためらわれてしまうような、人に身体的な戦慄と畏怖を与える音楽。こうした音楽とできるだけ多くの縁を結ぶことで、自分の心の中の音楽の世界(「内なる図書館」)が拡張するのだといいます。

        2、「音楽を語る言葉を探す 神学修辞から『わざ言語』へ」
         1章では音楽を語る前の段階である感覚的な音楽体験について触れました。本章では、具体的にどう音楽を語るのかについて焦点を移していきます。著者によれば、音楽を前にして沈黙しただ感じれば良いのだとするイデオロギーは、19世紀ドイツで育まれた美学だそうです。ドイツの音楽制度を輸入した日本は、このイデオロギーからの影響が特に強いのだそうな。1章で触れたように、言葉にするのをためらうような音楽があるのも否定できません。でも、音楽は言語を経てはじめて結晶化します。言葉を超えながらも、同時に言語によって考えられ、吟味され、修正されるのが音楽です。
         
         では、音楽を語る言葉にはどんな次元があるのでしょう。第1に、「もっと大きく、強く」といった直接的指示の言葉。第2に、「ワイン・グラスで乾杯するような様子を思い描いて」という詩的絵画的表現。第3に、音楽の内部関連(ハ長調、ソナタ形式といった作曲技法)と外部関連(歴史的文化的背景)を説明する言葉。そして、著者がもっとも強調するのが、第4の身体感覚に関わる比喩表現(「わざ言語」)です。抽象的、観念的な言葉(崇高だ、精神性がある、深遠だなどなど)は極力さけながら、肉体と音楽が共鳴するような身体感覚あふれる言葉を著者は重要視しています。例えば、以下のような表現。

        「40度くらいの熱で、ヴィブラートを思い切りかけて」(ムラヴィンスキー)

        「いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで」(クライバー)

        「おしゃべりな婆さんたちが口論している様子で」(チェリビダッケ)

        「ここではもっと喜びを爆発させて、ただし狩人ではなく猟犬の歓喜を」(フリッチャイ)

         上記の肉感的ともいえる言葉が、運動感覚を惹起する音楽と共振することによって、身体の内奥から音楽を感じ取ることができます。そして、そうした身体的な言葉でもって音楽を語れば、より親密なかたちで他者と音楽体験を共有することも可能になるのです。

        3、「音楽を読む 言語としての音楽」
         前章では音楽をどう言葉にするかを考察しました。本章では音楽自体を1つの言語として捉え、音楽の読み方を考えていきます。音楽には学ぶべき文法や語法、意味論があるのです。
         
         まずは、どこまでが1つのまとまりとしての旋律なのか、旋律をどこで区切ることができるのかという問題があります。例えば「ゆうやけこやけの赤とんぼ」はこれで1つのまとまりであり、分けるとなると「ゆうやけ/こやけの/赤とんぼ」となります。日本人にとって馴染みのある曲であり言語であるなら、簡単に分節できます。ですが、異文化の音楽はそうはいきません。できるなら、楽譜を見ながら、なおかつ、外国語も学びながら音楽に向き合わないと曲を把握できない恐れがあるのです。
         
         旋律同士の関係性も考えなければなりません。同一主題の旋律が反復されているだけなのか(「好きだよ、愛しているよ、大好きだよ云々」)、物語のように様々な場面が繰り返されるのか(オペラの序曲が好例)、気分転換が挟まれるのか(「今日は楽しい、でも昨日はあんなことがあってね、でもやっぱり今日は楽しいわ云々」、いわゆる三部形式やロンド形式)、主題の否定と肯定が繰り返されるのか(ソナタ形式、『第九』の第4楽章が好例)などなど。さらに多楽章形式の場合は、旋律を越えて複数の曲同士の関係性を考える必要がでてくるため、1つの建築物を理解する心構えがないと曲を理解するのは困難になってきます。
         
         上記で述べてきた文法や語法(形式的側面)に加え、ある楽器の音色、音型、旋律に込められた意味(象徴)も読み取る必要があります。ホルンは牧人の角笛、トロンボーンは最後の審判で、ラッパは天使の呼びかで…など。これらはほんの1例で、曲(文脈)に応じて読み取っていく必要があります。
         
         こうしてみてくると、音楽に国境はないのだ、とは簡単にはいえないことがわかります。サウンドを聴くだけなら国境はないのかもしれませんが、深く理解するためには学ぶ必要があり、その意味においては国境があるのです。しかし、このように音楽を言語として捉える考え方に異論もあるでしょう。音そのものをただ楽しめばいいじゃないかという意見は少なくないはずです。
         
         確かに、ケージ以降(20世紀半ば以降)の音楽解釈の考え方として、世界に存在するあらゆる音(楽音以外の自然の音、雑音、人工音も含めた広義の音)を大切に扱い受け入れようという考えが台頭してきたのは事実です。でも現在の世界で、「楽しめばいいんだよ」という人々が、ケージの思想を理解した上で発言しているわけではないのもまた事実でしょう。自文化の音楽に国境はないと安易に考えることはナショナリズムと無縁ではないし、ただ楽しめばいいという快楽主義は商業主義(資本主義)と結びつきやすい。それに音楽という名の他者からのメッセージを楽しめばいいだけと言って聴き流すのは、狭い世界に自己完結する危険性を持っています。なによりも音楽はコミュニケーション(対人間でも、対自然でも)の拠り所であってほしい、著者はそう願っているのではないでしょうか。

        4、「音楽はポータブルか? 複文化の中で音楽を聴く」
         音楽の「意味」は、音楽が生まれた地域の文化や歴史と無縁ではありません。そして、時代が過ぎれば過ぎるほど、音楽に生きた意味を与えてくれるような歴史的背景や文化規範は学ばずしては捉えられなくなっていきます。
         
         例えば200年前につくられた音楽は、200年間にわたる受容史の伝統があります。それに音楽は様々な地域に伝播していきますから、それぞれの地域である音楽が受容された(されてきた)歴史についても考えなければなりません。そうしたことを踏まえた上で、「ああ、この音楽はいままでの歴史を考えると○○のように位置づけるのが普通かもしれないね。あ、でも今回の演奏はちょっと変わってるね。いままでの歴史を踏まえつつも、○○の部分において革新を図ろうとしたのかも。現代の世界の状況を考えると、△△という点における変化もいいと思うなぁ」という「語り」をしないといけないのです。
         
         現代の音楽はあらゆる音楽が複数の歴史的、文化的文脈に属しています。聴く個人も複数の文化的背景を持っています。そういう混迷した時代だからこそ、自分はどんな文脈からどういう文脈に属している音楽を聴こうとしているのかについて意識的になる必要があります。歴史や文化は入り込みづらいもので、すぐには理解できないものばかりでしょう。でも、未知なる世界(音楽)を徐々に理解したいという姿勢こそが、音楽を聴くうえで欠けてはならないものなのではないか、著者はそう主張しています。こうした未知なる世界を想像する姿勢は、安易な快楽主義とは一線を画すものに違いありません。

        5、「アマチュアの権利 してみなければ分からない」
         音楽は社会につくられている側面があると同時に、社会をつくるのに寄与(加担)してきた側面もあります。極端なカタチでは、ナチス・ドイツにおける音楽の「活用」です。偉大なるドイツを喧伝するためにドイツの過去の音楽家たちの曲が利用されたり、国威発揚に音楽が用いられたり、愛国心の表明として音楽が使われたりしました。
         
         上記とは対極的な立場にある音楽の例として、アイスラーという作曲家がいます。ユダヤ系である彼はナチス・ドイツに故国を追われた後、アメリカに亡命します。亡命した後、彼は非常に内省的な音楽を作曲する……、故国との唯一の生命線を維持するかのように。
         
         以上に挙げた例は極端な例かもしれません。辛い過去を常に思い浮かべて音楽を聴く必要は必ずしもない。でも、いまここで聴く音楽は、言葉の真の意味において繰り返されることはない。あのときあそこの音楽は、もう2度と聴くことができなくなるのです。聴く人・語る人・演奏する人が分離してきた近代以降においては、受動的な「聴く」が一般的でした。ですが、音楽とはある時点で誰かが発したメッセージだというリスペクトを忘れてはならないし、そうであればこそ、音楽に対して誠実あろうとしなければならないでしょう。
         
         さて、では音楽をより身近に感じ、音楽による共同体を可能にするにはどうしたらいいのでしょうか。著者はアマチュアの復権を提案しています。実際にやってみてわかることもある。思えば、身体の躍動を伴うダンス、一体感をもたらすライブに人々が熱中するのは、音楽への参加を直接的、間接的に促しているからなのでしょう。もちろん、「しないやつにはわからない」とは決して著者は主張していません。してみてわかることもあるし、してみなくても語れることはある。多様な立場の人々がいて、様々な位相からの意見が共存しているのが望ましいとしています。
         
         とはいっても、聴く・語る・演奏するを統合する(アマチュアの復権)ことが、ますます忙しくなりワーク・ライフ・バランスが崩壊する現代社会で可能なのでしょうか。著者は明確な案を提示してはいません。趣味に没頭し、他者と語り合える自由を確保できる社会の構築が求められるのではないかという展望を述べて、著者は本文を締めくくっています。

         本文の内容は以上のようになります。「あとがき」では、著者自身が本書の内容の要点を箇条書きでまとめてくれていますから、そちらをパラ読みするだけでも「読んだ気」になれちゃうかもしれません。でも、本筋だけではない脇道の議論のなかにもキラリと光る言葉を述べていますから、ぜひ通読してみてください。また詳細な文献リストもありますから、学修を深めていくことも可能になっています。

         「おわりに」に書かれている「裏話」も興味深いです。本書は主に西洋芸術音楽(いわゆる「クラシック音楽」、18世紀末から20世紀初頭にかけて展開した西洋音楽)を対象にしています。最近はあらゆる地域の、様々なジャンルの音楽を軽やかに万遍なく論じるのが流行りなのですが、あえて対象を限定しているのです。なぜなら、近代西洋で展開した音楽の文法、技法、制度から、現代の音楽はいまだに自由ではないからです。例えば、なにかとあれば「感動」を求める姿勢は19世紀ロマン主義の残滓ですし、五線譜と「おたまじゃくし」みたいな音符は西洋起源で、演奏会や音楽の分業も西洋に端を発しています。文化相対主義は前提としつつも、いまだに近代西洋音楽からの影響が強いことも忘れてはならないと著者は述べています。

         本書は、音楽に馴染みのない人にはとっつきにくい内容かもしれません。でも、音楽を文学や美術、スポーツなどの自分の趣味に置き換えるとわかりやすいのではないでしょうか。本書は音楽題材としながらも、普遍的に「趣味」について考察することを可能にしてくれます。自分の生活の仕方が変わるかもしれない…、そんな一冊です。

         文学、広く言って読書ということで考えると、この読書ログというサイトは本書の主張(音楽について学び知ってみよう、そして語ろう、他者とコミュニケーションしてみよう)を響きあうところをもっている気がします。本について語り、語った内容を他者と共有する。「この本はこういう内容だったよ。これって〇〇のように考えられるよね。△△はちょっとわかりづらかったけれど、□□とかんがえるとおかしくないと思うなぁ」みたいに。もちろん、語る際には、様々な文脈(文学理論、作家の意図や来歴、歴史的文化的背景、現代社会に存在する個人としての考えや感想などなど)を意識する必要もあるでしょう。でも、音楽との差異は少ないように感じます。(文字と音という違いはあります。目にみえず身体に働きかけるだけの音のほうが言語化は難しいかもしれない)。

         音楽ログや美術ログはまだないけれども、読書ログを通じて本書の内容を本の立場から実践することはできそうです。みなさんとの語りの共有を通じて、世界が広がっていきますように。
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        2015/03/21 by ゆうぁ

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      意味がなければスイングはない

      村上春樹

      5.0
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      • 音楽を語った本では最高の部類。

        CDとかの感想ではなく、作曲家とか演奏家の人となりを紹介しているのだが、
        その人の奏でる音楽はそのひとそのもの、読めば読むほど無性に音楽を聴きたくなる。

        興味があったのは、既にその人の音楽に接している
        シューベルト、プーランクと、スタン・ゲッツ、ゼルキンとルービンシュタインかな。

        本のタイトルの「意味がなければスウィングはない」は村上春樹さんがあとがきで
        語っているがデューク・エリントンの「スウィングがなければ意味がない」のもじり。
        優れた本物の音楽を本物の音楽として成り立たせている「何か」something elseを
        追い詰めてみたいと、逆はまた真なりですか、芸術、は最終的にはひととなり。

        そういう意味では、人を語れば語るほど、その人の作品、音楽が鳴り響きますな。

        今、デスクの横には引っ張り出してきたCDの山ができております。
        >> 続きを読む

        2014/01/19 by ごまめ

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      モノ書きピアニストはお尻が痛い

      青柳いづみこ

      4.0
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      • なんとも、濃縮100%のエッセイ。

        現役ピアニストでありながら、エスプリ満載のエッセイスト、青柳いづみこさんの本。
        音楽家と文筆家の二足の草鞋というより、ご自分の分野である音楽に対しては、
        小気味いい、いたって辛口のコメントが続く。

        でも、ドビュッシ―からはじまり、近代へと繋がるとどうしようかと思っていると、
        モーツァアルト、シューベルト、ブラームスそして大好きなシューマン、ロマン派へと
        ・・つながる。

        モーツァアルトのピアノ曲は、子供のころが一番上手で、そのあと一時的に下手になり、
        また年齢を重ねるごとにだんだん上手になっていく、そんな性質を持っていると・・・。

        ニュートラルなシューベルトの作品では、作曲家自身の個性や自己主張を超えて、
        メロディや和声進行そのものの美しさが、直接私たちに語りかけてくる。
        そのめまぐるしい転調には、たしかに、夢遊病者のような、
        超感覚的なところろがある・・・・と。

        ラヴェルとドビュシーの作風を決定づけているのは
        もしかしたら彼らの体型かもしれない。と思うことがある・・と。
        やねぎすで鋭角的な線に囲まれ、いかにも体が固そうなラヴぇルと、
        ずんぐりむっくりでどこもかしこも円く、歩くと猫のように音がしなかったという
        ドビュッシー。

        シューマンは、あるとき演奏旅行に出かけたピアノの名手である妻クララへの
        手紙の中で、いささか自嘲気味に告白している。
        「君がぼくの曲を弾かないのは正しかった。・・・・・・・
        ・・・・それらの曲は大衆向きではないからね」
        それは、舞台芸術家と創作家との解決されない軋轢でもあった・・と。

        青柳さんの、ピアニスト的作曲家論は、曲への解釈とあいまって凄い・・・・。



        そして、フランスの文化は絶妙のバランス感覚にある、「繊細さの選択」は、こだわりの辛口。
        このバランス感覚こそが、フランスエスプリの正体のような気がすると・・・。

        ピアニスト論では、アリゲリッチ、ラローチャ、ポリーニにミケランジェリ、
        グルダ、ムストネンに最後にはグールドが登場。

        ピアニストが語る、ピアニストの演奏論、どんな評論よりも説得力がある。
        それも、私が慣れ親しんだ時代のピアニストばかりなので、CDを引っぱりだして聴く・
        ・・・・・久しぶりの音楽に浸りながら、なぜか部屋のかたづけがはじまる・・・・。

        分ければ3~4冊分の本になるような、ぎっしりと詰まった濃縮なる内容。


        しばらくは、青柳いづみこさんの本にはまる予感がしますな・・・・。
        >> 続きを読む

        2013/05/19 by ごまめ

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      クラッシック音楽意外史 知っている嘘,知らない真実

      石井宏

      4.0
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      • この本は、誰でも抱いているクラシック音楽の有り様について、現在の目で見ることの誤りを正すように書かれたものです。著者の石井宏さんは1930年生まれで東京大学美学科および仏文科を卒業し、音楽評論で鳴らした人のようです。アマチュア・オーケストラ「ユマニテ」を主宰し、本人もクラリネット奏者であるそうです。著書・訳書に「素顔のモーツァルト」(中公文庫)など多数。この本は1990年初版・東京書籍から出版されています。

         初めにど肝を抜かれる(どぎもをぬかれる)のは、ちょうどモーツァルトが端境期(はざかいき)であるようですが、18世紀の音楽界では、イタリアの権威が極めて大きく、そこで誕生したオペラとかアリアとかの声楽曲が第一義的に重要な音楽で、器楽曲はその陰の地位でしかなかったことです。例えばヘンデルなどは、イタリア留学をしたことをチャーム・ポイントにして、イギリスで「就職」するのです。

         だから、音楽で食って行きたいと思えば、声楽曲で名を成せばいいということになります。実際、イタリアのロッシーニは、たんまりオペラで稼ぎ、37歳で引退してしまい、悠々自適の生活を送ります。なにしろ、ステーキの焼き方に彼の考案したメニューが残っているくらいです。トゥールヌド・ロッシーニというそうです。

         さて、先ほど、モーツァルトの例を引きましたが、この本では彼についての記述がここに取り上げられた作曲家たちと比べ、圧倒的に多く、モーツァルトが7割、ベートーベンが2割、ショパンが1割といった感じで、シューベルトについても少々取り上げられていますが、ちょっと少ないのが残念ですね。

         そして、石井さんが取り上げるモーツァルトですが、これは、小林秀雄のエッセイ「モオツアルト」ばかりが正しいモーツァルト像ではないことが多々挙げられています。たとえば彼の自筆楽譜は修正のあとひとつなかった、というのはウソで、幾らかはあったというあたり。

         モーツァルトは、早熟の天才で「神童」ともよばれたのは周知の事実で、その点はその通りなのですが、彼でさえ、同時代の作曲家と同様な制約のもとで悪戦苦闘するのですね。当時の音楽家は、掃除夫、調理人とならんで、有力者の下僕でしかなかったのです。

        この点、子供のころ、パリに演奏旅行して喝采を受けたモーツァルト、そのときの熱狂が10歳まえの子供が演奏するということにのみ与えられたものだったということがわからなかったようで、ザルツブルグの大司教(実際には領主)と衝突してウィーンに出てきて、「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」などのオペラ曲を作曲します。そして、彼の音楽は、声楽的なのだそうです。(実際に歌いやすい。ベートーヴェンの場合は歌いにくいそうで・・・)

         また、「シンフォニー」を72曲書きます。・・・「え、モーツァルトのシンフォニーは41曲までではなかったか?」と考えたひと、もっともです。ただ、彼の時代には、現在の画然とした「シンフォニー:交響曲」の概念はなく、ソナタとか協奏曲もシンフォニーにと、ごっちゃに分類されていたということです。

         モーツァルトは、宮廷付音楽家にも僧院付音楽家にもなかなかなれず、諸国を渡り歩きピアノの演奏で日銭を稼ぐ、ということもやっています。18世紀当時の音楽家の地位の低さを物語るお話です。天才としての自己規定が彼を支えていたのではないか、と思います。

        最後に:モーツァルトには、現代音楽としか思えないような曲があるそうです。これこそ、天才の証し?
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        2013/05/28 by iirei

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      世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ エル・システマの奇跡

      TunstallTricia , 原賀真紀子

      5.0
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      • 読みながらyoutubeでさっそく観た・聴いた。
        アンコールの演奏の様子。
        それが、すべてを物語っている。
        百聞は一見にしかずのとおり。

        そのバックボーンにあるものが、事細かに書かれいて、興味が尽きない。
        音楽を通して、社会形成につなげる、大胆かつ繊細で熱い思いに溢れた取組。
        そこには、人の可能性を信ずるという揺るぎない思いがあるのだとう。
        楽しさを実感すると、人は変わり成長するきっかけになる。
        これまでの常識が非常識であったということを証明している。
        >> 続きを読む

        2015/09/08 by けんとまん

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      100曲CD付きもう一度学びたいクラシック

      西村理

      3.0
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      • この本は、クラシックを作曲家を中心に紹介する類書と異なり、歴史的に学べるようになっている。 >> 続きを読む

        2012/11/25 by togusa

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