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カテゴリー"小説、物語"の書籍一覧

      はつ恋

      イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ , 神西清

      3.9
      いいね! Minnie
      • Kindleで読んだ
        秋は読書がすすむ

        はつ恋、まさにこんな感じ

        気になる気になる気になる
        苦しい苦しい
        そんな感情でいっぱいになるはつ恋

        はつ恋に安定はなくて
        常に不安定

        それが辛い思春期

        そんな懐かしい気持ちを思い出させてくれた本

        とても良かった
        >> 続きを読む

        2016/10/10 by snoopo

    • 他7人がレビュー登録、 23人が本棚登録しています
      ペンギンの憂鬱

      KurkovAndrei , 沼野恭子

      4.0
      いいね! Tsukiusagi asa_chann
      • ペンギンと女の子の絵本チックななんとも可愛らしいイラストに惹かれて購入しました。
        読み始めると、寒い北国の灰色の空のような日常と、表紙の可愛らしさからは想像していなかった血なまぐさい事件に、憂鬱な気分になりました。
        が、しかし、終盤から一気に引き込まれ、最後の一行でなんだか爽快になり、愉快な気持ちにさえなります。
        あとがきに、作者は村上春樹が好きだと書いてありましたが、
        うんうんと納得してしまいました。
        なんだろう・・。続きが読みたい。

        >> 続きを読む

        2020/09/25 by はるかぜ

    • 他6人がレビュー登録、 12人が本棚登録しています
      地下室の手記

      ドストエフスキー

      3.8
      いいね!
      • 「地下室の手記」を読むのはこれで6回目。
        そのうち3回が江川卓訳で、やはりこの人の訳がもっとも良い。
        日本語がしっかりしていて、しかもドストエフスキーの原文を(たぶん)精確に反映している。

        この人の文章は、とてもしっくりくるのだが、若い頃から読んでいて、私自身の文章もこの人の翻訳文に影響を受けているような気がする。

        前に、「ここに描かれたのは、写真でいえばネガの姿で、ネガをネガとして浮かび上がらせるためにはポジの世界が必要ではないだろうか。その視点があるからこそ、ドストエフスキーはここまで精確にネガの世界を描き出すことができたのではないだろうか。」と書いたけれども、今度読んでも、やはりそう思う。

        「ドストエフスキーは、自分の主人公の状態を人間全体として考えて正しいものとはみなしていない。彼は主人公を苦しめ、軽蔑している。」(p257 解説)というシクロフスキーの評はその通りだ。そしてドストエフスキーがここまでリアルに現代の人間を描き出せたのは、かれ自身は「地下室」ではなく、その外にいるからだ。だからこそ「地下室」の世界を徹底的に描き出すことができた。

        「というのも、ぼくらはすべて、多少とも生活からかけ離れ、跛行状態でいるからだ。そのかけ離れ方があまりにはなはだしいので、ときには真の《生きた生活》に対してある種の嫌悪を感ずるまでになっている。そこで、その《生きた生活》のことを思い出させられるのが耐えられないほどにもなっているのである。とにかくぼくらは、真の《生きた生活》を、ほとんど労役かお勤めとみなすまでになっていて、それぞれ腹のなかでは、書物式の方がよほどましだとさえ思っているのだ」(p244-245)

        かれの居る場所からは「真の《生きた生活》」が見える。
        ただし、「真の《生きた生活》」は、ここでは、まだ、ネガの裏返しでしか、あらわされていない。
        たいていの小説は、それを裏返しでしか表現できないものだ。
        ドストエフスキーのこれから以降のテーマは、その姿をいかにしてポジティブに、肯定を肯定として現そうとする努力ではなかったか。
        >> 続きを読む

        2017/09/09 by Raven

    • 他3人がレビュー登録、 16人が本棚登録しています
      白痴

      ドストエフスキー

      4.0
      いいね! tomato
      • 【登場人物たちの心理がよく分かんないなぁ……】
         上巻のレビューで書いたとおり、ムイシュキン公爵はナスターシャに求婚するのですが、ナスターシャは過去囲い者になっていた自分を卑下し、自分と結婚すればムイシュキン公爵は不幸になると考え、ロゴージンを選んで二人で去って行くのでした。

         その後、ムイシュキン公爵は、エパンチン家の三女で美貌のアグラーヤに恋をし、アグラーヤもムイシュキン公爵を愛するようになります。
         ところが、このアグラーヤの行動が理解に苦しむのです。
         いいようにムイシュキン公爵をいたぶり、また、辛辣な言葉をぶつけるなど、こりゃツンデレか?

         そして、ロゴージンを選んで身を引いたナスターシャの行動も不可解極まります。
         ロゴージンと何度も結婚式を挙げる約束をしながら、その度に逃げ出し、一時はムイシュキン公爵のもとに身を寄せて一向にロゴージンと結婚式を挙げようとしません。
         ムイシュキン公爵も、ナスターシャは気が触れているとまで言うのです。

         しかもあろうことか、ナスターシャは、アグラーヤに手紙を書き、是非ムイシュキン公爵と結ばれなさいと言い出す始末。
         自分が身を引くのは勝手ですが、アグラーヤにそんなことを勧めるのは余計なお世話というものです。
         密かに愛しているムイシュキン公爵に幸せになってもらいたい一心と言うことなのでしょうけれど、だったらとっととロゴージンと結婚してしまえば良いし、少なくともロゴージンから逃げ出してムイシュキン公爵のもとに転がり込むようなことをするなと言いたい。

         アグラーヤは、そんなナスターシャに怒りを覚え、これはナスターシャが不当に二人の間に割って入って二人の仲を壊そうとしていると邪推します。
         そしてあろうことか、現在は遠くに住んでいるナスターシャを呼び出した上、ムイシュキン公爵を伴ってナスターシャの所に乗り込んで行くのですね。
         気持ちは分からなくはないけれど、行くなら一人で行けと言いたい。

         で、ここで愁嘆場ですよ。
         アグラーヤに罵られたナスターシャは、それならというわけで、同席していたムイシュキン公爵に対して、「私とアグラーヤのどちらを選ぶの!」と迫り、ロゴージンに対して出て行けと怒鳴りつけます。
         何で~?
        ようやく自分の本心に素直になったということなのでしょうか?

         ムイシュキン公爵もへたれです。
         ナスターシャの言葉を聞いてその場を飛び出してしまったアグラーヤを追えば良いものを、そうせずに失神してしまったナスターシャに寄り添い、一晩中ずっと髪をなでてやるなどし、結局アグラーヤを捨ててナスターシャと結婚することにしてしまうのです。
         
         そしてさらに不可解なのは、ロゴージンを袖にしてムイシュキン公爵と結婚する約束を交わし、結婚式の準備を進めていたナスターシャです。
         何と式の当日、群集の中にロゴージンの姿を認めるや、式から逃げ出してロゴージンの胸に飛び込み、「私を連れて逃げて!」と言うではありませんか。
         何なんだ、この女は?

         ムイシュキン公爵は、もはやアグラーヤから会ってももらえなくなり(当たり前ですね)、ナスターシャを探してあちこちを駆け回ります。
         ようやくロゴージンの家でナスターシャを見つけた時には手遅れです。
         何と、ロゴージンはナスターシャを殺してしまっていたのですね。

         ざっと書くとこういう展開になる物語なんですが、いや、本当に理解しがたい。
         何故こんなことになるんですかね?
         最も不可解なのはナスターシャですが、ムイシュキン公爵だってどうかしていますよ。
         ナスターシャが何を言おうとアグラーヤを選んで当然でしょうに。
         確かに逃げ出したアグラーヤを追おうとした時、ナスターシャが失神してしまったのでその世話をして出遅れたという事情はあるにせよ、何も一晩付き添わなくても。

         アグラーヤも短気過ぎます。
         確かにムイシュキン公爵が心変わりしたかのような曖昧な言葉を言ったのは事実にせよ、それだけで見限ってしまうとは。
         ロゴージンもロゴージンですよね。
         ふられたならさっさと引き下がれ!
         あろうことか、未練がましく結婚式の際に姿を見せ、ナスターシャを連れて逃げたのに殺してしまうとは……。

         ドストエフスキーは、この作品において、究極の善人を描きたかったと言い、それがムイシュキン公爵であるということのようなんですが、確かに人の良い人物ではあるでしょうけれど、あまりこれが究極の善人なのだとは感じられなかったのです。

         さらに、本筋はご紹介した通りなのですが、そこから外れた記述があまりにも冗漫だと感じました。
         例えば、イヴォルギン将軍という、アル中の虚言癖のある老人が出てくるのですが、彼の嘘が延々と描かれるのですけれど、これは本筋とどう関係があるというのでしょう?
         はたまた、このイヴォルギン将軍の情婦の息子のイポリートという結核病みの青年が登場しますが、彼が書いた自殺をほのめかす手記が延々と朗読されるなど、これも全体としてどういう狙いがあってのことかよく理解できませんでした。

         その他にも、本筋とどう関係があるのか、どういう効果を狙って書き込んだのかという部分が山ほど沢山出てきて、正直読んでいて退屈な部分が多数あったように感じます。
         ロシア的な物に対するドストエフスキーの批判とも受け取れるのですが、それをここで延々と書いてどうするんだと言うのが私の感想です。

         当時の作劇上、あるいはドストエフスキーの作風からすればそういうものなのだということになるのかもしれませんが、読んでいてかったるいのも事実ではないでしょうか?
         確かに他の作品でも、ドストエフスキーにはそういう傾向があるようにも思われるのですが、少なくとも『カラマーゾフ』などではそのような枝葉の部分がそれなりに感動的だったりして効果を生んでいたように思われるのですが、『白痴』に関して言えばそういう内容にもなっていなかったように思われました。
         だから余計に読みにくい作品になっているようにも思われます。
         もっとストレートに本筋を追い、主要な人物の、私には理解しがたいと思われた心情を書き込み、読者の納得が得られるように説いた方が効果的だったのではと思わずにはいられません。

         この作品を推す方も多かったようなのですが、残念ながら私的にはあまり納得しない作品だったように思えます。
        >> 続きを読む

        2019/10/01 by ef177

    • 他2人がレビュー登録、 7人が本棚登録しています
      カラマーゾフの兄弟

      フョードル・ドストエフスキー , 原卓也

      4.6
      いいね! tomato Tukiwami
      • 市原隼人がでているドラマでカラマーゾフにハマり、本も読んでみよう!と思って読んでみた。

        ドラマの前知識があるおかげか、結構スラスラと読めた。
        上巻ではキリストがどうとか神がどうとかそのようなことが語られていて、私や日本人である人はあまりピンと来ないと思う。

        ちょっと哲学的な感じだった。

        上巻なのでまだストーリーは全然進んでいないが、今夜から中巻を読むので楽しみだ。

        内容はたぶん理解出来ていないがとりあえず、ストーリーを楽しもうと思う。

        光文社現代語訳の亀山さん訳のが読みやすいと評判だが、カラマーゾフの空気感が軽いといったレビューを見たため、新潮文庫の原さん訳で挑戦!

        やはり読みやすい=どうしても空気感が軽くなるんだと思う。
        読みにくくても、カラマーゾフの雰囲気を味わいたいのでこのまま読み進めていこうと思う。
        >> 続きを読む

        2015/06/19 by snoopo

      • コメント 4件
    • 他2人がレビュー登録、 32人が本棚登録しています
      罪と罰

      フョードル・ドストエフスキー , 工藤精一郎

      4.6
      いいね! tomato charo
      • 【『「罪と罰」を読まない』に触発されて再読してみましたよ~。これはさすがに古いか……。】

         先日、「『罪と罰』を読まない」をレビューしましたが、そこでも書いた通り、私自身、高校生の頃『罪と罰』は読んでいるのですが、その内容をかなり忘れてしまっていました。
         こりゃあ、もう一度読まなきゃね、ということで再読してみましたよ。

         ストーリーは、多くの方がもうご存知で、今さらネタばれもないでしょうからそのまま書かせていただきます。
         ラスコーリニコフは大学の法科に通っていたのですが、実家も貧しく十分な仕送りもない上に、家庭教師の職も勝手に辞めてしまい、当然大学にも通えなくなり、屋根裏部屋の下宿でただただ悶々として暮らしていました。

         少しは働くなり何なりすれば良いものを、一向に働こうともしないため、金もなく、ろくに飲食もできず、下宿代も溜めまくっている体たらくです。
         その頭の中には、一つの計画とも言えない計画が渦巻いていました。
         それは、自分が質入れをしたことがある金貸しの老婆を殺して金を奪おうというものでした。

         ある時、酒場で聞くとはなしにこんな議論を聞いてしまったのです。
         唸るほどの金を持っていながら、社会の害悪でしかない人間がいる。
         一方で優れた才能を持ち、もしその才能を発揮することができれば人間社会にとって素晴らしい成果をもたらすであろうに、貧困のためにそれができないでいる者もいる。
         そんな時、優れた才能を持つ者が社会の害悪でしかない金持ちを殺してその金を奪ったとして、その金により志を果たすことができるのであればその方が人間社会にとって数倍も良いことなのだ、と。

         ラスコーリニコフは独善です。
         そして傲慢でもあるのでしょう。
         金貸しの老婆を殺して金を奪うという自分の計画を正当化してくれるであろう議論に力を得て遂に実行してしまうのです。

         確かに、金貸しの老婆は強欲だったでしょう。
         また、腹違いの素直な妹を酷使し、打擲し、良いように下働きとして使役もしていたのです。
         しかも病気持ちでもう長いことはないでしょう。
         にも関わらず、自分が死んでもこれだけ尽くしてくれた腹違いの妹には遺産を一銭も残さず、自分の供養をしてもらいたいがために全額修道院に寄付してしまおうと言うのです。

         ラスコーリニコフは、老婆の頭を用意してきた斧で叩き割り、血まみれになった老婆の死体から財布を奪い取ります。
         更に鍵を奪うと、次の間にある抽斗を開けようとし始めます。
         そこに、腹違いの妹が帰ってきました。
         ラスコーリニコフは、有無を言わせず腹違いの妹も撲殺してしまうのでした。

         そこへさらに来客がやってきます。
         急いで扉に栓(閂のようなもの?)を差し込み、息を殺して外の様子を窺います。
        どうやら、異変が起きたことに気付いた来客は、庭番を呼びに行くことにしたようです。
         ラスコーリニコフは、一瞬の隙をついてかろうじて脱出することに成功しました。

         老婆から奪ったのは、財布に入っていたいくらかの金と質草のいくつかの品物だけでした。
         本当は、抽斗の中には多額の金が入っていたというのに。
         こんな物のためだけに俺は老婆を、妹を殺したのか……。
         証拠隠滅のため、一度は盗んできた物を捨ててしまおうかとも思いましたが、いざ捨てるとなると人の目もありなかなか上手く行きません。
         ラスコーリニコフは、奪ってきた金品の扱いに困り、結局、手をつけないままある場所の石の下に埋めてしまいました。
         そして何喰わぬ顔をして下宿に戻るのですが、事件を起こしてしまった衝撃からか体調を崩していきます。

         そんな時、ふらふらと外出したラスコーリニコフは、以前酒場で知り合った元下級官吏のマルメラーゾフが酒に酔って馬車に轢かれた現場に出くわします。
         マルメラーゾフは、娘のソーニャを売春婦として働かせて家計を支えさせ、その稼ぎすら一人で飲み潰していたのです。
         しかし、マルメラーゾフは、内心ではそれを悔いに悔いていたのですが、自分ではどうにもできずに遂に轢死してしまうのですね。
         マルメラーゾフを助け出してその家に運び込んだ際、赤貧洗うがごとしの家の様子を見てしまったラスコーリニコフは、母が苦労して工面して送金してきた金を寡婦に葬儀代として全部くれてやってしまうのでした。
         
         ちょうどその頃、ラスコーリニコフの妹のドゥーニャに結婚話が持ち上がり、婚約者に会うために母と妹がラスコーリニコフが住むペテルブルクにやって来ました。
         ラスコーリニコフとしては、妹が家計を助けるために吝嗇家の弁護士である婚約者に嫁ぐつもりであり、自分を犠牲にしているのだと思えてならず、妹の結婚に猛反対します。
         ドゥーニャは、自分は犠牲になどなるわけではないと言うのですが……。

         そんな中で、ラスコーリニコフが殺人犯ではないかという疑いを持つ者がいました。
         それは予審判事のポルフィーリィでした。
         彼は、ラスコーリニコフの唯一の親友であるラズミーヒンの親戚筋に当たる切れ者でした。
         ポルフィーリィとて、ラスコーリニコフが犯人であるという確たる証拠を握っているわけではないのです。
         ただ、疑いを持ち、ラスコーリニコフに慇懃に語りかけて罠をしかけようとするのですが……。

         さて、上巻ではこんな辺りまでが語られますが、私が読んでいる本は高校生の頃買った新潮文庫で、米川正夫氏訳のものです。
         奥書を見ると、昭和26年発刊で、この本は第52刷となっていますが、特に改訂等の記載が無いので、基本的に昭和26年の訳のままなのかもしれません(実際、この版が出版された時点は米川氏がお亡くなりになった後なのですし)。
         そのせいか、さすがに古さを感じます。
         ラスコーリニコフをはじめとして、登場人物の口調が古すぎるのです。
         こんな言葉遣いはしないよねと思わざるを得ません。
         ラスコーリニコフは、設定では頭脳明晰で美貌の元大学生ということになっているのですが、その口調はどこか時代がかった農民の口調のようで、イメージと合いません。

         私が高校生の頃読んだ時には「こんなものか」とでも思ったのか、特に訳語等について何らかの感想を持ったという記憶は無いのですが、読み直してみると、さすがに今この訳を高校生に読めというのはいささか酷のように思われます。
         非常にとっつきにくいですし、読みづらいと思います。
         高校生では意味の分からない言葉も多いのではないでしょうか?(例えば「陋劣」なんていう言葉は使わないでしょ?)。

         今では、他に新訳等もあるのではないかと思うので、特に米川氏の翻訳に思い入れがあるという方以外は、もっと読みやすい本を選んだ方が良いと思います。
         特に、この作品は、ラスコーリニコフをはじめとして、登場人物の独白が大変多い作品ですから、その部分が読みづらいとかなり辛い読書になるかもしれません。

         また、ラスコーリニコフの思想自体、今読み返すとかなり幼稚で陳腐ものとしか思えず、それが延々と続くわけで、さすがにこれを真に受けて読むのは今は辛いと感じました。
         この時代の、こういう社会情勢の中で生まれた考えであるという注釈付きで、そういうものだとア・プリオリに了解した上で読まないと、「素」で読むのはなかなかにしんどいというのが上巻までを再読した印象です。

         取りあえず、下巻に読み進んでみましょう。
         全体を読んだ上で、改めてこの作品について考えてみたいと思います。



        * 私が読んだ本は新潮文庫の旧版、米川正夫訳のものです(旧版が出なかったので新版でレビューをさせていただきました)。
        >> 続きを読む

        2019/02/04 by ef177

    • 他2人がレビュー登録、 30人が本棚登録しています
      カラマーゾフの兄弟

      亀山郁夫 , フョードル・ドストエフスキー

      3.8
      いいね!
      • 匿名

        ただの物語ではなく、宗教の芯の部分まで考慮されている作品。それぞれの登場人物が自分の考えを深いところまで考えているため、内容理解が追いつかないところもある。ただ自分も深いところまで考えられる人となりたい。
        2巻目のイワンの書いた大審問官は有名
        >> 続きを読む

        2016/06/11 by 匿名

    • 他2人がレビュー登録、 14人が本棚登録しています
      罪と罰

      亀山郁夫 , フョードル・ドストエフスキー

      4.4
      いいね! Tukiwami
      • 本書は1865年夏、当時のロシアの首都サンクトペテルブルグが舞台となっています。
        農奴解放前夜1850年代末~60年代半ばにかけて首都ペテルブルグの犯罪率は高まり、一大犯罪都市のごとき観を呈していたらしい。
        巻末ではモデルとなった事件がいくつか紹介されています。

        主人公・ラスコーリニコフが罪を犯し、その後の精神状態が詳細に描かれています。
        熱に浮かされ、鬱屈とした日々。
        貧困にも関わらず、お金を大切にしないところも異常をきたしているからでしょうか。
        そして犯罪者心理としては、殺害現場に戻ってしまうのですね。
        彼の罪が表沙汰になってしまうと、母とこれから結婚する妹はどうなってしまうんだとハラハラしながら読んでいました。
        いまいち殺人の動機がよくわからず、ラスコーリニコフに感情移入することができません。
        『ひとつの命とひきかえに、何千もの命を救える』と作品紹介に書かれていますが、
        本当にこのような目的があっての殺人だったのか。それともただの妄想なのか。

        「白痴」とは違い、ドストエフスキーの思想が多く入り込んでいないので、ストーリーを追えばいい分読みやすく感じました。
        ラスコーリニコフが最終的にどのような選択をするのかが楽しみです。
        私は罪の意識に苛まれ、自首すると思っています。
        もちろんそれだけでは終わらないのでしょうけど。
        >> 続きを読む

        2017/09/20 by あすか

      • コメント 8件
    • 他2人がレビュー登録、 14人が本棚登録しています
      外套

      ニコライ・ゴーゴリ , 平井肇

      4.3
      いいね!
      • 明治から昭和初期の日本文学はドイツ文学派とロシア文学派に分かれるような気がします
        プーシキンやこのゴーゴリはドストエフスキーにも大きな影響力のある作家として有名です。当然日本の作家も彼らの作品の影響なしに存在しないと思われます。
        漱石も、芥川も足穂もロシア文学の影響を強く受けている作風であるように思います。

        ゴーゴリのこの2篇は短篇でとても読みやすい、必読作品の一つだと思います。
        有名すぎてストーリーを知っていて、そのために読んだことがなかった作品の代表格でもあります。
        このたび真面目に読んでみました。(`・ω・́)ゝ

        「外套」
        『その人生の伴侶とは、ふっくらと厚く綿を入れて、まだけっして着ずれのしていない丈夫な裏をつけた新調の外套にほかならなかった。』

        訳者は人間の存在価値とか、一寸の虫にも五分の魂的な一種暖かいニュアンスでこの小説を解釈していましたが、私はちょっと違う印象を受けました。
        「外套」はすなわち「権威・権力」を意味します。
        それまでずっと自己完結した楽しみの中に生きていて、他者の目線や価値観など全く気にも留めなかった末端官僚のアカーキイ・アカーキエヴィッチ(命名からして手抜き人生を象徴している)が、物欲・金銭欲と無縁な独自の生活目標を地道に守っていた彼が、新しい外套を新調することによってはじめて人生に高揚感が生まれ、執着を知ります。
        しかし一度生まれた執着は理不尽に奪われた外套に固執し、それまでの生き方を変貌させてしまうのでした。
        持たざる者の幸福と不幸の境目が描かれます。

        一方官僚の世界においては、有力者ともなれば善良な一人の男ではいられないのです。
        権力を持った人間は権力を常に意識し、沽券にかかわることをせぬようにとばかり気遣う日々を送らなければならなくなります。
        そして権力の座にある人間(持てる者)も、ひとたび外套を脱がされれば…

        笑い話として読むにはあまりに恐ろしい作品なのです。

        光文社の新訳のほうは、これを落語調に…?それはちょっとゴーゴリの作品とは別物なんじゃないでしょうか。
        だってゴーゴリはギャグのつもりでこの小説を書いたわけではありません。
        少なくとも日本文学に影響を与えた作品として味わうことは不可能になるでしょうね。

        また本作を芥川の「芋粥」との類似を指摘する書評が多いのですが、共通項は主人公がしがない下っ端役人で人から軽んじられている貧乏人という点だけにすぎません。
        芥川がインスパイアを受けたことは確実だと思いますが、全く別のベクトルの作品なので、比べると面白いとは思いますが、ディテールやテーマについて比較する意味はないと思います。


        「鼻」
        『おっ魂消たことに、鼻はなくて、その場所がまるですべすべののっぺらぼうになっているではないか!』 

        八等官のコワリョーフがある朝早く眼を覚ますと、顔から鼻がなくなっていました。
        『せめて鼻の代りに何かついているならまだしも、まるっきり何もないなんて……』
        噴き出しました。ゴーゴリさんのユーモアのセンス、好きです。
        その失われた鼻こそは床屋の食卓にのぼったパンの中から現れた鼻でした!
        そしてその鼻は一人歩きを始めます。

        『一台の馬車が玄関前にとまって、扉があいたと思うと、中から礼服をつけた紳士が身をかがめて跳び下りるなり、階段を駆けあがっていった。その紳士が他ならぬ自分自身の鼻であることに気がついた時のコワリョーフの怖れと驚きとはそもいかばかりであったろう! 』
        『哀れなコワリョーフは気も狂わんばかりであった。』
        そりゃーそうでしょう。このあたりがカフカの「変身」とは違うところですね。

        ところで、この「鼻」氏の正体は?
        妄想か幻か?はたまた何かの比喩なのか?と思うでしょう?
        でもことごとく否。と作者は読者の解釈の可能性を打ち砕きます。
        コワリョーフは事実として鼻を失い、鼻は鼻の姿のままで紳士としてふるまい会話もし、他者からも紳士として遇されていますが、
        その見た目は鼻の姿のままです。謎!

        ここまでぶっ飛んでいるともはや読者の想像を超えていてシュールですらありません。

        面白いでしょう?
        続きはご自身でお読みください。

        『誰が何と言おうとも、こうした出来事は世の中にあり得るのだ――稀にではあるが、あることはあり得るのである。』
        >> 続きを読む

        2017/09/27 by 月うさぎ

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      罪と罰

      江川卓 , フョードル・ドストエフスキー

      3.7
      いいね!
      • ようやく読み終わりました。
        文学の訳本全般における気になる点ですけれど、会話が不自然というのがあります。こればっかりは原文を読めない自分が悪いのですが。。。
        どうしても登場人物の会話が気になってしまいますね。

        それは置いておいても、ロシア美少女を想像しながら読むと捗ります。
        >> 続きを読む

        2016/05/10 by さったん

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      六号病棟

      松下裕 , アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

      5.0
      いいね!
      • 医師でもあった著者の残した、医療や病にまつわる七つの中短編のアンソロジー。はじめの四編が短編、残り三編が表題作ふたつを含む中編作品です。気鬱な内容の物語で集成されており、読んでいて気がふさぎました。なかでも三つの中編はその傾向が強いとともに、主要人物が俗人を嫌悪する知識人であるという共通点があります。以降は作品ごとの概要や所感などです。
        ----------
        『脱走者』
        母に連れられて外来診療の結果、ひとり病院に残ることになった幼いパーシカの一夜が描かれる。患者や看護人たちの姿が、子どもの目におどろおどろしく映る様子が伝わる。

        『チフス』
        帰郷の途の列車内で、病のために目につくもの全てを厭らしく感じるクリーモフ中尉。おばと可愛い妹の待つもとに帰宅してチフスと診断される。快癒した後のクリーモフの感情が列車内と対照的に描かれる。

        『アニュータ』
        前途有望な医学生クロチコーフと、同棲する身寄りのないアニュータとの関係性が中心となる。

        『敵』
        最愛の息子に先立たれた直後の都会医キリーロフに、妻の診察を依頼しにきた裕福な地主のアボーギン。キリーロフはアボーギンに不快感を抱きながらも往診に向かう。

        『黒衣の僧』
        コーヴリン博士は休養のため逗留していたペソーツキーの屋敷で伝説とされる黒衣の修道僧の蜃気楼を目にする。コーヴリンは屋敷の娘と結ばれるが。

        『六号病棟』
        朽ちかけた病棟に収容されるのは五人の精神病患者たち。医師ラーギンは唯一、貴族出の患者であるドミートリチとの知的な会話を楽しみ、病棟に足しげく通うようになる。病院のスタッフたちはそんなラーギンを不審な目で見る。中盤でラーギンがドミートリチに対して口にする台詞が象徴的に響く。本書で最も含蓄の深さを感じさせる作品。

        『退屈な話』
        高名な解剖学名誉教授である、老年のニコライ・ステパーヌイチは自身の寿命が近いことを予感している。厭世観に満ち満ちたニコライの、俗世への嫌悪と軽蔑の感情が延々と綴られる。妻、娘、部下、娘婿候補、学生と、近親者を含めて目につくものをことごとく疎ましく感じる彼にとって、近所に住むカーチャという若い娘との時間だけが慰めだった。
        >> 続きを読む

        2020/08/12 by ikawaArise

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      新訳チェーホフ短篇集

      アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ , 沼野充義

      3.5
      いいね!
      • 全13作品のチェーホフの短編集。
        どの作品も、何度読んでもおもしろい・うまいと思わずうなってしまう。
        そのなかでも私は「いたずら」が一番好きです。

        沼野充義さんの名訳もさることながら、作品ごとの解説も秀逸です。
        短編好きな人は是非!
        >> 続きを読む

        2017/05/06 by Reo-1971

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      白痴

      ドストエフスキー

      4.5
      いいね! tomato
      • 【白痴とは、イノセントということ】
         以前、『罪と罰』(含む『罪と罰を読まない』)をレビューした際に頂いたコメントで、ドストエフスキーなら『白痴』を推すという声が多数ありました。
         私、『白痴』は読んでいなかったのですね。
         それならいつか読まなければと思っていたのですが、この度手に取ってみました。

         『白痴』とされているのはムイシュキン公爵です。
         彼は、時折発作を起こすということで(どうもてんかんのようですね)、スイスの病院で療養生活をしていましたが、その医療費を出してくれていた人が亡くなったため、それ以上の治療を継続することができず、ロシアに戻って来たのでした。
         公爵ではあるのですが、実は無一文なんですね。

         彼は純真無垢なんです。
         子供たちが大好きで、人を疑うことをせず、誠実で隠し事をしませんでした。
         ですから、世事に長けた人たちからみると何ともお人好しで、どこか足りない男なんじゃないかと思われ、また、彼も自分がスイスの病院で治療を受けていたことを自分から話してしまうようなこともあり、『白痴(ばか)』呼ばわりされるのです。

         彼は、スイスから戻る車中でロゴージンなる無頼漢と知り合います。
         ロゴージンは莫大な遺産を相続したばかりだということであり、また、ナスターシャという美貌の女性にぞっこんであることを知ります。
         しかし、このナスターシャという女性には影がありました。
         実は、彼女は幼い頃からトーツキイという富豪貴族の囲われ物に強引にさせられていた過去があったのです。

         トーツキイの方もいつナスターシャに秘密を暴露されるかと恐れており、また、成人してがらっと雰囲気が変わり、美貌の女性になったナスターシャに驚いてもいたのです。
         トーツキイは、知人のエパンチン将軍の娘との結婚を狙っており、その邪魔になるナスターシャの口を何とか封じようと考え、全てをエパンチン将軍に打ち明けたのでした。
         将軍は、うまいこと娘をトーツキイに嫁がせれば莫大な金が手に入ると考え、トーツキイと共謀して、自分の所に出入りしているガーニャという男性秘書とナスターシャを結婚させてしまおうとします。
         そのためにもし結婚すればナスターシャの持参金として7万5.000リーブルもの大金を用立ててやろうと持ちかけるのです。
         こんな結婚話を用意してやればナスターシャもよもやトーツキイのことを悪く言うことはあるまいというわけですね。

         確かにナスターシャは美人でしたが、ガーニャの本心は彼女と結婚などしたくはありませんでした。
         しかし、その持参金に目が眩み、結婚話を進めたのです。
         ムイシュキン公爵は、哀れみからナスターシャに同情し、ガーニャとの結婚に反対し、自分が嫁にもらいますと申し出もするのでした。
         そこに乱入したのがロゴージンです。
         彼は10万リーブルもの大金を一夜にして用意し、それを持参してナスターシャを娶りにやって来たのです。

         ムイシュキン公爵の結婚の申し出は真摯なものだったかもしれませんが、無一文の白痴のもとに誰が嫁ぐというのでしょう。
         みんなそう言ってムイシュキン公爵をからかうのでしたが、実はナスターシャだけはその心の真実に深く感謝し、また愛情を抱いたのです。
         しかし、自分のような囲い物になった女と結婚すればそれはムイシュキン公爵のためにならないと考え、敢えてはすっぱな態度を取り、それまで結婚話を進めていたガーニャを袖にし、ロゴージンを選ぶと宣言するのでした。

         ですが、実はムイシュキン公爵は莫大な遺産を相続することになっていたのです。
         彼はこの修羅場で、遺産相続を証する手紙を公にし、自分は決して無一文ではないと言うのですが、ナスターシャはそれならなおさらのことムイシュキン公爵のもとへは嫁げないと考え、ロゴージンと共に立ち去ってしまうのでした。

         その後も、ムイシュキン公爵をめぐって様々な出来事が起き、人々は徐々に、彼は本当は白痴などではないと気付き始めるのです。
         ただただ純粋無垢な男性なのだと。

         というのが上巻あたりまでの粗筋になります。
         ナスターシャをめぐる騒ぎの他にも金絡みの事件が持ち上がり、かなり下世話な印象を受けました。
         また、特にエパンチン将軍の妻であるリザヴェータが代表的ですが、登場人物が激情的で、何であんなに激するのかと思わざるを得ません。
         さらに、カリカチュアなのだと思いますが、卑屈な者はとことん卑屈に描かれます。
         その辺りがどうも読んでいてやるせない気持ちにさせられてしまいます。

         さて、下巻でどういう展開になっていくのか。
         ムイシュキン公爵は、最後はナスターシャと結ばれてめでたく終わるのでしょうか?
         長い作品ですが、下巻を読んでみようと思います。
        >> 続きを読む

        2019/09/30 by ef177

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      イワン・イリイチの死

      望月哲男 , レフ・トルストイ

      4.0
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      • ●「イワン・イリイチの死」

        トルストイが死んだのは1910年。20世紀に入ってからである。

        シェイクスピアが活躍したのが1600年代で、日本でいえば江戸時代にあたる。にもかかわらず登場人物の言葉や行動が今のわれわれに強く訴えかけてくるのは驚くべきことで、ハムレットなどは、主人公が現代人であってもちっともおかしくない。それがシェイクスピアのすごさであり、普遍性なのだろう。

        ただシェイクスピアの戯曲の登場人物は、王様や王子や女王であることが多くて、これらの人々はわれわれの親類縁者にはあまりいない類の人々であるから普段どんな生活を送っていたかとなると、ほとんど知るところがない。別種の階級、別種の社会層に属する人間たちである。

        これがトルストイになると、登場人物はもうわれわれと同じ種類の人間である。本書に収められた2作品のうち、イワン・イリイチは官吏であり、クロイツェル・ソナタの主人公は貴族であるが、その生活感覚はわれわれと変わるところがない。シェイクスピアの作品そのものは現代的ではあるけれども、主人公たちはわれわれの毎日の生活から遠いところにいる神話の英雄やなにかのシンボルに思えるのに対し、トルストイの人物は、この社会で暮らしている一般の社会人となんら変わりがない。血肉を備えた生身の人間として、昇進の噂や世間づきあいに気を病み夫婦げんかに疲れた人間としてそこに描かれている。毎日われわれの隣で働いている人々とちっともかわらない人間として描かれている。

        「イワン・イリイチの死」は、ある高級官僚(裁判所の判事)の一生を描いた作品である。

        トルストイがこの作品を書いたのは58歳の時。すでに「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」を完成させ、文豪としての名声を確立した後、次第に宗教的傾向を深めつつあった時期の作品である。

        この作品は、そうした大作家が、悠々と自分の書きたいことを書きたいように書いたらこういうものができましたといった風の、自然でのびのびとした感じがする作品で、そこにはトルストイの作家としての自信や余裕がうかがえて、読んでいるこちらとしても大家の練達の話術に安心して身を任せておけば、知らず知らずにその先その先へとページをめくらざるをえなくなる、そういった興味深くて面白くてためになる物語である。あちこちにちょっとしたジョークがちりばめられていて、翻訳を通してなのでけらけら笑うというところまではいかないけれども、たぶんあちらの人が読んだらくすぐられる箇所が多いのではないかと思う。すくなくとも中盤までは。

        じつは内容は深刻なのである。
        官僚としてまっとうな一生を送ったはずの主人公が、死を前にして、自分の人生はなんであったのかという疑問にとらわれ、煩悶に煩悶を重ねたあげく、最後の瞬間にようやく救いを得、そして死ぬ、というのが粗筋である。

        彼の一生は、この社会に生きるわれわれとって、至極あたりまえの一生のように思える。あたりまえというよりむしろ模範的といえるかもしれない。彼にはなんのやましいところもないように思える。唯一欠点があるとすれば夫婦仲の悪いところであろうが、それでも彼はこういう心がけで臨んでいるわけであり、これはこれで立派な態度だと思う。

        結婚後わずか一年ばかりで、イワン・イリイチは次のことを理解した。つまり結婚生活は人生におけるある種の利便を提供してくれはするが、本質的には極めて複雑で困難な事業であって、そこで自らの義務を果たし、世に認められるような立派な生活を営むためには、ちょうど勤めに一定の姿勢が必要なのと同じように、結婚に対しても一定の姿勢を築きあげる必要があるのだ。(p42)

        問題は、彼が採った一定の姿勢というのが、ひたすら「自分一個の陣地である勤務の世界に逃げ込み、そこに快適さを見いだす」(p42)ことであったという点である。だが、これもそんなに責めるわけにはいかないだろう。そうでないような男性がこの世の中にそうたくさんいるとは思えないからだ。普通一般のサラリーマンが「仕事だから」といって家庭の義務から逃れようとするとき、そこで生起している心理現象の多くはトルストイのこの言葉によって説明できるのではないかと思うが、ただし私はそんなことを思ったためしがないので、正直いうとその点はよくわからない。あくまで推測で言っているだけである。

        それはともかく、病を得る前のイワン・イリイチに限らず、その妻、その娘たちの生活や感情を、トルストイは身も蓋もなく書いていて、作品の中で読むと、彼らがなんだか悪者のように思えるけれども、その行動は普段のわれわれがやっていることと変わりはない。

        たとえば寝たきりになったイワン・イリイチの部屋を、舞台を見に行くために着飾った妻と娘とその婚約者が訪れ、憤怒に駆られた主人公との間に気まずい沈黙がながれ、彼らが立ち去ったあと「嘘は連中とともに去った」(p117)と描かれているが、だからといって妻や娘やその婚約者が悪いわけではあるまい。寝たきりの病人と健康な人間とでは活動に違いがあるのは当然だし、態度が嘘くさいので嫌だと言われたって、では当人の目の前でその人間の死について率直に語り合えるかといったらそんなことできるわけはない。それが偽善に映るなんていうのは単なる病人のわがままである。

        あるいは冒頭に出てくるイワン・イリイチの葬式の場面。同僚のピョートル・イワーノビッチは、葬儀に参列しながら、その後のトランプ・ゲームのことを考えているわけだが、こういう態度は不謹慎だという人がひょっとしたらいるかもしれないけれども、会社の関係で葬式に出たことのある人ならだれでも経験しているとおり、なにも葬式だからといって厳粛な気持ちになるなんてことはなくて、考えている内容といったら、次の会議に間に合うかどうかだったり、仕事の締め切りだったり久々に顔を合わせた昔の同僚と葬儀が終わった後でどこかで一杯やろうかということだったりするので、われわれと彼とは五十歩百歩である。登場人物たちの言動が不遠慮で不作法でありえないことだと思えるとしたら、それはたぶん社会的経験が少ない少年少女の読者たちだろうが、世の中というのはそういうものなんです。いい年をした大人でそれはおかしいなんて言う人がいたら、単にカマトトぶっているか、世間知らずの馬鹿である。

        つまりここで出てくる人々の姿は、まさにわれわれ自身の姿なのである。
        世の中とはそんなものである。そうしてそれが悪いとも思えない。

        しかしトルストイは違う。
        トルストイが主人公に語らせているのは、そういう生活は、人生は、無意味であり、偽善であり、嘘っぱちだということである。

        死を目前にしたイワン・イリイチは、煩悶する。
        煩悶して、次第に真相に近づいていく。

        結婚……そして思いがけない幻滅、妻の口臭、肉欲、偽善! それからあの死んだような勤め、それからあの金の苦労――こうして一年がたち、二年がたち、十年がたち、二十年がたった。そしていつも同じことの繰り返しだった。時がたてばたつほど、ますます生気が失われていった。(p121-122)

        「ひょっとしたら、私は生き方を誤ったのだろうか?」不意にそんな考えが浮かんだ。
        「しかし何でもそつなくこなしてきたのに、いったいどうして誤ったのだろう?」(p122)

        「だがいまさらそんなことを認めるわけにはいかない」自分の人生が法にかなった、正しい、立派な人生であったことを思い起こしながら、彼はそうつぶやいた。「そんなことは決して認めるわけにはいかないぞ」彼は唇を笑いにゆがめた。(p127)

        ふと彼の頭に、もしも本当に自分の全生涯が、物心ついてからの生涯が「過ち」だったとしたら、という考えが浮かんだ。(p130)

        彼の仕事も、生活設計も、家族も、社会の利益や職務上の利益も――すべて偽物かもしれない。彼はそう思う自分に対して、それらすべてのことを弁護しようとしてみた。すると不意に、自分の弁護がいかにも根拠薄弱だと感じられてきた。そもそも弁護すべきものが何もないのだった。
        「もしもその通りだとしたら」彼は自問した。「私は自分に与えられたものをすべて台無しにしてしまって、もはや取り返しがつかない、ということを自覚しながらこの世を去ることになる。その時はいったいどうなるのだろうか?」彼は仰向けに寝たまま、まったく新しい目で自分の全人生を振り返りはじめた。(p130-131)

        そして、ついに、

        翌朝、彼は従僕と顔を合わせ、それから妻と、娘と、医者と顔を合わせたが、彼らの一つ一つの動作、一つ一つの言葉が、夜のうちに見出された恐るべき真実を彼に実証してくれるものだった。彼らのうちに彼は自分を見出し、自分が生きがいとしてきたものをすべて見出した。そしてそうしたものがことごとくまやかしであり、生と死を覆い隠す恐るべき巨大な欺瞞であることを、はっきりと見て取ったのだった。(p131)

        死ぬ前にこんな心理状態になったらたまったものではない。
        イワン・イリイチはこの発見によってさらに苦しむ。

        この意識は彼の身体の苦痛を何倍にも強めることになった。彼は呻き、のたうち、自分の着衣をむしりとろうとした。着衣に胸を締め付けられ、押しつぶされるような気がしたのである。そしてそのせいで、彼はさらに周囲の者たちを憎んだ。(p131)

        その後の悽愴な描写は、破滅を自覚した精神の叫びである。

        では、どうなるのか。
        主人公は破滅したまま死んでしまうのか。
        絶望のままで終わるのか。

        ここで不思議なことが起こる
        解決はむこうからやってきた。

        彼は暴れていた。そして一瞬ごとに、いかに全力で抗おうとも、自分がどんどん恐怖の源へと近づいていくのを感じていた。
         彼は感じていた――自分が苦しむ理由は、この真っ暗な穴に吸い込まれようとしているからだが、しかしもっと大きな理由は、自分がその穴にもぐり込みきれないからだと。穴にもぐりこむのを邪魔しているのは、自分の人生が善きものだったという自覚であった。まさにその自分の人生の正当化の意識がつっかえ棒となって彼の前進を阻み、なによりも彼を苦しめているのだった。(p135)

        そして、

        不意になにかの力が胸を突き、わき腹を突いて、さらに息苦しさがつのった。と、彼は穴の中を落下していった。そして前方の穴の果てに、なにかが光り出したのだ。汽車に乗っていると、前に向かって走っているつもりでいたところが実は後に向かっていて、突然本当の方向を自覚することがあるが、ちょうどそのようなことが彼の身に起こっていた。
        「そう、なにもかも間違っていた」彼は自分に語りかけた。「だがそれだってかまいはしない。」(p135)


        これはまさにイワン・イリイチが落下しながら光を見いだし、自分の人生は間違っていたが、まだ取り返しはつくという認識を得た瞬間のことであった。(p136)

        いったいなにが起こったのだろうか。

        死の代わりにひとつの光があった。
        「つまりこれだったのだ!」突然彼は声に出して言った。「なん歓ばしいことか!」
        彼にとってこのすべては一瞬の出来事だったが、この一瞬の意味はもはや変わることはなかった。(p138)

        そしてイワン・イリイチの死。

        やつれ果てた体はときどきびくっと錬磨していた。それからぜいぜいいう音もヒューヒューいう音も、徐々に間遠になっていった。
        「終わった!」誰かが彼の頭上で言った。
        彼はその言葉を聞き取り、胸の中で繰り返した。
        「死は終わった」彼は自分に言った。「もはや死はない」
        彼はひとつ息を吸い込み、吐く途中で止まったかと思うと、グッと身を伸ばしてそのまま死んだ。
        (p138)

        いったいここで作者は何を語っているのだろうか。
        われわれに何を呼びかけているのだろうか。

        答えは明らかだ。
        イワン・イリイチは最後に光を見出し、救いを得た。
        ここでそういう言葉は使われていないが、彼は「神」を見出した。そして自己の生があるがままで肯定されていることを、すなわちすでに救われていることを知った。それは自己の思い煩いによってそうであるのではなく、彼の思いに先立ってすでにそうだったのであり、すでにそこにあったのである。彼が自分で自分の人生を正当化している限り、前の方を向いていると思って実は反対方向を向いている限り得ることのできないものであった。彼が自分を完全に捨て去って(則天去私!)初めて発見できるなにかであった。そしてそこには死はなく、永遠の生があった。

        とまあ、なんだか分かったふうなことを言っているけれども、それについて私がなにか知っているというわけではない。これまでどっかで読んだ本の受け売りである。「そしてそこには死はなく、永遠の生があった」なんて書いたけれども、具体的な意味が分かって書いているわけではありません。

        けれども、この物語の後半部分、煩悶を経て主人公が光りを見出すに至った経緯は、トルストイの実体験に基づくものだろう。そうして、彼がここで描いている人々の暮らしは、何度も繰り返すようだけれども、われわれの暮らしそのものであって、そういったものが虚偽であるという指摘は説得性を持っている。というか、おそらくそれは正しいのだろう。

        では、そのことがわれわれにどういう意味をもつのか。
        トルストイはわれわれに何を呼びかけているのだろうか。

        イワン・イリイチの煩悶と苦悶を、われわれは皆、死ぬ寸前に抱えるだろうということだろうか。われわれも彼と同じように、自己の人生の意義に根本的な疑念を抱き、のたうち回るだろうということだろうか。死の寸前の断末魔の苦しみというのは、人々がこういうことを自覚して苦悶している姿なのだろうか。

        そうしてわれわれもまた、死の間際に光を見出すだろうということだろうか。

        そんなはずはない。
        まず、多くの人々にとって、トルストイの問いは問いにならない。呼びかけにもならない。イワン・イリイチの妻にも、娘にも、息子にとっても、その問いとは関係なく人生は過ぎていくだろう。われわれの多くにとってもそれは同じだろう。

        人によってはたしかに、同じような疑念が、死に至る寸前かも知れないし、トルストイ自身のように名声を極めた後かも知れないし、夏目漱石のようにロンドン留学中かも知れないけれども、そのような疑念が襲ってきて徹底的に苦しめられる、そういうことはあるだろう。多くの若い人々のように青年期にそのような疑問に囚われ、それが後々ふとした瞬間に頭をもたげてくるということはあるだろう。

        結局その問いは「おまえは何のために生きているのか」ということに尽きる。

        それは自分一個にかけられた問いであり、それにどう答えるかはそれぞれの問題である。
        はたしてトルストイはそれにうまく答えられたのだろうか。いやそれは僭越な問いだ。問題は一人一人にかけられている。トルストイの問題はトルストイ自身が解決しなければならず、われわれの問題はわれわれが解決しなければならない。そしてトルストイはその問題の彼なりの仕方での解決を、われわれの先達として、ここでわれわれに提示してくれているのだ。それをどうするかはわれわれ自身の問題だ。

        とはいえ、かりに人生が虚偽に満ちているとしても、その意義を問うことにどれだけの意味があるのだろうか。もしほんとうに人生が誤っているものだとしても、それをどうしようがあるのだろうか。

        この作品では、イワン・イリイチが最後の瞬間に光を見出し、ハッピーエンドの結末が訪れたことになっているが、はたしてほんとうにそうなのか。あそこでは光があった。あのようにトルストイは光を見出したのだろう。しかし答えを求めて得られない場合もあるのではないか。ひょっとしたらそういうことの方が多いのではないか。この問いを問うために出発しながら途中で遭難し、煩悶しながら倒れた人間の方が圧倒的に多いのではないか。だからそういうことはやらないほうがいいのではないか。

        いや、このような功利的な設問の仕方自体に実は問題があるのかもしれない。
        いや、しかしどうなのか。

        最初にこの作品は自然にできあがったふうにみえるといったが、実は巧みに構築されていて、われわれの行動や思考パターンも、すでに作者が予見しているようである。
        冒頭に置かれたイワン・イリイチの葬儀、同僚のピョートル・イワーノヴィチが死者の顔を眺める場面で、

        その顔は生前よりも美しく、そして肝心なことに、より威厳があった。そこには、なすべきことはなしてきた、しかも過たずなし遂げた、といった表情が浮かんでいた。
         おまけにその表情はさらに、生きている者に対する叱責ないし警告も含まれていた。その警告は、ピョートル・イワーノヴィチには場違いなもの、もしくは少なくとも自分には無関係なものと感じられた。
         なぜだか不快感を覚えた、ピョートル・イワーノヴィチは、もう一度そそくさと十字を切ると、われながら礼を失していると思われるほどの勢いでくるりと後ろを向き、そのままドアへと向かったのだった。(p17)

        われわれもドアから出て行くべきなのかもしれない。

        そして歳を取るということは、こうした問いや警告に対して、老獪になれるということでもあるのだが……



        ●「クロイツェル・ソナタ」

        クロイツェル・ソナタといえばべートーヴェンの有名な曲だけれども、どんな曲なのかは知らない。聴いたことがあるかもしれないけれどメロディは浮かんでこない。しかしこういうタイトルだから、きっとロマンチックなストーリーなんだろうなと思って読んでみたら性欲の話なのでびっくりした。こんなに有名で偉大で、しかも道徳的倫理的傾向が強いと思っていた作家の作品が、男女の肉体関係のことばかりだなんてスゴイ。

        だからといってセクシーな場面があるわけではないので念のため。トルストイはやっぱり真面目すぎるほど真面目だから、ここでのテーマは、男女の肉体関係および人としての正しい生き方とはどういうものか、ということのようである。

        この作品の中で、トルストイは女性が男性の性欲の対象としてしか扱われていないことを強調し、女性がそういうかたちでして生きていけない境遇を憐れむ一方で、そのために生じる女性の振舞いを浅ましいとして徹底的に非難する。

        「男が高尚な感情のことを持ち出すのは嘘をついているに過ぎず、男に必要なのはただ肉体だけである。したがって男はあらゆる醜行は許しても、無様であか抜けない悪趣味な服装は、許しはしない……商売女がこのことを意識的に知っているのに対して、穢れなき処女はみな、これを無意識に、つまり動物のような仕方で知っているのです。
         ここからメリヤスのセーターでボディ・ラインを露わにしたり、腰当てをつけてヒップをふくらましたり、肩や腰、はては胸までをむき出しにしたりといったファッションが生まれてくるのです。女性は、とりわけ男性経験から学んだ女性は、たいへんよくわきまえています――高尚な話題を巡る会話なぞはしょせんただのおしゃべりに過ぎず、男が必要としているのは肉体、および肉体をもっとも魅力的な光で浮き立たせてくれるものすべてであると。」(p180)

        「まったくこれはもう、遊歩道にも路地にもいたるところに罠が仕掛けられているようなものです。いやそれよりひどいくらいですよ! そもそも賭け事が禁止されている一方で、女性がまるで娼婦のような、性欲を刺激する衣装を着るのはどうして野放しにされているのでしょう! 女性のほうが千倍も危険でしょうに!」(p191-192)

        では作者にとって、理想的な男女の肉体関係のあり方というのはどういうものであるのか。それはただ、動物がそうであるように、子孫をもうけるためだけにおこなわれるガチンコ試合だけが、それにふさわしいものであるらしい。ところでトルストイが子供を13人ももうけたのは、そういうガチンコ試合がよっぽど好きだったせいではないか、おまけに私生児までもうけているのはいったいどういうことなんだ。トルストイの私生活を知った読者が必ず言ってみたくなりそうなことを私もここで言っておこう。

        トルストイはこの時61歳。単に若い者同士がいちゃつくのを許しておけない気難しいジジイと変わらない気もするが、そういう年寄りに限って、むかしは道楽をやり尽くしていたりする。それはともかくトルストイによれば、女性のそういう煽情的な態度や行動は、あくまで男性側に原因があるとする。女性を快楽の道具としか取り扱わないからだ。

        だがまあ、そういう考え方も含めて、ここで語られているのはすべて男性側からの理窟だな。トルストイはへりくだって語っているけれども、その謙遜は傲慢さの裏返しでしかない。

        しかし、これはこれで面白い理窟だ。
        この作品も、読んでいて飽きさせない。

        後半は、主人公とその美しい妻とのあいだに起こった事件が物語られる。それも一気呵成に読める。

        二つの作品とも、大人向けの作品だと思う。
        これをもし20代で読んでいて、そのあと読まないでいるとしたら実にもったいない。30代、40代、あるいはもっと年を経てから読むと、とても面白いと思う。身につまされるところが多い。

        トルストイはかなり面白い。そういうことを再認識できた一冊だった。
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        2017/12/04 by Raven

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      鼻

      浦雅春 , ニコライ・ゴーゴリ

      3.0
      いいね!
      • どれもクスッと微笑むような小話ばかり。
        しかも3作共に、落語調で訳されているため、頭に入ってきやすい印象。改めて日本人は落語が好きなんだと実感。
        本書の中で一番オススメなのは、やはり『査察官』。
        お互いの勘違いが更なる勘違いを生むその様は、例えが適切かどうかは分からないがアンジャッシュのコントのようだった。
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        2017/07/17 by okusena

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      コ-カサスの金色の雲

      PristavkinAnatolii Ignat'evich , 三浦みどり

      5.0
      いいね!
      •  著者は1931年生れで、子どもの頃=第二次世界大戦中は、孤児として妹と孤児院で過ごしました。その経験を元に書かれたものですが、粛清時代の「民族強制移動」という過去を舞台にしていたため発禁処分となりましたが、根強いファンの要請で日本語訳が出版されました。

         主人公はサーシカとコーシカという双子の兄弟。大体11歳くらいで、モスクワ郊外の孤児院にいます。大体11歳くらいというのは、兄弟は自分の誕生日など知らないから。

         しかし、500人あまりの孤児院の子どもたちは、突然、山間のコーカサス地方に強制移住させられます。

         この物語では、サーシカとコーシカはいつもひもじい思いをしています。
        おとなしく(子どもらしく)食事が出来るのを待っていても食事など出てこない。

         1944年、ソビエトの中では粛清、ドイツとの戦争、強制移住、内乱と大人ですら自分の事で手一杯なのに孤児の事などどうでもいい、というのがあります。

         だから、兄弟は自力で食べ物、食べられるものをくすねる、盗む、盗んだものを売り払って金を得る。

         では悲惨な暗い話ばかりですか?というとこの物語は力強さとカラリとした空気を保ち続けています。サーシカとコーシカは、大人というものをあてにしていない。

         だからこそ、サバイバルなのですが、孤児院の学芸会になると兄弟で舞台に立って歌う事ばかり考えていたりします。

         しかし、2人を取り巻く環境はあまりにも惨い。山というものがないモスクワの郊外から黄金の雲が山にたなびく・・・と言われるコーカサスへ。

        しかし、チェチェン人のゲリラたちがひそむのは山なのです。村を襲い、焼き討ちし、復讐を繰り返すチェチェン人たち。あえてそこに「孤児だから」と送り込まれた500人の子どもたち。

         衝撃的な出来事と生き延びる賢い知恵とがせめぎあい、緊張感が最初から最後まで途切れない小説を久々に読みました。
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        2018/07/07 by 夕暮れ

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      イワンのばか

      金子幸彦 , レフ・トルストイ

      4.0
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      • 子どもの頃に聞いた(読んだ?)記憶があるが、馬鹿といわれるイワンが実際は一番立派で賢いんだというくらいで、何となくとしか覚えてなかった。(文豪トルストイの作品だったことにびっくり!)
        大人になって読むと、深いね~。やっぱり文豪だね。名作です。すばらしい!(青空文庫、菊池寛の翻訳で「イワンの馬鹿」のみ読みました)

        兵隊で、戦争に行き高い位と広い領土を得て、王様の娘を嫁にもらった兄シモンは、人や金をうまく治めることが出来ない。浪費家の嫁によって、結局貧乏になる。そして父親を当てにする。
        シモンは三毒のなかの「怒り」(暴力、権力)かな? そして「無智」

        ふとっちょの商人兄タラスは、欲張りで失敗し、借金まみれになり父親にせびりに来る。
        タラスは「欲」そして「無智」

        頭が足りないと兄たちから馬鹿にされるイワンは、家族のために正直にこつこつと働き続ける。欲も怒りもない。

        兄たちから頼まれれば快く引き受けるし困っていると聞けば家の財産を好きなだけ分けてやる。兄嫁から「臭いから一緒に食事したくない」などと非道いことを言われても 「いいともいいとも」と、外で食べる。
        どんな困難なことがあっても、くじけず(気にせず)出来るように工夫しては真面目に働き続ける。

        悪魔達は兄弟げんかをさせたい。しかし、兄たちを困らせるのは簡単だが、イワンは平気で働き続けるし、兄達にも優しいので全くけんかにならない。悪魔に対しても「神様がお前をお守りくださるように」なんて言う。何に対しても「いいともいいとも」と、受け入れる。

        さらにお話は続き、3人それぞれが国の王様になるのですが・・・

        この作品を読んでいると、
        いかに欲や権力や暴力が愚かなことかがわかります。
        欲がなく、ありのままを受け入れ、誰に対してもやさしく、どんな時も真面目に働くイワンが、一番賢いし、一番幸福な生き方なんだということがよ~く解る。

        私もイワンのように「いいともいいとも」とすべてを受け止められる、柔軟で広くて強い心をもてるようになりたいと、思います。

        「馬鹿っ、いうもんが馬鹿」これは真実だね。
        (「お前は馬鹿、自分はちがう」という者が本当の馬鹿。自分が馬鹿だと解っている人は言わないし、言われても「そうだよ~」って言える。エゴをなくして賢く生きたいものです)

        これからも何度も読み返したいと思います。
        他の作品も読みたいと思います!
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        2013/10/24 by バカボン

      • コメント 4件
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      スペードの女王

      PushkinAleksandr Sergeevich , 神西清

      5.0
      いいね!
      • 本当面白かった。
        ひさびさに手に汗握る小説を読んだ気がする。


        この主人公のゲルマンもまた、オネーギンと同じぐらい愚かだなぁと思う。
        リザヴェータに真心を尽くしてれば、愛をこそ大事にしていれば、幸せになれたはずなのに。


        とはいえ、破滅もひっくるめて、手に汗握らせるこの面白さは、めったにないすぐれた短編と思う。


        また、この岩波文庫には、「ベールキン物語」も収録されていて、とても面白かった。
        「ベールキン物語」は短編が五つ収録されているもので、特に「吹雪」と「百姓令嬢」は、なんだかとてもいいなぁと思わされる作品だった。


        プーシキンの描く人々は、その愚かさや滑稽さもひっくるめて、なんときらきらと輝いていることだろう。
        >> 続きを読む

        2012/12/21 by atsushi

      • コメント 2件
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      罪と罰

      江川卓 , フョードル・ドストエフスキー

      3.0
      いいね!
      • 2005年4月読破。

        2015/12/17 by Y96

    • 9人が本棚登録しています
      罪と罰

      江川卓 , フョードル・ドストエフスキー

      4.0
      いいね!
      • 2005年4月読破。

        2015/12/17 by Y96

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