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1963年5月発行の書籍

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      史記 中国古代の人びと

      貝塚 茂樹

      中央公論新社
      カテゴリー:中国
      4.0
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      • 中国最高の歴史書「史記」の著者、司馬遷は極めて興味深い人物です。「天道是か非か(天道是邪非邪)」という言葉は、その史記を貫く大テーマです。私は大学教養課程のころ、司馬遷=史記に関する授業を聴講していましたが、このときの講師もこの「天道是か非か」という言葉を重視していました。なかなか良い講座でした。



         史記は紀伝体(⇔編年体)という形式を持った歴史書です。年号は付随的でもっぱら人物の言動を記述します。構成は10表(年代の明記)、12本紀(帝王の伝記)、8書(礼、楽、軍事、治水など)、30世家(主君の支えになるもの)、70列伝(一般庶民)あわせて130巻、52万6500字からなる大著です。老子が5000字強程度ですから、老子約100冊分の分量で、司馬遷のころは紙はなく、竹簡や木簡に記したので、かさばったことでしょうね。



         さて、「天道是か非か」ということに関して、列伝1巻目の伯夷・淑斉のあわれな死に様が有名です。悪辣な暴君だった殷の紂王(ちゅうおう)を武力で倒した周の武王に対し、非道だから止めなさいと意見したのがこの兄弟です。周の世になって「われわれは周の食糧は口にしない」として、首陽山で蕨(わらび)を取って食べ、栄養失調で死ぬというお話ですが、どこにもこの兄弟には落ち度はない、どうして天は善人を見放すのか・・・司馬遷には理解できないのです。



         老子79章に「天道は親無し、常に善人に与す」という言葉がありますが、この言葉は司馬遷の「天道是か非か」という言葉に比べると、あまりに楽天的に過ぎるようです。司馬遷は、「天の摂理などあるものか!」という心を持っていたように思います。彼の慟哭です。



         それはなにより司馬遷自身が厳しい運命に翻弄されたからかも知れません。中島敦の遺作にして最高傑作である「李陵」に詳しく書いてありますが、漢の将軍・李陵が匈奴の囚われの身になったとき、漢の武帝の御前会議で、諸官が李陵を悪くいうのに対し、司馬遷は李陵の弁護を堂々と行いました。それで激怒した武帝は司馬遷に刑を下します。



         それはもっとも醜い刑・・・宮刑です。男子の生殖機能を奪い去るこの刑は、司馬遷にとって死刑よりも屈辱でした。いえ、司馬遷だけではなく、男たるもの全員が屈辱を感じる刑でした。でも、彼には父・司馬談から委嘱された歴史書の編纂という大事業があったので、恥を忍んで生き延びたわけです。



         その意味で、「天道是か非か」という言葉は、司馬遷自身の運命にも深く関わるものなのです。実際、列伝のなかに、司馬遷自身が自伝として書いた「太史公自序」も入っています。(太史公=司馬遷)



         この稿を書くに当たって、「史記」(貝塚茂樹・中公新書)を参考にしましたが、なかでも第7章・大帝国の土崩瓦解 始皇本紀・李斯列伝・陳渉世家  が読み応えがありました。始皇帝を名乗った「政」は、秦の血統とは無縁な出自です。つまり、呂不韋(りょふい)という商人が囲っていた美しい女性を秦の皇太子が所望し、しぶしぶ差し出したのですが、そのときには、その女性の腹にはすでに呂不韋の子が息づいていたのです。



         これが政。彼の苛烈な性格は、この尋常ではない出自が形作っていたのでしょう。そして、始皇帝は大胆な政策を次々に行い、文字通り大帝国になりました。



        その大帝国の秦が、始皇帝が亡くなったあと、諸制度の不備のためか、それとも法が偏っていたかで、始皇帝が長男・扶蘇(ふそ)を跡取りに指名した文書を趙高(ちょうこう)という宦官(かんがん:宮廷務めのために男性生殖器を取り去った者)が総理大臣・李斯(りし)と始皇帝の次男・胡亥(こがい)と共謀し、握りつぶすという非道さぶり。あとで失脚しますけど。



         趙高が李斯を口説くとき、「断じて敢行すれば鬼神もこれを避く:不退転の決意で行えば、神も鬼もその人物の邪魔をしない」という名言を使ったのも有名です。こんな素晴らしい言葉が、悪事の共謀へ勧誘する言葉に使われるとは。加速度的に秦は滅びます。「宦官」は、身分の高い人の秘書とか雑務を執り行う存在ですが、権力欲の大きなものがその地位に就くと、情報の壟断をしばしば行い、帝国の運命を変えてしまうことさえあるのです。




        最後に:私は、漢の武帝は、大した君主ではなかったと思います。李陵の処遇に関する会議で、自分にこびへつらう大臣ばかりで、ちょっと浮かれていた武帝に、冷や水をぶっ掛けるような司馬遷の正論。おそらく武帝は心のどこかで「この男の子孫は、わが皇帝家を脅かすかもしれない、いや、そうに違いない・・・恐い!!」と考えたのではないか、と私は推測しています。ときに司馬遷48歳、子供がいたという話は聞きませんので、彼の代で彼の系統の優れた子孫は残せなくなったわけです。



        また、漢学者の貝塚茂樹さんは、学者一家の出で、物理学でノーベル賞を取った湯川秀樹さんの弟で、また同じく漢学者であり「老子」に名訳注をつけた小川環樹さんの兄です。
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        2013/04/08 by iirei

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