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夢枕獏
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夢枕獏は、伝奇バイオレンスや幻想小説、山岳冒険小説など多彩な作風を持った作家だ。しかし、どの小説でも彼の文体は不思議と変わらない。情感や臨場感を伝えようと、独特の擬音や短い文章で言いきってしまう。そのため、どの小説にも夢枕獏という個性がにじみ出る。それは、この「陰陽師」シリーズにも言えると思う。ほとんどの作品が、安倍晴明の屋敷の縁側で、陰陽師の安倍晴明と武士の源博雅が酒を酌み交わす場面から始まる。季節やあやかしを酒の肴に交わされる二人の会話が、実に気持ちいいのだ。それは、夢枕獏の文体によるのだろうが、その会話の根底には著者の人生観が見え隠れするからだ。特に、第10回日本SF大賞を受賞した「上弦の月を喰べる獅子」において顕著だが、夢枕獏は「宇宙と人の摂理」をテーマとしており、この「陰陽師」シリーズでは、「呪」という概念にその一端が表れていると思う。自然の移り変わりや人の情念、あやかしという不可思議な存在を、陰陽道の「呪」という概念で鮮やかに表現しているのだ。しかし、源博雅はその説明を聞いてさらに困惑してしまう。源博雅のそんな微笑ましい純朴さこそ、この作品の一番の魅力だと思う。安倍晴明たちのところに舞い込む、数々の物悲しい事件も、この掛け合い漫才のような雰囲気があってこそ、一層引き立つものとなっているのだと思いますね。 >> 続きを読む
2019/01/21 by dreamer
井上 雄彦
この本の名言をご紹介します。***最後まで…希望を捨てちゃいかんあきらめたら、そこで試合終了だよ >> 続きを読む
2013/01/28 by 本の名言
堀茂樹 , アゴタ・クリストフ
久しぶりの小説は読書ログの課題図書(1月)。映画化もされたらしいですね。これは、、、おそろしい、、、。たしかに、衝撃でしょうね。でも、やっぱり、人間には本来慈悲の心というのは備わってない(育てるしかない)、ということかな、と思いました。生存欲だけで生きれば、こうなるということでしょうね。したたかに生き抜く、とはそういうことなのでしょう。戦時下、無慈悲な?祖母、偏見、などの環境で双子だけで生きる術を見つけていけば、こうなることはありうるでしょう。いくら”知能”が優れていようが、聖書を暗記していようが、双子の目に映る現実と生存欲の前ではどうしようもない。慈悲の心は育てられず、・・・それが自分に悪果となって返ってくるなどとは知らない。自分たちだけの世界に心を閉ざす二人には信じられるものはなにもない。現実の世界を見れば神様など信じられないし(何もしてくれない)、大人たちは汚いし。生き抜くには、自分たちの目と頭だけが頼りなんだから、この世の真理はいつまでも見えないし、慈悲の心も生まれない。幼い子どもがテロリストに洗脳されて、テロ要員として使われているらしいけど、この双子の場合は自分たちだけで学んだ結果、、、慈悲の心が学べなかったということかな。これは二人が書いた日記(作文)という形になっています。彼らは、>作文の内容は真実でなければならない。感情を定義する言葉は非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。と、感情(主観)はあてにならないのだから、事実だけしか書いてはいけない、というきまりで書いているのです(知能の高さが伺えるね)。それはそのとおりかも知れないけど、ありのままの人間の世界には慈悲の心はないとも言える(彼らの場合は慈悲の心の存在価値がわからない?)。だからこそ、どうにかして慈悲の心は育てなければいけないのだけど・・・。まだ二人の人生は終わっていないんだから、これからどうなるかはわかりません。「ふたりの証拠」「第三の嘘」と三部作になってるみたいなので、続きも読んでみたいと思います。ドキドキしながら、1日で読めます。 >> 続きを読む
2017/02/21 by バカボン
和辻哲郎
(中宮寺の思惟観音像について) --私達はただうっとりとして眺めた。心の奥でしめやかに静かに止めどもなく涙が流れるというような気持ちであった。ここには慈愛と悲哀との杯がなみなみと充たされている。まことに至純な美しさで、また美しいとのみでは言い尽くせない神聖な美しさである-- --およそ愛の表現としてこの像は世界の芸術の内に比類の無い独特なものでは無いか-- --愛らしい、親しみやすい、優雅な、そのくせいずこの自然とも同じく底知れぬ神秘を持った我が島国の自然は、人体の姿に現せばあの観音となるほかはない-- 仏教界では、苦に満ちたこの世、此岸と、そうした苦しみや煩悩から解放された世界、彼岸の間に、一筋の、しかしとても大きな川が流れているようです。 彼岸に渡れ、とは釈迦の言葉。 此岸から彼岸に渡る船を漕ぐ仏僧。 修行僧が自力で、自分一人乗れる船で渡るのが、小乗。 衆生と共に渡る大きな船を用意するのが、大乗。 そして、衆生の苦しみの声を、遍く拾い救うのが観音菩薩。 大乗の精神は、浄土真宗(蓮如)で完成されたと個人的には感じています。 阿弥陀仏と言うだけで、否、言わずとも、一切衆生を救うのが仏の精神。 救われたいと、思った時に初めて救われるのではなく、既に救われている自分を自覚する契機が、念仏の一言に過ぎないと。 いささか都合が良いように聞こえる気もしますが、我が子への親の愛を考えれば深く頷ける精神です。 我が子が、どっちを向いていようとも、親を忘れようとも、常に親は子を見続けています。 我が子が、苦しみにぶつかり助けを求めたとき、その手を差し伸べない親はないでしょう。 その慈愛の精神を、仏像として完成させたのが、あの中宮寺の思惟観音菩薩像、と、和辻はうたいますし、私自身、間近で観て圧倒され、深く頷く次第です。 はじめて、仏像を観て、美しいと感じました。 時間を超えたどこかに連れて行かれたような感覚で、見とれ続けた記憶があります。 非常に味わい深い和辻の古寺巡礼の名著、法隆寺の回は何度もありながら、最後にこの思惟観音への一筆で終わるところも心を打ちます。 繰り返し行きたい名刹です >> 続きを読む
2018/06/07 by フッフール
中村元
難しい
2017/01/18 by 匿名
潁原 退蔵服部 土芳向井 去来
『去来抄』『三冊子』は芭蕉の俳諧を理解するために最適の書と言われています。『去来抄』は構成が『論語』に似ていてちょっと面白い。去来が芭蕉から聞いたことを弟子に伝えたり、直接去来が芭蕉から聞いた言葉を載せています。同じ俳諧を目指す師弟の芸術に妥協しない緊張感に満ちたやりとりがあったり、去来が師からほめられて得意げにしている様子が目に見えるような描写もあってなかなか面白い本です。特に面白かったところを一つ。 じだらくに寝れば涼しき夕哉 猿蓑撰の時、宗次一句の入集を願いて、数句吟じ来れど、取るべきなし。一夕、先師の「いざ、くつろぎ給へ。我も臥しなん」とのたまふに、宗次も「御ゆるし候へ。じだらくに居れば涼しく侍る」と申す。先師曰く「是、発句なり」と、今の句に作りて、「入集せよ」とのたまひけり。 芭蕉は作為のある句を嫌い、自然に生まれ出る句を愛しました。ここでは「猿蓑」という句集に弟子が一句入れて欲しいと願っていくつか句を作ってきたが、よい句がなかったところ、普段のふとした言葉を芭蕉が捉えて、これが発句だと言ったという話です。芭蕉がいついかなる時も俳諧のことを忘れていないこと、弟子の句を入れてやろうと気に掛けていることが感じられて微笑ましいです。 『三冊子』は服部土芳が書いた俳論書で、『去来抄』よりも論としてまとまった体裁を取っていて硬いです。「付け」とか実際の俳諧の方法が知られて興味深いです。また、いくつか「改作」が示されていて(『去来抄』にもある)、こっちの句よりこっちの方がいいということの理由が詳しく書かれていて、私のような者にも、何が「俳味」であるのかがよく分かります。理論をあれこれ読むよりもやはり実作を目にする方がよく分かります。この辺は『六百番歌合』と似たところがあります。これは藤原定家の判が詳しく、和歌の優劣がどの辺で決まるのか、つまり和歌の美とは何かがよく分かるのです。 何にせよ、古典は年を重ねるごとに面白い。また、芸道を極めた人の言葉には聞くべき事があります。「プロフェッショナル仕事の流儀」と同じですね。 >> 続きを読む
2013/06/28 by nekotaka
北杜夫
強烈な力を持つ結婚詐欺師と、それを追う警察。広義ではSF。ナンセンスという方が実態に近い気がする。少し前に「イチローを育てた鈴木家の謎」という作品を読んだ。あとがきで、著者である斎藤茂太氏の弟が北杜夫氏という情報があり、かつ偶然、本作品を見かけたので運命的なものを感じ、手に取った。面白いもので、本作品の中でも、父である斎藤茂吉氏の名前は登場する。苦手な分野として認識している安いSFというかナンセンスもので、基本的には好きでは無いのだが、苦手分野の作品の中では面白かったと言える。何も得るものは無いけれど、嫌味が無いので拒絶反応も抑制されていると言うことか。ナンセンスものの中身について語ること、それ自体ナンセンスな気がする。 >> 続きを読む
2012/07/23 by ice
群ようこ
群ようこさんの本は殆ど読んでことが無かったが、色々エピソードもあり面白く読めた。エッセイはサクット読めるのが一番・・・ >> 続きを読む
2015/09/18 by kazenooto
岩明 均
寄生獣 第2/全10巻母親まで毒牙にかけられたことで、否応なしに強さを持つことになった新一。母親を亡くしていることから、新一と母親とのエピソードに泣けた。学校に乗り込んできた敵を何とか撃退する新一とミギー。生きるために、寄生する必要が有る彼ら。倒したつもりが、他の人間への寄生と言う形で、生命を存続されては人類に勝ち目がないようにさえ感じてしまう。旅行に行った新一の両親。その先で、母親が彼らの毒牙にかかってしまう。これまで人類侵略の事実を知りつつも、どこか及び腰だった新一だが、母親をも奪われた引き換えに、強さを得た気がする。思春期ならではの母親との確執。母親が自らを守るために身を呈した結果の火傷の傷。母親を失ったのは、数年前なので、思春期だった新一ほどの後悔は無かったものの、やはり、この手の話は、いまだに泣かされてしまう。母親に寄生した彼らが、父親の元に必ず現れると踏んで、待ち伏せする新一だが、そこで出逢ったのは、ミギーのように脳への寄生に失敗し、顎辺りに寄生したタイプ。彼らの目的が全人類の根絶で有る以上、相入れるはずはないのだが、新一とミギーとの間には、少しずつ友情めいたものが醸造されて来たように思う。 >> 続きを読む
2013/02/07 by ice
小池 一夫
オークション・ハウス 第1/全34巻絵画取引を仲介するオークションハウス。その冴え渡る目利き。こんなシチュエーションを良く思いつくなぁと驚かされる。億単位の名画を商うオークションハウス。高額な作品が流通するだけに、贋作も多く、目利きの腕が勝負の世界。そんな世界で数々の実績を残す凄腕の日本人。それが柳宗厳。両親が画商で、フェルメールの名画を競り落とすも、その夜に強盗に押し入られ、両親を殺害されるという壮絶な過去を持つ。数々の贋作との勝負や、様々な謀略。やはり高額なお金が行き交う場所なので、スケールの大きいエピソードにも事欠かないのだろう。絵画に造詣が深ければ、きっともっと楽しめると思うと残念では有る。 >> 続きを読む
2012/10/31 by ice
司馬遼太郎
司馬遼太郎。韃靼、後金……、明、歴史の教科書でしか目にしなかった言葉に次々と命がやどり、姿が現れ、目の前で平戸の一侍の目を通じて生き生きと動き出す。恥ずかしいのだけども清王朝が韃靼(後金)から興ったという事を初めて知った。後半がとても楽しみ。司馬遼太郎御大の独特の言葉遣いも魅力。「会う度にアビアの鋭い表情に微笑が浮かぶことが多くなった。萱(かや)の葉末で切ったような笑顔だった。」(p.120)主は当時の韃靼の言葉や浙江語など、どのように調べたものか。司馬遼太郎先生の調査の凄さを改めて実感しながら。 >> 続きを読む
2016/08/27 by やむやむ
浅倉久志 , フィリップ・K・ディック
ディック傑作集第1巻。面白すぎて、過去に何度読んだかわからない。傑作集2巻から4巻、その他の短篇集も読んだが、本書がベスト中のベストだと思っている。それほど面白い話が集められている。特に、「報酬」と「パーキー・パットの日々」は圧巻である。ラストで突き放されたような気分になる「ウーブ身重く横たわる」「変種第二号」「にせもの」「植民地」、冷戦の恐怖が色濃い「たそがれの朝食」「フォスター、おまえ、死んでるところだぞ」など、ページをめくる手が止まらない。今回読み直して、1970年代に第三次世界大戦の可能性と水爆の恐ろしさに、子供ながら怯えていたことを思い出した。「パーキー・パットの日々」は、水爆戦争後の地球で生き残った人々が人形遊びに夢中になっている世界を描いている。戦争を生き延びながらもなお、競争に興じる大人を冷めた目で見つめながら、子供たちはナイフや原始的な飛び道具で狩りをする。たとえ世界が滅んでも、歴史は繰り返される。「フォスター、おまえ、〜」は核シェルターに異常に固執する少年の話だが、シェルターに限ってみれば今日の引きこもりにも通じるような現代的な問題もはらんでいる感じがした。ディックの描く世界を象徴するようなカバー絵も印象に残る。 >> 続きを読む
2017/09/14 by Kira
TabucchiAntonio , 須賀敦子
二、三年まえの雑誌『ユリイカ』に、わたしをウキウキさせる特集があった。アントニオ・タブッキの特集である。殊に、作家の堀江敏幸さんと、タブッキの翻訳も手掛ける和田忠彦さんの対談がおもしろく、それを読むあいだに多くの記憶が甦ってきた。 わたしが最初に読んだ堀江作品は『熊の敷石』で、堀江さんはこの作品で芥川賞を受賞した。『熊の敷石』を読んでいるとき、わたしはタブッキの匂いを感じていた。もちろん、堀江さんは、わたしが名も知らぬフランスの小説を多く読んでいるはずなので、堀江さんとタブッキを結びつけることは性急にすぎた。しかし、この『インド夜想曲』と『熊の敷石』はじつに通い合うものがあるのだ。その謎がこの対談ですこし明らかになった。 タブッキを読むとき、いや大抵の小説を読むときにいえることだが、あまり初読をあてにしてはいけない。たぶんナボコフの言葉にこんなのがあった。 「小説を読むことはできない。小説は再読されるものだ」初読ではどうしても筋を追う読み方になるし、すぐれた小説の見るべきところは、いかんせん恥ずかしがり屋で、それを味わうためには再読が必要なのだろう。タブッキもそれを要求する。 『インド夜想曲』も初読の段階では、インドを巡る幻想めいた冒険という印象を受ける。が、筋を忘れない程度に時間をあけてまた読むと、かなり違った読書体験になると思う。用意された容器に神秘的な水が注がれるように、タブッキの世界を味わうことができる。登場人物たちのやりとりや、たくさん出てくるホテルの情景に魅了される。幸い、この小説は短い。150ページだ。気になった人は是非、タブッキの本を手に取ってほしい。 >> 続きを読む
2015/02/18 by 素頓狂
瀬川康男 , 木下順二
平知盛については、木下順二の思い入れの深さと文章は本当に際立った、とても心に残るものがあった。「子午線の祀り」という知盛が主人公の戯曲も木下順二は書いているそうなので、それもぜひいつか読んでみたい。知盛が一の谷の合戦で、目の前で自分の息子が戦死するのを見ながら撤退せざるを得なかったということを、どうも今まではっきり記憶になかったので、この絵本でとても哀れを誘われた。壇ノ浦での最後の采配も、負けたとはいえ、見事だったと思う。歴史には時折、このように、とても不運でありながら、大きな悲しみを持ちながらも、最後まで全力を尽くした人が時折いる。そのような人こそ、勝者とはまた違った意味で、本当の英雄と呼ぶべきなのかもしれない。 >> 続きを読む
2013/08/04 by atsushi
高野 豊
1991年の本なので、もう20年前にもなると言うことは、まだ頭髪も寂しくなる前に読んでいた本。当時はまだコンピュータ技術者と言えばUNIX使いだった頃。管理者たるrootユーザは憧れの的だった。この本はなんと言ってもタイトルが気に入った。「rootから/へのメッセージ」業界関係者以外には全く伝わないとは思うが、我々の業界の属している人間には、このスタイリッシュさに共感する人は多いんじゃないだろうか。ちなみにUNIXでは「/」もルートと発声するので、「るーとからるーとへのめっせーじ」となる。もう業界人向けバリバリに書くが「管理者から全ファイルシステムへ」と読み下すのは直訳というもので、当時は「管理者から全ユーザへ」と神からの啓示のように感じたものだ。内容は、バリバリのUNIXネタかと思いきや、車や電車への想いが溢れていたり意表をつかれた面は有ったが、憧れのrootの趣味嗜好を垣間見た気がして悪い気はしなかった。今やWindowsどころかiOSまで、多くの実用的なオペレーティング・システムが稼働するに至ったわけだが、リスペクトするデベロッパは例外なくUNIX使いである。若い同業者には、デベロッパの嗜みとして王道UNIXに触れ、業界のメインストリームを闊歩して欲しいと願っている。ただUNIXはゲーム環境としてはどうにもならないために、自宅のSolarisは常時起動サーバとしては稼働しているものの、ここ何ヶ月もログインしていないことに愕然とした・・・。 >> 続きを読む
2012/08/25 by suppaiman
手島郁郎
今までの巻と同様、この巻もとてもためになった。「心を尽くし」という言葉の意味は、「心の全てで」という意味だとのことで、なるほどと思った。また、福音書におけるイエスは、豊かな感情と熱い心の持ち主で、決して悟り澄ました無気力な人間ではなかった、という話も、なるほどと思った。また、神というのは、「あなたの神」、つまり他ならぬ自分自身にとっての神でなくてはならず、他人の神ではないということ。つまり、自分の人生を通じて、自分を今に至るまで守り育んできた何か、その存在を愛し尊ぶことであり、理論や他人の神のことではない。という話は、なるほどーっと思った。また、愛は理由やなぜということは不要なことで、「他」に仕え愛することだという話も、なるほどーっと思った。「内なるキリストに導かれ歩む」こと、すべて天に聞くことが信仰だという、著者の信仰の深さには、ただただ脱帽するのみ。「愛とは開かれた魂」だということも、なるほどと思った。また、神が死んだのではなく、人間の神経験が死んだのである、ということも、なるほどーっと思った。自分だけで聖書を読んでいたのでは、なかなか気づけない、いろんな鋭い指摘や理解に満ちた、良い本だった。 >> 続きを読む
2013/06/21 by atsushi
全六巻なので、これで全巻読破したことになる。本当にすばらしかった。六巻は、マタイによる福音書のラストの方の、ゲッセマネの祈りや十字架の道行から最後までだったのだけれど、はじめてそういう意味だったのかー!とわかることも多々あり、本当に良い解釈や解説でありがたかった。日々に最後の努力と思って努力し、「今日が最後、今日が最後」と、神の前にいつでも帰っていけるように努力することが本当に生きること、という話は、なるほどーっと思った。また、「愛とはすべてを知ること、すべてを知るとは、すべてを許すこと」という言葉と、イエス・キリストが最後まで自分を裏切るユダを「友よ」と呼び、愛していたことに、あらためて思い至り、とても胸を打たれた。ユダヤは、「この一人」とマルコによる福音書では表現されていて、つまり弟子の中でも第一人者だったそうである。ユダとペテロの悔い改めの違いの話も興味深く、どちらもキリストをいったんは裏切ったが、そのまま立ちかえらなかったユダと、立ち帰ったペテロの違いということは、とてもためになった。ユダのように死んでお詫びをするということよりも、ペテロのように己の至らなさの痛みや嘆きのなかでそのままで再びみもとに立ち帰ることこそが、信仰というものなのだろう。また、マルティン・ブーバーの、「困難、それはあなたが乗り越えるためにある。」という言葉も心に響いた。ゲッセマネの祈りについて、キリストがあれほどに祈っていたのは、自分の十字架の道行が無事に成し遂げられるように、途中で殺されたり中途で終ってしまうことがないように、犬死とならぬように、という願いの祈りだった、という解釈を著者は示していて、今までそのようには考えたことがなかったので、とても胸を打たれた。人は、真っ直ぐに自分の死を目標にして、生きていくべきだという話も、心にしみた。魂の力をつくる宗教教育、魂の教育が今の日本には欠けがちだというのも、本当にそのとおりと思う。著者が言うには、「どうぞ、つぎの瞬間はどう過ぎ越せるか、教えてください。」と祈り、全てを神に聴き、神に従い、神と共に生きるのが信仰ということだそうである。各自が神の子である自覚を持つに至り、その各自がキリストに神の子として仕えていくことが、信仰というものだそうである。なかなか、その域には、自分を振り返ると、到底なれていない。しかし、「祈りとは、神の心を求めることであり、自分の心を押し付けることではない」という言葉は、とても心に響いた。さらに、著者が言うには、政治は民主主義でも良いが、宗教は民主主義的であってはならない、横並びの平凡な安全を求めるようなものではなく、偉大な魂に聞いてこそのものだという話は、とても面白かった。民主主義の束縛から離れることが、宗教においては大事だという。最高のものに従って導かれてこそ、宗教だというのは、そのとおりと思う。「私は一筋に神の声を聞いて生き、生き抜きます。普通の人と違った道行をします。」と思ってこそ信仰だと著者は述べるが、たしかにそれぐらいの覚悟があってこそなのかもしれない。「大事なことは、この時代から解放されることです。この誤った時代から抜け出して、エクソダス(出エジプト)することです。そして短い人生ですけれども、躍動するような充実感に生きとうございます。」という著者の声は、俗耳には受け入れがたいものだろうけれど、たいしたものだなぁと感嘆した。また、十字架の心とは、天を見上げ、人の罪を見ないものだった、というのはなるほどと思った。さらに、十字架の戦いとは、神殿の幕が切り落とされたことで象徴されているように、形式的宗教の打破だった、ということも、なるほどと思った。現代人の俗耳には一見受け入れがたい言葉の数々が、そうであればこそ、とても貴重だと思う。自分はどういう人生を送るか、何に向かって進むか、真剣に考えることが大切だというメッセージも、なるほどと思った。著者の手島郁郎さんは、もう三、四十年前にお亡くなりになっているけれど、本当に真剣に真摯に生き抜いた生涯だったのだろうと思う。この全六巻のマタイ伝講話にめぐりあうことができ、読むことができて本当に良かった。また、いつか再三再四、読み直したい。 >> 続きを読む
2013/07/01 by atsushi
中原中也
宮本輝
富野由悠季
出版年月 - 1991年1月発行,出版の書籍 | 読書ログ - 読書ファンが集まる読書レビューサイト
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