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(株)新教出版社 (シンキヨウシユツパンシヤ)

企業情報
企業名:新教出版社
しんきようしゆつぱんしや
シンキヨウシユツパンシヤ
コード:400
URL: http://www.park11.wakwak.com/~shinkyo/
      ラビの聖書解釈 ユダヤ教とキリスト教の対話

      MagonetJonathan , 小林洋一2012/02

      カテゴリー:聖書
      5.0
      いいね!
      • 非常に面白かった。
        目からウロコのことがたくさんあった。

        著者は、進歩主義ユダヤ教の世界的にも代表的な方で、私も二回ほど講演を聴き、質問をさせていただいたことがあるが、本当にすごい知恵で、甚だ驚嘆した。

        それで、この本も読んでみたのだけれど、想像以上に面白かった。

        モーゼの十戒について、その内的関連性を説き明かす箇所は、本当に目からウロコだった。

        また、何よりも衝撃的だったのは、アブラハムがイサクを神に捧げようとした、創世記の有名な箇所についての解説である。
        一般的には、アブラハムは信仰の模範者だとこの箇所をもって後世に受けとめられてきたが、ヘブライ語原文に基づく精緻な解釈により、全く別の解釈がここでは示される。
        つまり、アブラハムは神のテストに不合格だった、本当はこのような無体な命令が出された時に、それを拒否して、神との対話を始めることを神は期待していたのに、アブラハムは何も拒否も対話も始めず、ただ従おうとしてしまった、神はアブラハムほどの人でも人間の良心に限界があることを「知った」、という解釈である。
        詳細は本書を読んで欲しいが、一つの解釈として、非常に衝撃的だった。
        さらに、聖書本文の前後を詳細に考証した結果、長いユダヤ教の伝統では、一般的に少年のようにイメージされがちなこの出来事の時のイサクの年齢を、三十七歳と推定しており、それはとても納得のいく根拠が多数示されていたのだけれど、だいぶこの出来事のイメージが変わるという意味でも衝撃的だった。

        ルツ記に関しても、同様の出来事に対して模範的に振る舞うことにより、過去の過ちを「修復する」ものとして、ルツ記がユダヤ教の伝統では解釈されてきたということが、とても面白かった。

        第二部に収録されている、キリスト教とユダヤ教の対話についてのシンポジウムの記録も興味深かった。

        「宗教間での平和なしに国家間の平和はない。
        宗教間の対話なしに宗教間の平和はない。
        宗教のよって立つものを研究することなしに宗教間の対話はない。」(キュンク)

        「過去において、唯一神信仰の三つの宗教は、お互いの比較の中で自らを定義してきた。
        今は、お互いの関係の中で自らを定義することを学ばなければならない。」(マゴネット)

        「すべての真正の生き方は出会いであり対話である。」(ブーバー)

        「すべての真正な宗教的生き方は危険を冒すものである。」(マゴネット)


        という言葉も、心に残った。

        さらに、パウロの信仰義認説について、創世記十五章六節の、

        「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

        と訳される箇所が、ヘブライ語原文だと、五節の子孫繁栄の神の約束について、「アブラハムは神を信じ、そしてそれをみなした、彼に対する、彼の義として」という文章になり、アブラハムの神への信頼についての文章であり、主語を神として義認したという文章は、一つの解釈としては成り立つが、ヘブライ語原文は他の解釈にも開かれている、あくまで主語はアブラハムとして語られているのがヘブライ語原文の当該箇所である、という話も、とても衝撃的だった。

        信仰義認説は、一つの解釈としては成り立つが、ヘブライ語原文に即する限り、直接的な根拠は創世記の中に明確にはない、ということになるのかもしれない。
        著者は慎重な言い回しで、礼節をもって寛容に答えているが、私には非常に興味深いことだった。

        聖書に興味のある方は、ぜひ読んでみると良いのではないかと思った。

        それにしても、キリスト教のみでなく、ぜひいつか、ユダヤ教と仏教の高度な対話も実現して欲しいものであると思う。




        (追記:十戒についてのメモ)


        モーゼの十戒は、あまりにも有名で、なんとなく知っているつもりになりがちである。
        あまりその内的な構造はわからなく、なんとなく箇条書きに禁止事項がリストアップされているものと思っていた。

        最近、ジョナサン・マゴネットさんというユダヤ教のラビの方の本の中に、十戒の解説があって、それを読んで、はじめて目からウロコで、十戒の本当の意味と内的な構造がわかった。

        やや不正確かもしれないが、以下にその内容をまとめる。

        十戒は、簡単に言えば、前から四番目と五番目の、安息日と父母を敬う規定を中軸にして、前三つが神について、後五つが人間についての規定となっている。

        神の世界創造の七日間をそのつど想起する安息日と、自分をこの世に産んでくれた親の恩を思う父母を敬う規定は、「時」と「場所」の恵みを思い出して生きることを示している。
        その二つを中軸にして、前三つと後五つの規定で、神と自分以外の人間を自分の道具にしてしまうことを禁じている。

        つまり、十戒は、自分の命の出所に感謝し、神や人間を尊重しながら生きていく生き方を勧めている。

        最初の三つが神について、最後から五つのものが人間についての禁止事項で、対照をなしている。
        その間の二つが、両者をつなぎ、時と場所の恵みを現わしている。

        後半の五つの人間に関する禁止事項は、一見、箇条書きで関連もなく、殺人と姦淫と盗みと偽証と他人の所有を欲することを禁止しているように見える。

        しかし、なぜこの五つの戒めが挙げられているのかというと、聖書においては、結婚した男女はひとつの存在とみなされる。したがって、一方への侵害はもう一方の人格への攻撃とみなされる。
        また、十戒における「盗み」(ガナヴ)というヘブライ語は、聖書の中で、人身を誘拐し売買する際にも用いられる言葉であり、ここは盗み一般というよりも、奴隷売買のようなことを禁じているとも読める。
        偽証は、その人の信望や名への攻撃であり、侵害である。
        さらに、聖書では、所有は単なる物というより、その人の人格の延長とみなされる。
        したがって、この五つは、どれも、「神の似姿」としての人間の人格と尊厳を尊重することを命じ、自分の道具とするために攻撃したり侵害することを禁じているという意味で、深く関連している。

        さらに、最初の三つの、神が唯一の神であることと、偶像崇拝の禁止と、みだりに名を呼ぶことの禁止も、一見ばらばらに箇条書きが列挙されているように見えるが、そうではない。
        偶像崇拝は、神の権威と力の否定であり、その意味で、唯一の神の尊厳や人格への攻撃とみなされる。
        みだりに名を呼ぶことは、何か自分の目的や願望を達成するために呪術的に神の名前を繰り返す、いわば神を人間の目的とするための道具化であり、したがってこれも神の尊厳や人格の否定やそれへの攻撃とみなされる。
        つまり、この最初の三つは、どれも、最後の五つが人間に対してそうであるように、神の尊厳や人格を尊重することを命じ、侵害しないことを命じている。

        真ん中の二つは、安息日は、かつてのエジプトにおける奴隷の単調な時間のパターンを破り、自由な時間のパターンとすることであるし、さらには神が世界を創造した七日間をいつも思いだし、記念することである。
        父母を敬うことは、自分の命の出所を覚え、感謝し、大切にすることである。
        この二つを軸にして、前三つと後五つの、神と人への尊重義務が展開している。

        さらに言えば、本当は、ヘブライ語の原語では、「十戒」は「アセレトハ・デブロト」であり、「十の言葉」と訳すのが正しいそうである。
        「戒」、つまり「何々をすべきではない」という命令ではなく、「神との関係に入っているのだから、これらのことをもはやしようとは思わないでしょう」という語りかけのようなもので、「きっと、あなたは殺人はしないでしょう。」「きっと、あなたは姦淫はしないでしょう。」といったニュアンスのものだそうである。

        なんとも、箇条書きの厳しい律法と思っていた文章の背後には、なんと深い精神と慈悲が湛えられているものかと、読みながら、甚だ驚嘆した。
        ユダヤ教の深い解釈の伝統は本当にすごいものである。

        イエス・キリストは、律法において最も大切な箇所は、心を尽くして神を愛することと、隣人を愛することだと述べた。
        まさに、十戒の深い解釈と一致している。

        結局のところ、人生は、この二つに至極するのだと思う。


        参考:ジョナサン・マゴネット『ラビの聖書解釈』(新教出版社)第一章


        なお、十戒の本文は以下のとおり(新共同訳)。

        「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
        あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
        あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
        あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
        わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
        あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
        安息日を心に留め、これを聖別せよ。
        六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
        七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
        六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
        あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
        殺してはならない。
        姦淫してはならない。
        盗んではならない。
        隣人に関して偽証してはならない。
        隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
        (出エジプト記 第二十章より)


        「イエスはお答えになった。
        「第一の掟は、これである。
        『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
        心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
        第二の掟は、これである。
        『隣人を自分のように愛しなさい。』
        この二つにまさる掟はほかにない。」
        (マルコによる福音書 第十二章)
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        2013/06/29 by atsushi

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      文化の起源 人類と十字架

      田母神顯二郎 , GirardRené2008/03

      4.0
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      • 終電の社内で酔っ払ったスーツ姿の男性が、「社員が愛社精神を持ちうるかどうかは、明確な企業文化があるかないかで決まるんだよ~!!」と同僚らしき人に力説していたのが妙に引っかかったので読んでみた本。
        はっきりいって期待した答えは得られなかったけれど(笑)、別の側面でとても興味深い内容だった。


        著者は学会の中心から距離を置いている(置かれている)フランスの批評家らしく、彼がスタンダールやプルースト、ドストエフスキーなどから見出し、風雪に耐えて唱え続けてきたテーマをインタビュアーとの対談形式で炙りだすのが本書の趣旨。
        ではそのテーマが何かというと、「ミメーシス(模倣)とスケープゴート(供犠)」と「キリスト教」。


        模倣は、ミラーニューロンの発見によって脳機能として人間に備わっているものだと分かってきており、学ぶは真似ぶというように個人の成長や社会の発達に不可欠で一般に肯定的に捉えられ得るものだが、著者によるとそれこそが暴力を生み出す源泉だそうで、この視点に沿って社会における暴力の処理の仕方を俯瞰すると、以下の4段階で展開されているという。

        ① ミメーシス的欲望
        ② ミメーシス的対抗意識
        ③ ミメーシス的あるいは供犠的危機
        ④ スケープゴートによる解決


        まず①だが、前提に置かなければならないのが欲求と欲望の違いで、欲求は食欲や性欲など個人と対象との関係だけで成り立つのに対し、欲望は他者の所有物及び求めるものに対する欲であり対象との間に常に他者が介在する。
        つまり欲望の発生元は、ある他者を模倣のモデルにした際にそのモデルの対象物への欲求ないし欲望をも模倣してしまうという人間の性質であり、これが発動したのが①の段階。

        ②はモデルと同じ対象を欲したことにより生じるモデル自身に対する対抗意識。この状態を第三者が意識するとさらに対象の価値は上がっていき、結果対抗者が増えていく。

        それがエスカレートすると集団に闘争的エネルギーが生まれ、最終的には対象がそのものの価値から離れてただただ争いのための媒介となってしまい、ホッブスの言うところの万人の万人による闘争のような対抗関係が確立してしまった段階が③。

        そして、この対立関係にもはや解決策が無くなってしまった状態で、成員たちの暴力の矛先をスケープゴートという一点に集約し、極限まで高まったエネルギーを収めて共同体を自壊から救うのが④の段階。

        このように破滅を防ぐための暴力を組み込んで社会は成り立っていて、暴力の処理の仕方を洗練させて儀式化していく過程で、①や②をコントロールし暴発前に妥当性のある形で④をチョイスする仕組みとして禁忌や規範、制度など社会的なメカニズムが生み出されていったという意味で、模倣と供犠は文化の起源なのだという。


        その上で、こうした供犠選定の落としどころとして神に奉げるという方法をとったのが宗教だという見解の元、誰の中にも眠るこのような群衆心理をこそ悪と見なしたエポックメイキングな宗教がキリスト教だというのがもう一つの著者の主張。

        スケープゴートは成員たちの内面の不協和の矛先として設定される者であるが故に全員の敵でなければならず、(本当は)ミメーシス的危機の発端や拡大の原因でなかったとしても別要因で「罰を受ける妥当性がある者=悪の根源」とみなされてしまう。
        これはそもそもミメーシス的供犠を必要とする状況が先立っているからであり、本質的には誰がそうなってもおかしくない(もちろん文化的に妥当性のある理由で裁かれることもあるが、その裁きの基準自体は当該文化の歴史が作り出した必然ともいえるし、恣意的なものだともいえる)。
        例えば、荒れた学級で子供たちはその流れに乗る方が良いか静観した方が良いかを絶えず感じ取って負のエネルギーのたまり場にならないよう立ち回る。
        この場合、ミメーシス的供犠がうまく働いていると価値転換がうまい子供等によってエネルギーが無化されたり別の影響が少ない矛先に転嫁したりできるのだが、うまく働かないと頭が良いとか悪いとか醜いとか美しいとか目立つとか片親だとか不具者だとか他民族だとかであることをきっかけに選定された子供が、状況に沿った攻撃理由を後付けされ、陰惨ないじめに発展し悲劇的な結果に至ることもある(この後付け以前の不定形の動機こそがミメーシスが負に転んだ際の働きということ)。

        ところがこういった場合、加害者側が悪いのは被害者側なのだと本気で思っていることがある。これは、その(ミメーシスによる)いじめが集団の不協和解決のために行われたことであり、故にスケープゴート=悪、その他成員=正義であるという構図が半ば無意識に出来上がっているので、スケープゴートに悪を押し付けているという意識すらもたない(または意識にのぼらないようにする)から。そして、スケープゴートによる解決がうまく働くと、緊張関係が中和されるだけでなく以前より集団の結束は高まる。

        文化の起源から集団の安定に一定の機能を果たしてきたこのシステムに対して人が悪を為す根本的な理由を見出し、共同体の争いや危機を終わらせるために犠牲者の無実を顕在化させ、スケープゴートの儀式に頼らざるを得ないという必然性から人間を解放するという方法論をとったのがキリスト教なのだという説を著者は唱え続けてきたのだという。
        旧約における原罪をミメーシスの悪用、サタンを供犠的危機時の群衆の集団心理状態の比喩、新約でのイエスの受難をスケープゴートの本質的無罪の象徴と見立てることで、自身の暴力性と向き合わなければならない痛みは伴うが、罪悪(罪悪感ではない)を抱えることはない世界を希求するのがキリスト教であり、これは本質的にキリスト教者だけでなく誰もが責任を負うべき問題なのだと。


        と、実際に聖書を読んでいないので著者の主張の妥当性を確認する術を持たないままの感想だが、本書の趣旨を踏まえてキリスト教がミメーシスによる暴力との対峙を教義の根本に据えていたとすると、隣人の範囲を区切り、外部(=異教徒)を供犠にして内部の自浄化を保ってきたように見えるキリスト教の歴史的側面は、ミメーシスに抗うことの難しさを物語っているように思える。
        本書を読んだ後、自分なりにこの視点を持って暮らしてみたが、あまりにも多くの場面に供犠を見つけ(たつもりになっ)てしまい、抽象化すべき「群衆」を個人に投影する誘惑に負けそうな自分を見てしまったので、スケープゴートを発生させる回路から逃れることの難しさもわかる気がする。




        ということで最初の話に戻すと、明確な企業文化があると自他の区別がはっきりするので内部に適合した人は愛社精神のようなものが芽生えやすいかもしれないが、それを目的化すると多くのスケープゴートを(不当に)発生させる仕組みになりかねない。
        ただ、著者は一人の供犠に理不尽に全ての責任を押し付けるのではなく、制度上納得感のある適度な責任を無数の供犠に負わすという意味で資本主義を肯定しており、全く供犠のない世界を夢想している訳ではないようだ。
        そこで文化とはミメーシス的危機を解消させていく仕組みだという観点に立つと、供犠(=敵として作り出した他者)との関係性で独自性を見出す文化より、ミメーシス的群衆意識との対峙の元で(=敵をミメーシス的群衆意識と設定して)会社の目的と各成員の個性に基づいた組織の性格に(ミメーシスが無化できる領域として)価値を置きつつ、適度なミメーシス的欲望に基づいた競争を行う企業文化こそが望ましいということだろう。
        何にせよ、文化が暴力をコントロールするために形成されてきたという起源を持つとして、これを作ったり守ったりすることで新たな暴力が生まれるのであれば文化の退行と見なせるので、愛されるための決まりごとなんて作らない方が良いと思う。
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        2013/04/22 by Pettonton

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      雪国の小さな高校 基督教独立学園校長7年の歩みから

      武祐一郎2000/08

      5.0
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      • 世の中に、こんな学校が本当にあるんだと、
        読んでいて、とても驚き、そして感動した。
        本書は、山形県の小国というところにある、独立学園という高校についての本である。

        その地域は、かつては日本のチベットと呼ばれた、相当な山奥だそうである。
        内村鑑三が若い時に、外国人の伝道者が一度も訪れたことのない地域に伝道に行きたいと願い、その地域に行きたいと願ったが、諸般の事情で果たせなかったそうである。
        それで、後年、自分の弟子にその夢を話したところ、政池仁や鈴木弼美らが実際に伝道に赴き、特に鈴木はみずから東大の職をなげうってその地域に移り住み、そして独立学園をつくったそうである。

        一学年二十名程度の少人数教育を貫き、農業の実習や、聖書の特講などにも重きを置くそうである。
        六千字以上の論文や、スピーチや感話の体験も積ませるそうで、自らの頭で考え行動する独立人の養成を主眼にしているそうだ。
        受験教育には背を向け、個の自立や養成をこそ目指す教育を目指しているそうである。

        入学時に校長と結ぶ契約が四カ条あるそうで、男女交際の禁止などなかなかすごいが、案外こういった決まりがあった方が、高校時代も楽しいのかもしれない。

        神を恐れるのは学問のはじめ、ということで、謙遜つまり自らの無知を自覚することや、真理を愛すること、つまり虚偽を排する精神の涵養を重視しているそうである。

        また、音楽教育にとても力を入れてきたそうで、戦後間もない頃からコーラスなどに大変力を入れてきたそうだ。

        私も、このような高校を知っていて、縁があれば、こういう学校に行きたかった気がするし、もしそうだったらだいぶ人生も違っていたのかもなぁと思う。

        もっとも、本書や、著者の書物を通じて、その教育や精神の一端をうかがい知ることができるのは、幸いなことだと思う。
        >> 続きを読む

        2016/05/25 by atsushi

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      羊飼いの四本のろうそく

      ゲルダ・マリー・シャイドル (1988/09

      4.0
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      • 良い絵本だった。

        迷子になった一匹の子羊を探す羊飼いの少年。

        途中、出会った盗賊と狼と物乞いの人に、それぞれ親切に一本ずつろうそくをあげる。

        そのせいか。

        最後は、馬小屋に入り込んでいた羊を発見し、そこで生まれたばかりのイエス・キリストにも出会う。

        大切なことは、一匹の子羊を見捨てずに探すことと、出会った人に偏見を持たずに親切にすることなのかもしれない。
        そうすれば、思いもかけないような出会いや恵みにあうことができるのが人生というものなのかもしれない。
        >> 続きを読む

        2013/05/11 by atsushi

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      しあわせなろば

      藤本四郎2011/09

      カテゴリー:漫画、挿絵、童画
      4.0
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      • ほのぼのとした優しい気持ちになる絵本だった。

        他の動物たちから、のろまと馬鹿にされていたロバ。

        そのロバが、ある時、ある男性にひきとられて、身重の女性を乗せて、ずっと運んでいくことになる。

        優しいその男性と女性は、なんとヨセフとマリア。

        やがて、イエスが生まれてくる…。

        あとがきにも書いてあるが、たしかに福音書にはよくロバが登場する。

        ロバはよく愚鈍でおろかなもののように民話や説話ではとりあげられるそうだが、そのロバはキリストの生涯の大事な時に使われている。

        とりえのないようもなものでも、いや、そのようなものをこそ、かえってその謙虚さのゆえに選び、高くするのが、イエスの心だったのだろうか。
        そんなことに、あらためて気づかされた気がする絵本だった。
        >> 続きを読む

        2013/05/11 by atsushi

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